第千八百六十二話 海神領域(八)
《……話は、わかった》
マウアウがそう結論を下したのは、しばらくの沈黙の後だった。
広々とした海の上、吹き抜ける潮風が心地よくさえあった。
「なら……!」
《だが、やはり我にはそなたを信用できぬ。信頼する道理がない。言葉だけではなんとでもいえる。我が隙を見せた瞬間、攻撃されては堪ったものではないのだ》
「やっぱり、そうなるか」
女神の言い分は、もっともだった。
セツナも、言葉だけで信用されようなどとは思ってもいない。言葉だけならばなんとでもいえるというのはまさにそのとおりだったし、それがわかっているからこそ、セツナはそうすればマウアウの信用を勝ち取れるのかと思案していたのだ。
マウアウは、話を聞いてくれた上、話を理解してくれさえしている。説得に応じてくれる気配があるのだ。であれば、全力で説得に当たるべきだった。避けられる戦いは避けるべきなのだ。無意味に血を流す必要もなければ、無駄に力を消耗する必要はない。魔王の杖は、その真価を発揮しようとすればするほど、セツナに負担のかかる厄介な代物なのだ。アシュトラとの戦いでの消耗の激しさは、いま思い出しただけでもぞっとするほどだ。
ここでたとえマウアウと戦ったとして、勝てるかどうかさえわからないというのが現状だった。
マウアウがアシュトラと同程度の力の持ち主ならば撃退までは持ち込めるだろうが、それもセツナが力を使い果たしてやっとのことだ。もしマウアウがアシュトラ以上の力の持ち主であれば、全力を出し切っても勝てるかどうか怪しいところがある。そして、マウアウの力は、まず間違いなくアシュトラを上回っている。
質量が、違う。
《では、話はこれで終わりだ。闘争を続けよう》
「いや、まだだ」
《……まだ、続けるのか》
マウアウが呆れ果てた表情を見せる。
「俺は、無意味な戦いはしたくないっていっただろう。話し合いで解決できるならそれに越したことはない」
《解決の糸口が見えぬぞ》
「解決方法ならあるさ。あんたが俺を信用できるようになればいい」
《いま逢ったばかりのものをどう信用しろというのだ》
「信用しろなんていってないだろう。あんたは、神様なんだ」
《ふむ?》
「クオンのときのように俺の記憶を覗き見ればいい。そこで、俺が信用に値する人間かどうか判断してくれ。その結果、信用に値しないと判断されりゃあ話はそれまでだ。闘争を再開しよう」
《……なるほど。過去の記憶から、そなたの人間性を判断しろというのだな。面白い。だが、そなたはそれで良いのか? 見られたくもない記憶まで、覗かれるぞ?》
「あんたはやっぱり優しいな」
セツナは、マウアウの気遣いぶりになんだか嬉しくなった。ここまで気遣いをしてくれる神様ならば、信用に値する。記憶の中を覗き見られても、なんの問題もないといえる。別に隠したくなるような記憶があるわけでもない。見られて困るものもない。
この世界では、胸を張って、生きてきた。
「俺のことは気にしなくていい。あんたが納得行くまで、俺の記憶を見て欲しい。そうして、判断してくれ」
だから、セツナはそういってのけることができるのだ。なんら恥ずべきものはないと想っていられるから、神に平然と記憶を覗かせることができる。さすがにファリアやミリュウたちに見られると少しばかり恥ずかしい気もするが、赤の他人ともいえる神様にならば構うまい。マウアウのことだ。覗き見た記憶を他人に言いふらすようなことはしないだろう。
《よかろう。そなたがそこまで強情にいうのだ。我も心してそなたの記憶を視よう。そして、判断を下そう。そなたが信頼に足るか、あるいは滅ぼすべきか》
マウアウは、厳かにうなずくと、巨大な触手群をゆらゆらと動かした。無数の触手のうちのいくつかがセツナに迫ってくる。そこに敵意もなければ殺意もない。セツナは、身じろぎひとつせず、成り行きに身を任せた。ぬめぬめとした光沢を帯びた触手の一本がセツナの体に巻き付くと、柔らかに絞めつけながら、マウアウの目の前まで引き寄せられた。驚く間もなく、セツナの体はマウアウの上半身の腕の中にあった。
《神は全能足り得ぬ。記憶を覗き見るも、斯様な手段を用いねばならぬ。容赦せよ》
耳元で囁かれる甘美な声と、豊満な胸と柔肌の感触にセツナは意識が遠のくのを認めた。
やがて、セツナの意識が完全に闇の底に落ちた。
「セツナ殿は、大丈夫でしょうか……」
リグフォ―ドがつぶやいたのは、メリッサ・ノアが戦域を離れ、しばらくしてからのことだった。彼は遠眼鏡を覗き込み、膠着状態に陥った戦いの成り行きを見守っている。
