第千八百六十四話 神軍
突如、天より降り注いだ光芒がメリッサ・ノアの船体を貫いて海中に突き刺さり、巨大な水柱が上がる光景を目の当たりにして、セツナは愕然とした。驚くべきことだったし、予想だにしない出来事だ。光は、立て続けにメリッサ・ノアの周囲に降り注ぎ、つぎつぎと海面に水柱を立てた。直撃したのは最初の光線だけだが、それが致命傷になっているかもしれない。
「なんだいったい!」
《……よもや斯様なことが立て続けに起きようとはな》
「マウアウ!」
《我ではない。我はそなたと約束したな》
「それはわかってる……!」
セツナはマウアウを振り向きざま睨んだものの、女神を疑ったわけではない。女神は、セツナと約束したのだ。つい先程まで殺意をぶつけてきた相手の約束を即座に鵜呑みにするのはおかしな話かもしれない。しかし、セツナは、マウアウが自分を裏切るとは微塵も考えていなかった。それどころか、マウアウと敵対した事実すら思慮に入れていなかった。
そも光は、遥か上空より放たれたのだ。
マウアウは、セツナの背後にいた。神の力ならば、その場から動かず遥か彼方に光の雨を降らせることができるかもしれない。
「でも、なんなんだよ、いったい!」
《おそらくは……神の軍勢よ》
「神の軍勢……?」
《そなたも知っておろう。この世が斯様にして崩壊した理由。その原因》
「聖皇復活の阻止……だろう」
《そうだ。クオンの裏切りによって、我らは聖皇復活の悲願を果たせなかった。だが、クオンらの力を持ってしても、できたのは聖皇復活の阻止のみ。莫大な力の現出そのものは止められなかった。それが世界の崩壊を招いたのだ》
マウアウの説明は、セツナの想像に近いものだった。セツナは、騎士団幹部たちから聞いた話や記憶上の情報から、この世界の現状の原因をそのように見ていた。聖皇復活の阻止、その余波が“大破壊”を招いたのだと認識していた。その裏が取れたのだ。だからといって喜べるはずもなく、セツナは、メリッサ・ノアの元へと急ぎながら、空を仰いだ。
晴れ渡る空の上、激しい雲の流れに逆らうように飛翔する存在があった。神々しいまでに美しい白き翼を無数に生やしたそれは、一見、異形の鳥のように見えなくもなかった。しかし、よくみると、それは鳥ではなく、生物ですらなかった。船だ。翼を生やした船が、空を飛んでいるのだ。
(あれがやったのか)
メリッサ・ノア号に向かって光の雨を降り注がせたのは、まず間違いなく、その空飛ぶ船だろう。それ以外、考えようがない。しかし、なぜ、メリッサ・ノアを攻撃したのかはわからない。
《現出した力は、世界を破壊し尽くしたあと、どうなったのか。簡単な話だ。依代を得、ひとつに収束した。それは神々の王の如く君臨し、ひとつの軍勢を作り上げた。それこそ我が、神の軍勢――神軍と呼ぶものたちだ》
マウアウは、海上を飛行するセツナのすぐ後ろをついてきていた。メリッサ・ノア以上の巨躯をものともしない高速移動は、彼女が海神として海中の移動を苦にもしていないことを告げている。
《そして、あの船こそ、神軍の先触れなのだ》
マウアウがいう船とは無論、空飛ぶ船のことだろう。巨大な鳥の翼を無数に生やした飛行船は、神の船と呼ぶに相応しい威容と神々しさを放っている。
「神軍の目的は?」
《わからぬ。我は、聖皇復活の失敗を見た瞬間、ヴァシュタラより離別したのだ。そしてそれが正しい選択であったと我は考えている》
「どういうことだ?」
《いうたであろう。ヴァシュタラは、神々の集合体である、と》
「ああ」
セツナは、メリッサ・ノアが沈没する素振りを見せていないことに安堵しながら、うなずいた。上空から降り注いだ光線によって撃ち貫かれ、甲板に大穴が開いているものの、なんとか沈まずに済んでいるようだった。その後、連続的に降り注いだ光の雨も、メリッサ・ノアに追撃を加えるには至っていない。
