第千八百六十一話 海神領域(七)
《そなたらが黒き矛やカオスブリンガーと呼ぶそれは、我らが魔王の杖と呼ぶ代物であることは、知っているな?》
女神の視線は、黒き矛に注がれていた。
「ああ。耳にタコができるくらいに聞いたぜ」
《……魔王の杖は、唯一、我らを、神属を滅ぼしうる力を持つ》
それは、知っている。
セツナは、黒き矛の破壊的なまでに禍々しい姿を目にしながら、胸中でうなずいた。地獄での修練の果て、セツナは黒き矛の本質を知った。黒き矛が魔王の杖と呼ばれる所以もだ。まさに魔王の杖と呼ばれるに相応しい存在であることを知った上で、セツナは神々がなぜそこまで執着するのか、知らなければならないと想ったのだ。
ヴァシュタラは、神々の集合体であるとマウアウがいった。
そして、アシュトラやマウアウのようにヴァシュタラから分かたれた神がほかにも多数いるかもしれず、世界中のどこかに潜んでいるかもしれないのだ。アシュトラとマウアウだけが魔王の杖の使い手たるセツナを滅ぼさんとしているのであればまだしも、神々が魔王の杖を敵視する理由がほかにあるのであれば、知っておくべきだった。知ったからといってどうなるわけではないが、知らないでおくよりはいいだろう。
無知は、罪だ。
《神とは、神属とは元来、不変のものだ。不滅にして、不壊。絶対無敵の存在なのだ。人間の祈りによって生まれ、人間を祝福するために存在する我らは、人間の祈りが絶えぬ限り、滅び去ることはない。たとえどのように苛烈な攻撃に曝されようと。それこそ世界を滅ぼすほどの力を叩きつけられようと、我らは滅びぬ。祈りある限り、我らは存在し続ける》
マウアウがさり気なくいってきたことこそ、神の本質なのだろう。
祈り。
ミヴューラも、ひとびとが救いを求める声によって示現した存在だった。救いを求める声とはすなわち祈りだろう。祈りによって顕現し、祈りによって力を増大する――それが神々の本質なのだ。故に祈りある限り不滅の存在であるというのだ。そして、一度信仰が始まった神の祈りが絶えることなど、そうあるものでもあるまい。何百年、何千年と生き続け、存在し続けるのだ。
《だが、魔王の杖だけは、違う。ひとびとの祈りを無視し、神そのものを滅ぼし得るのが魔王の杖なのだ。故に我ら神属は、魔王の杖の存在を容認するわけにはいかぬ》
マウアウの鋭い視線がセツナに注がれる。目があった瞬間、魅了されそうになるほどの力は、やはり彼女が強大な力を持った神であることを示している。彼女と会話をしているうちに戦う気が失せかけているのも、マウアウの持つ偉大なる神の力のせいもあるだろう。もちろん、それだけではない。
セツナは、マウアウと戦う必要性を認められなくなっていた。
《我らは、ひとびとの祈りによって顕現せしもの。ひとびとの祈りを聞き届け、ひとびとの心を安んずることこそが我らの存在意義。存在理由。その目的を果たすこともできぬまま、魔王の杖に滅ぼされるわけにはいかぬのだ》
「だから、問答無用、容赦なく俺を斃すってのか」
《それも違う》
「ん?」
《問答無用であれば、既に切り捨てている》
「……そりゃあそうか」
セツナは、マウアウの言い分がおかしくて、笑うほかなかった。だが、彼女の言うとおりではある。問答無用ならば、こうしてセツナの疑問や質問に答えてくれるわけがないのだ。船ごと沈めていたとしても不思議ではないし、そうしない手はない。あるいは乗船者を人質に取り、セツナの行動の自由を奪うという手だって取れたはずだ。しかし、マウアウはそういった手は取らなかった。それどころか船が戦闘領域から離れるのを待ってくれてさえいた。
マウアウは、神の中でも極めて人間に対して優しい神なのかもしれない。
だから、だろう。
セツナは、マウアウと戦いたくなくなっていた。どうにかして矛を収める方法はないかと思案する。
「あんたは、優しい神様だ」
《ん……?》
「俺は、あんたと戦う意味を感じない」