セツナとマウアウと名乗る神との激しい戦闘は、一瞬だけのことだった。その一瞬の攻防が終わると、長い対峙が始まったのだ。膠着状態。セツナとマウアウがなにをしているのか、船の上からではまったくわからない。
「御主人様のことをお疑いですか?」
「いや、決してそのようなつもりではなく」
「まあ、心配なのはわかりますが……安心してくださいまし」
レムは、リグフォードの心境を理解しながらも、胸を張って告げた。
「御主人様が負けることなど、ありませぬ故」
といい切ったものの、レムの中に不安がないかというとそういうわけではなかった。
確かにセツナは強い。少なくともレムの記憶上、黒き矛を手にしたセツナ以上に強いものなど存在しなかった。皇魔も武装召喚師も、その武装召喚師たちさえ苦戦するような怪物染みた武装召喚師も、セツナと黒き矛の前では塵のように消えたものだ。
セツナが敗北したといえるのは、レムの知る限り数えるほどだ。ひとつは、マルディアにおけるシド・ザン=ルーファウスとの戦闘であり、ベノアにおける戦闘も敗北といっていいだろう。そして、最終戦争におけるクオンとの戦闘だ。ベノアやクオン戦のあらましについてはセツナに直接聞いたのだが。
ともかく、その数えるほどの敗因は、当時のセツナより強大な力を持った存在と戦ったことによるものだ。
相手が本当に神様だというのであれば、セツナが負ける可能性がないわけではなかった。
神なのだ。
シド・ザン=ルーファウスも、ベノアでの戦いも、神の加護を得たものたちとの戦いだった。神そのものでは、ない。神そのものとなれば、さらに強大な力を持っていると考えるのが自然だ。おそらくセツナは苦戦を強いられるだろう。
だが、一方で、アシュトラ神を辛くも退けたという事実が、不安を押し退けるのだ。
セツナは、“大破壊”後の二年、修行に明け暮れていたという。
黒き矛の使い手として一段も二段も強くなったのだと彼は自負していた。
レムは、そんなセツナを信頼せずにはいられないし、彼が勝利せずとも無事に戻ってくることを祈っていた。
神に打ち勝つ必要などあろうはずもない。
セツナが無事でさえいてくれればそれでいいのだ。
波の音が、彼の意識を呼び覚ました。
寄せては返す波の音に、逆巻く大気が嵐のように唸っている。
重い瞼をこじ開けると、見知らぬ海辺が目の前に広がっていた。赤く燃える空の下、水平線の彼方まで続く海が荒れているのがわかる。激しい風鳴り。頭上、雲が凄まじい速度で流れている。
(ここは……?)
彼は、疑問に想った。
さっきまでいた場所とはまったく異なる光景が目の前に広がっているのだ。驚かざるを得ないし、疑問を抱かざるをえない。だが、その疑問も意味もわからないのだから、困ったものだ。さっきまでいた場所とはどこのことなのかさえ、思い出せない。
自分がなにものかさえ、覚束ない。
手の感覚、足の感覚、音――色々なものが奇妙なほどに不安定だった。視界がぼやけている。
《やはり、こうなったか》
声は、突如として頭の中に響き渡った。聞き知った声。けれども、思い出せない。どこで知り合っただれの声なのか、微塵も思い出せない。そのことが不安に繋がることもない。なにもかも、遠い彼方の出来事のようにぼんやりとしている。
《やはり、こうなる運命だったのか》
彼は、声の主を探して視線を彷徨わせた。どこまでも続く果ての見えない浜辺。周囲に人影はない。いや、海上に突き立った岩の上になにかがいた。背中から浴びる赤い夕日が逆光線となり、真っ黒な影となった人物。闇の衣を纏っているようですらあった。その人物の目が紅いことだけが、わかる。影の中でも輝いているからだ。
《おまえは呪われた》
影の男は、ひたすらに告げてくる。
《セツナ=カミヤ。おまえは呪われたのだ》
彼は、男に問おうとした。けれども声がでなければ、なにを問えばいいのかさえわからないまま、男の言葉を聞くしかなかった。
《おまえの身も心も神の呪いに蝕まれ続けるさだめとなった》
夕日を浴びて輝く海の上、黒い男はひたすらに言葉を続ける。
《もはやおまえに救いの道はない》
彼に絶望を突きつける言葉を繰り返す。何度も。何度も。心が折れることを望むかのように、何度も。
だというのに。
《だが、諦めてくれるな。嘆いてくれるな。絶望してくれるな》
男は、そんなことをいってきたのだ。
彼には、なにがなんだかわからない。わからないが、それはきっと、真実なのだろうと想うのだ。
《我が黒き希望よ》
その言葉は、いつか聞いた気がするのだから。




