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第千八百六十三話 海神領域(九)


《よくわかった》

 セツナの意識が現実へと還ったのは、マウアウが穏やかで美しい声を浮かべたからなのかもしれない。

 そして、意識が朦朧としていたのは、きっと美神の柔肌に抱かれることへの幸福感に恍惚となり、冷静さを失っていたからだ。女神の美貌、声、肢体は、見るもの、触れるものの意識を奪う力がある。

 その冷静さを取り戻すことができたのは、マウアウがセツナをその柔らかな腕で抱擁するのを止めたからであり、触手によって引き剥がされるようにして離されたからにほかならない。女神の胸の中での夢心地は、触手に絡みつかれるという不愉快な現実によって吹き飛ばされ、朦朧としていた頭も覚醒するというものだ。案外、そのための下半身なのかもしれない。

 などと薄らぼんやり考えながら、セツナは、マウアウに意識を戻した。女神の美しい双眸は、穏やかな光を湛えながらこちらを見つめている。それは、極めて幸福なことのように想えた。マウアウは、マユラ、アシュトラといった(セツナにとっての)邪神とはなにもかもが違った。話に耳を傾けてくれるというだけでも、ほかの神々とは歴然たる差がある。そんな神が慈悲深い視線を送ってくれているのだ。。心が満たされるのも無理からぬことかもしれない。

 黒き矛は手の中で唸るように震えているが、黙殺する。神殺しの魔槍たるカオスブリンガーには、神の存在は許容できないものなのだ。それを理解した上で、セツナはマウアウとの戦闘を回避しようと試みている。黒き矛の召喚者はセツナであり、その力の向かう先を決めるのは矛ではなく、セツナなのだ。黒き矛がいかに神に対し敵意を抱き、殺意を持とうとも、それを制御してこその武装召喚師だということを意識しなければならない。召喚武装の意のままとなっては、武装召喚師とはいえないのだ。無論、武装召喚師としての修練を経ていないセツナは、正確にいえば一般的な武装召喚師ではないのだが、それでも、武装召喚師としての矜持は持たなければなるまい。

 そして、黒き矛から伝わってくる圧倒的な暴威を完璧に制御することこそ、地獄での修行の成果であり、なればこそ、マウアウへの殺意を支配し、攻撃の手を止めることができるのだ。

 女神マウアウの慈しみに満ちた視線の前で心穏やかにいられるのは、あの苛烈としかいいようのない修練を経たからであり、もし地獄での日々がなければ、いまごろマウアウとの話し合いなどできていなかったに違いない。

《そなたを信じよう》

 マウアウの下した結論にセツナは素直に喜んだ。

「マウアウ……!」

《そなたの記憶を見て、我はそなたのひととなりを知った。そなたは、約束を護ることをこの上なく大切に考えているのだな。それはとても大切なことだ。我らもまた、ひととの、世界との約束によって成り立っている》

 マウアウの表情は、先程まで以上に柔らかく、優しい。慈しみと愛に満ちたまなざし、声音であり、見られ、聞いているだけで心が救われる想いがした。さらに先程までと異なることがある。マウアウの言動に魅了されるというようなことがなくなったのだ。やはり、魅入られるような感覚は、マウアウの力であり、その必要がなくなったから使わなくなったということなのだろう。その分、セツナの心は浮ついた感覚に包まれ、マウアウの優しさが直接響いてくる。

《そなたが我との約束を破る可能性は限りなく低いと見た。そうであろう?》

「ああ。約束するよ」

《ふふっ……約束を守ることを約束するか。面白いひとの子よな》

「でも、ほかにいいようがない」

《確かにそうさな……ほかにいいようがないか》

 マウアウは、セツナの言葉を反芻するようにいうと、またしても笑った。そして、静かに告げてくる。

《ともかく、我はそなたが魔王の杖の持ち主として相応しい人間であると確信した。そなたならば、魔王の杖をみだりに用い、この世に混沌をもたらすこともあるまい。神々の敵対者とはなるまい。この世の敵とは、魔王とはなるまい》