《聖皇復活による送還を願う神々の集合体であったヴァシュタラ。その構成要素である神々の大半が、聖皇の力を受け継いだ依代である神皇の手先と成り果てた。まるで神々の王であった聖皇に仕えるが如く、だれもかれも神皇に支配された。我が離別した一瞬の好機を逃さば、我もまた、神皇に支配されていたであろう》
つまりアシュトラも、その支配の隙をついて離別したということなのかもしれない。アシュトラが、ヴァシュタラを構成していた神々の一柱だとすれば、だが、その可能性は極めて高い。アシュトラはクオンの裏切りについて言及していたのだ。クオンを裏切りものと断ずるのは、彼を神子として支配していたヴァシュタラ以外にはありえないのだ。
つぎに考えるのは、神皇なるものについてだ。
聖皇復活の阻止にこそ成功したものの、聖皇の力の降臨そのものは防げなかったとマウアウはいった。その力が世界を破壊し尽くしたのだとも。そして、その力を受け継ぐ形で出現したのが神皇なるものであり、それは聖皇の力を手にしたことで神々をも支配する能力を持っているということのようだ。聖皇は、皇神と呼ばれる神々を召喚時の契約によって掌握しているのであり、その力の継承者だという神皇が神々を支配したとしてなんら不思議ではない。
(神皇……か)
セツナは、この世に出現していたという脅威を認識して、拳を握った。神皇率いる神軍の存在は、看過できないのではないか。
《契約者であり召喚者たる聖皇ならばいざしらず、ただ力の器に過ぎぬ神皇に支配されるなど言語道断も甚だしい。故に我はあのとき、聖皇の支配が緩んだあの一瞬を逃さなかったことに安堵すらしている。もしあの隙を逃さば、我はそなたと敵対していたやもしれぬ》
「……神軍は、俺の敵になりうるってのか」
《そなたの記憶を信ずれば、そうもなろう》
《おそらく、神軍の主たる神皇こそ、そなたが斃すべき敵よ》
「俺の斃すべき……敵」
《この世界を滅ぼすものがあるとすれば、神皇を除いてほかはあるまい》
そのとき、頭上に光が瞬いた。神軍の船からの砲撃が、今度はセツナ目掛けて降り注いできたのだ。セツナは飛んでかわそうと考えたものの、瞬時に諦めた。光線の速度は、メイルオブドーターの飛行速度よりも遥かに速い上、光の雨は想像以上に広い範囲に渡って降り注いでいる。瞬時に思考を切り替え、翅の防壁で頭上を覆ったセツナだったが、そんなことをする必要さえなかったことには茫然とせざるを得ない。強大な水の障壁が、セツナの頭上および周辺に展開し、降り注いだ光の雨の尽くを受け止めてくれたからだ。分厚くも美しく透き通る海水の防壁。その水の中を強大な力の波が流れていることを察知する。強大な、神の力。
《そなたは、神の敵である。神軍に殺させるわけにはいかぬな》
「マウアウ……あんたは」
セツナは、すぐ後ろを振り返った。美しき海の神は、セツナの背後にあって当然のような顔をしていた。
《神軍は、我が敵よ。神軍の主たる神皇は、神々を支配し、この世を貪り尽くさんとしている。そなたはそれに立ち向かうほかあるまい。それがそなたの戦い故な。そして、それはそなたにしかできぬことよ。神を滅ぼすことができるのは、魔王の杖のみ》
つまるところそれは、神でさえ神を滅ぼすことができないといっているようなものだった。そしてそれは、セツナの考えている通りなのだろう。ミヴューラが、そうだった。聖皇に召喚されながら聖皇に反発し、挙句神卓に封じられたのがミヴューラだ。神々がミヴューラを滅ぼさずに封印したのにはなんらかの理由があるのではないかと考えていたのだが、それこそ神が神を滅ぼせないという単純な理由だったのだろう。
滅ぼせないのであれば、封印するよりほかはない。
その封印が甘かったがためにミヴューラはフェイルリングと邂逅し、聖皇復活を妨害する一助となったのだが。