《そなたに意味がなくとも、我にはある。魔王の杖とその使い手は、我らにとっての脅威となるのだからな》
「俺があんたを傷つけないといってもか?」
《そなたの言葉を信用しろ、と?》
マウアウが、眉を潜めたが、美貌が損なわれることはない。
《我はそなたのことを知らぬ。クオンの記憶の中に見ただけに過ぎぬ。ひとの記憶というものは、いいように改変されるものだ。確かにそなたは、クオンにとっては心の底から信の置ける人間かもしれぬ》
マウアウの何気ない言葉が、クオンの中のセツナ評を伝えてきて、彼は妙なこそばゆさを感じずにはいられなかった。クオンがセツナのことを信頼してくれていることは、知っていた。心の底から信を置いてくれているとは、神の目からもそう見えるほどだとは想ってもいなかったのだ。
《だが、我にとってそなたは、敵対者に過ぎぬ》
「敵対する可能性を持っているだけ、だろう」
《魔王の杖は、敵だ》
「俺は、人間だぜ」
《だからなんだというのだ》
マウアウが、それがどうしたとでもいわんばかりに威圧してきた。やはり神だけあって、そういうときの迫力は凄まじく、セツナは全身に電流が走るような衝撃を受けて、平衡感覚を失いかけた。危うく海に落下しかけて、からくも立ち直る。
《そなたが人間だから、なんだというのだ。そなたは確かにひとの子だが、魔王の杖の召喚者であり、魔王の杖の唯一の使い手であることに変わりはあるまい。そなたの存在を認めれば、魔王の杖による暴虐も認めなければならなくなる》
「なんでそうなるんだよ。俺はあんたと話し合いがしたいってのにさ」
《我と話し合う、だと? 魔王の杖の使い手がか?》
マウアウが怪訝な顔をした。
《おかしなことをいう。そなたは、魔王の杖の使い手であろう。神の敵だ。それなのに、我と話し合おうというのか? なぜだ?》
「なぜ、って、そりゃあ、あんたは話のわかる神様だからさ」
《ふむ……》
「俺は、避けられる戦いは出来る限り避けたいんだ。無駄に、無意味に殺し合うなんざ、もううんざりなんだ」
セツナのその言葉は嘘偽りではなかった。本心だ。神との戦いだけではない。避けられる戦いはすべて避けたかった。話し合いで、交渉で解決できるのであればそれに越したことはないと想っている。これまで何千、何万の命を奪ってきたのだ。それこそ、数え切れないほどの命がこの黒き矛に吸われてきた。無論、それらはセツナの意志によるものだ。セツナの手が、命を奪ってきた。確かに多くの戦いは上からの命令ではあったが、直接手を下してきたのは自分だ。血に染まるのは、命令者の手ではなく、実行者の手なのだ。
そして、穴が空くのも、命令者ではなく、実行者の心だった。
ひとを殺すたび、心に穴が空く。
もはや、心の形など思い出しきれないほどの穴が空いている。そこには虚しさしかなく、達成感も勝利の歓びも消えて失せた。情熱などどこにあろうものか。
無駄に戦うことの意味、無闇に殺すことの意義など、見いだせるわけもない。
相手が誰であれ、避けられる戦いは全力で避けたい。
セツナがそう想うようになったのは、最終戦争の無意味な戦いを経験したからかもしれない。
あの戦場では、無意味にひとが死んだ。
無意味に殺した。
結果の分かりきった戦い。
セツナの抵抗は、なにもかも意味がなかった。
ただ、行き場のない怒りを、遣る瀬無さを戦場にぶつけただけだ。自暴自棄に、死に場所を求めただけのことだ。その結果、何万という命が散った。何万という命を奪った。
この手で。
セツナは、左手に矛を握ると、右手のひらを開いた。黒い革手袋に包まれた手のひらには、血が染み込んでいるはずだ。拭いきれないほどの夥しい血が、皮膚下に染み付いている。
「もう、疲れたんだよ」
それでも戦わなければならないということも、わかっている。
この世界は、未だ、混乱の真っ直中にある、
その混乱の元凶を取り除くまでは、セツナの戦いは終わらないのだ。
故に、意味のない戦いは避けたかった。
すべての人間が敵ではないように、すべての神を敵に回す必要はあるまい。