 マウアウの確信に満ちた言葉がセツナの耳に響き、胸に残る。暖かな気持ちになるのは、マウアウの優しさが全身を包み込んでいるからだろう。このまま、マウアウの優しさに包まれていたいという気持ちになるが、それは、魅了されるのとはまったく異なる感覚だった。穏やかで、柔らかな感覚。警戒の必要がない。

《我はそなたを信じ、そなたと約束しよう。そなたらを攻撃せぬ、と》

「ありがとう。心より感謝させてくれ」

《いや……感謝するのは我のほうぞ。魔王の杖との闘争を避けることができるのであれば、それに越したことはないのだ》

 女神は、そういって本心を明かした。

《魔王の杖ほど厄介なものはない。不滅の存在である我ら神々を滅ぼしうる唯一の力なのだからな》

 その発言を聞く限りでは、マウアウとしても、黒き矛と命を賭けたやり取りをするのは本意ではなかったようだ。できれば戦いたくはなかったが、かといって魔王の杖と見れば捨て置くことができなかった、ということだろう。確かに自身の命を脅かす存在が目の前にあり、それが牙を剥く可能性があるのであれば、放置できるものでもあるまい。セツナは、マウアウの行動に理解を示すとともに、彼女が話し合いに応じてくれたことを何度となく感謝した。セツナとしても、神との戦闘は避けられる限りは避けたいものだった。

 風も波も穏やかだ。マウアウの無数の触手も海中に姿を隠し、下半身の大半も見えなくなっていた。戦闘を回避することができたということが、その一事からもわかる。セツナはほっとするとともに、マウアウに自分の覚悟を見せるべく、黒き矛を送還した。禍々しい漆黒の矛が光の粒子となって本来あるべき世界へ還る瞬間、マウアウがおもむろに目を細めたのは、どういう意図なのか。セツナの行動に感心したのか、それとも、異世界への送還を羨んだのか。両者かもしれない。

《さて……セツナよ。そなたらには我が海域に踏み入ることを了承しよう。そなたらは、この北を目指すのであろう?》

「ああ。でも、いいのか?」

《構わぬ。我が海に危害を加えぬとわかった以上、警戒する必要もない》

「ありがとう、マウアウ!」

《うむ》

 マウアウの穏やかな表情を見ているだけで、セツナは心底ほっとする自分に気づいて、神の偉大さが身に沁みてわかるような気分だった。

 神とは元来、人間に対してそのように心広くあるものなのだろう。マユラやアシュトラのような神ばかりではないはずだということはわかっていたが、ミヴューラのように人間に肩入れする神がほかにいるとも考えにくいというのもまた、事実だった。イルス・ヴァレに存在する神のほとんどすべてが聖皇によって召喚された異世界の存在であり、本来在るべき世界への帰還を悲願としているのだ。この世界の人間のことよりも、自分たちの世界の人間のことを第一に考えるのは、神の在り様を考えれば当然の話であったし、神々からすればミヴューラのほうが異様な存在だといえる。マウアウがセツナの交渉に応じなかったとしてもなんら不思議はなかったし、交渉が決裂する可能性も考慮し、覚悟していたのだ。

 交渉は上手くいった。

 セツナは、心底肩の荷が下りた気分の中で視線を巡らせ、メリッサ・ノア号を海上に探した。黒塗りの巨大な艦船を青々とした海の上に見出すのは至極簡単なことだった。メイルオブドーターによって視力が強化されているというのもあるだろうが、メリッサ・ノアが途方もなく巨大だということも大きい。そのメリッサ・ノア以上の質量を誇るのがマウアウであり、彼女との戦闘が回避できたことは、セツナにとってもメリッサ・ノア及びその乗船者にとっても喜ぶべきことだろう。

 メリッサ・ノアは、既にセツナとマウアウの戦域から遠く離れた位置におり、セツナの居場所からは小さく見えていた。

 ここからではどれだけ大声で叫んでも届くまいが、レムの目ならば、セツナとマウアウが交戦せず、話し合っているという光景が見えているはずだ。そして、そのままセツナが戦闘態勢を解除し、黒き矛さえ送還して見せたことも確認していることだろう。セツナがレムに無事を伝えるべく手を振ろうとしたそのときだった。

 海上を離れていく黒船に向かって、光線が降り注いだのだ。

 


 

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