第千八百六十五話 女神とリョハン
会議場は、重苦しい空気に包まれていた。
毎朝行われる定例の会議がそのような空気に包まれるのも、別段珍しいことではない。珍しいことではなくなった、というべきか。
いや、最初から今日に至るまで、多少軽くなったことはあっても、基本的に重苦しいことに違いなどあろうはずもないのだが。
世界が破壊されて今日に至るまで、明るい話題があったことなどなかった。
二代目戦女神の誕生も、決して喜ばしい出来事などではなかったのだ。むしろ、先代戦女神の人間宣言と護山会議による統治運営の失敗を認めることであり、会議場の大半を占める護山会議の議員たちにとっての敗北ともいえた。
とはいえ、護山会議は、一度戦女神でなければリョハンは纏まらないという事実を認めた以上、当代の戦女神であるファリア=アスラリアを最大限尊重し、その意志、意見をもってリョハンの最高意思と定めることとした。でなければ、リョハンの人心は定まらず、混乱の内に瓦解していたことは火を見るよりも明らかだからだ。
確かにリョハンには実在する神がおり、その守護は完璧に近い代物だったのだが、だからといって人心が収まるかというとそういうわけにはいかないのだ。神となったマリクは元々四大天侍のひとりとして、リョハンの住民に広く知られ、敬愛されてはいた。だが、それは彼がリョハン始まって以来の天才武装召喚師であり、四大天侍のひとりだということによる敬愛であり、守護神としての彼を戦女神に成り代わる柱石と見ようとするものはほとんどいなかった。
やはり、リョハンには戦女神こそが必要不可欠であり、戦女神でありさえすれば、なんの実績もないファリア=アスラリアであっても受け入れられるのだから、人間というのはなんと愚かしいものかと思わざるをえない。
(愚か……いや、可愛いのさ)
アレクセイ=バルディッシュは、ファリアが戦女神を受け継いだ途端、瞬時に安定を取り戻したリョハンの事実を思い出し、胸中で皮肉をいった。
最愛の孫娘であるファリアを戦女神の後継者と定めたのは、ほかならぬ彼と彼の妻であり、前代の戦女神ファリア=バルディッシュだ。だがそれは、戦女神がリョハンの秩序に必要不可欠だという意識がふたりやリョハン上層部の意識の中にあったからこそであり、孫娘のファリアが生まれた当時は、戦女神という支柱のないリョハンなど考えられようもなかったからだ。
それから二十数年が経過し、彼も、彼の妻もその考え方を変えていった。
リョハンのひとびとを戦女神という支柱で支配しているものがなんなのかを理解したとき、また、戦女神という現人神であるということの辛さ、苦しさを骨身に染みて理解したとき、ファリア=バルディッシュは、孫娘にはただの人間であって欲しいと願うようになった。ただの人間として、思うままに生きて欲しい、と。リョハンという柵にとらわれず、自由に、己の望むまま、願うままに生き抜いて欲しい。
だからこその人間宣言であり、リョハンは戦女神の支配ではなく護山会議による統治で運営されるべきだという意見をリョハンの市民に話したのだ。
ファリア=バルディッシュの人間宣言は、最初こそ混乱を引き起こしたものの、次第に受け入れられていき、リョハンのひとびとは、日々、ファリア=バルディッシュへの感謝を述べた。長らくリョハンの天地を支える柱として、ときに人間であることさえ忘れるほどの苛烈な役割を続けてきたファリア=バルディッシュには、どれだけ感謝してもしたりないくらいの想いがリョハン市民にはあったのだ。
このまま何事もなければ、リョハンは護山会議の統治へと移行することができるだろう。護山会議の議員のだれもがそう想っていた。元々、戦女神の時代から護山会議が統治していたようなものなのだ。戦女神は、護山会議の上に君臨する存在であって、直接、意見を示したり、政策を出すようなことはほとんどなかった。ただ、戦女神の力があまりにも強すぎることもあり、護山会議の名で政策を打ち出すよりも戦女神の名を使うほうが効率的であったため、護山会議が打ち出してきた多くの政策は、戦女神の意志によるものとされた。その結果、ますます戦女神の人望が高まったのはいうまでもないが、護山会議としてはそれでリョハンが安定するのであればなんら不満はなかった。
護山会議は、支配者になりたいわけではないのだ。
リョハンは、ヴァシュタリア共同体勢力圏内における陸の孤島ともいうべき存在だ。島内、つまりリョハンに住むひとびとが共同体としての意識を持っていられるからこそその存在を維持できているのであり、混乱が起き、秩序が乱れれば、途端に崩壊を始める。そして、その崩壊をヴァシュタリアが見逃すわけもない。ヴァシュタリアがリョハンの独立を許したのは、戦い続けても無駄に血を流し続けるからなのだ。勝てる見込み、付け入る好機を見出せば、即座に手を出してくるだろう。
だからこそ、護山会議は、戦女神という支柱によってリョハン市民の意志を統一し、安定的な秩序の構築を図ったのだ。そしてその目論見は成功し、独立から数十年、ただの一度もヴァシュタリアに付け入る隙を見せなかった。
“大破壊”が起きるまでは、だ。
世界を震撼させた未曾有の大災害は、守護神によって守られたリョハンに大きな影響を及ぼすことはなかった。しかし、“大破壊”の余波が形となって現れ始めると、秩序が乱れ、人心は荒れた。不安が蔓延り、暗い影がリョハン中を包み込んだのだ。すると、どうなるか。リョハンのひとびとは、心の拠り所を戦女神に求めた。
護山会議は、仕方なく、ファリア=アスラリアに戦女神の継承を要請し、ファリア=アスラリアはこれを了承。以来、二代目戦女神ファリア=アスラリアのリョハン統治が始まったのだが、ただそれだけのことで人心が安定し始めたのは、さすがの護山会議の連中も空いた口が塞がらなかっただろう。
それは、いい。
そのことそのものは大した問題ではない。むしろ、護山会議にとっては喜ぶべきことだ。誤算どころではなく、思惑以上の成果だったのだ。
護山会議としては、なんの実績もないファリアが戦女神を継承することには、不安を抱いていた。ファリアは、先代の戦女神の孫娘であり、直接同じ名を与えられたというだけの存在でしかない。武装召喚師としての才能、実力こそ知られてはいたが、護山会議の命令に背いたこともあり、護山会議にとって、リョハンに住む人々にとっては評価に値しない人物だったからだ。
それなのに彼女が戦女神を受け継ぐと、ただそれだけでリョハンは安定し始めた。戦女神という形、名だけで、リョハンのひとびとは安堵を得るものらしい。
その事実には護山会議のみならず、守護神も呆れる想いだっただろうが。
問題なのは、戦女神を継承したファリア=アスラリアのひととなりだ。
アレクセイは、会議場に集った護山会議の議員たちが揃いも揃って苦い顔をしていることに胸中、嘆息を浮かべた。だれもかれも、この度の定例会議の議題について、苦々しく想っているのだ。アレクセイとしては、孫娘であるところのファリアを擁護するつもりだったし、護山会議の議員としても、彼女やり方が決して間違っているとは想っていなかった。
ただ、なにごとにもやり方というものがあるのもまた、事実なのだ。
会議場には、アレクセイを始めとする護山会議の議員のほか、護峰侍団の幹部、七大天侍三名、そして戦女神ファリア=アスラリアが卓を囲んでいる。戦女神は、澄まし顔で配られた資料を見つめているが、内心、なにを想っているのかはその無表情からは想像もつかない。
ここのところ、いつもそうだった。
ファリアは、感情を表に出さなくなった。