そして、セツナの思索は魔王の杖こと黒き矛へと至る。カオスブリンガーと名付けた召喚武装だけが神々を傷つけ、滅ぼすことができるというのは、いったいどういうことなのか。魔王の杖だけが神々にとっての脅威となりうるとは、どういうことなのか。
海水の防壁が解除されると、海水が雨のように降り注いで、セツナの全身を濡らした。もっとも、すでに全身水浸しの状態であって、なんら困ることはない。
頭上を仰ぐと、神の船は、セツナたちへの攻撃を諦めたように遠く離れていっていた。
それから意識をメリッサ・ノアに戻す。
魔動船はもうすぐ目の前にある。
「御主人様!」
「レム、無事だったか」
セツナは、大穴の空いた甲板に降り立つなり、駆け寄ってきた従者の無事な姿にほっとしたものの、それが無意味であることに気づいてもいた。レムは、セツナが死なない限り、死ぬことはないのだ。とはいえ、彼女が傷ひとつ負っていないことを確認できたことには、安堵せずにはいられない。いくらレムが不老不滅であるからといって、痛みを感じないわけではないのだ。死なないからといって無理をさせたくはない。
メリッサ・ノアの甲板には、大きな穴が空いていた。それこそ、巨大な船の内部構造がはっきりと見えるくらいの大穴であり、よく船が沈まずに済んでいるものだと思わざるをえない。甲板上には船員はほとんどいなかっただろうが、船内には多数の乗船者がいたはずであり、どれほどの死傷者が出たのか、想像もつかなかった。少なくとも、多数の船室が破壊されたのは間違いないのだ。それら船室に待機していたものたちは、為す術もなく命を落とすか、重傷を負っているはずだ。
セツナが甲板の大穴を覗き込んでいると、リグフォードが駆け寄ってきた。
「セツナ殿、ご無事でしたか」
「将軍も無事でなによりです」
「ええ……まあ、なんとか沈まずに済んでいるという具合ですが……どうやら魔動炉がやられたようでして。このままでは進むも戻るもままならない状態なのです」
「そんな……」
「修復は可能なのでしょうか?」
「これくらいならば積んである材料を使えば、なんとかなるはずです。当然、時間はかかりますが……急がせましょう」
「……頼みます」
「セツナ殿には申しわけありませんが」
「いえ……将軍に非があるわけでもなし、謝られるほどのことではありませんよ」
申し訳無さそうな顔をする帝国軍将軍に対し、セツナは即座にそう言い返した。むしろ謝るべきは自分ではないのか、と考え込まざるをえない。セツナが迂闊にメリッサ・ノアを引き離したから、こうなったのではないか。もしメリッサ・ノアがマウアウの近くを漂っていれば、マウアウの防壁によって護ってもらうこともできたのではないか。もっとも、それはマウアウが交渉に応じてくれるという前提がなければ取れない行動であり、最悪、セツナとマウアウの戦闘によって船が沈んでいた可能性さえあるのだが。
そのマウアウはメリッサ・ノアのすぐ側まで来ており、被害状況の確認作業に勤しむ船員たちの度肝を抜いていた。女神を至近距離で見れば、男であれ女であれ、魂の抜け殻にならざるをえない。それほどまでに美しく、魅力的なのだ。
《船が動かぬのか?》
「ああ。見ての通り、さっきの攻撃でな」
《ふむ……》
「御主人様、これはいったい?」
「マウアウは話のわかる神様だったんだ」
セツナは、レムに向かって笑顔でマウアウのことを説明した。
マウアウが説得に応じてくれた上、海域の通行許可をもらえたことを話すと、レムもリグフォードも驚くとともに喜んだ。
《ならば、我がそなたらの船を牽引してやってもよいぞ》
「えっ……!?」
《なに。暇を持て余していたところ故、な》
マウアウの思わぬ申し出に、セツナたちは顔を見合わせ、歓喜したのだった。
優しき海神マウアウとの出逢いにより、セツナたちを乗せた魔動船メリッサ・ノアは、順調に航海を続けられることとなった。
ヴァシュタリア小大陸まで、もう少し。