第千八百六十話 海神領域(六)
頭上四方から降ってきた光の奔流がセツナの意識を包み込み、視界を白く染め上げたかと想うと、彼の体は海面に叩きつけられた。凄まじい衝撃が全身を貫く。さらに立て続けに殺到する無数の触手による乱打は、メイルオブドーターに鎧われたセツナの体を容赦なく殴りつけてきて、彼は海中で悲鳴を上げたくなった。その上、触手に絡みつかれると、身動きの取れないまま海中で振り回され、肺の中の空気という空気が溢れてしまった。海水を飲み込み、はっとする。
(くっ、このままでは……)
海中に引きずり込まれた上、空気を失えば、さすがの黒き矛の使い手も溺死せざるを得ない。全身の激痛に顔をしかめながら、それでもなんとか耐え凌ぎつつ、手の中の黒き矛に命令する。巨大な触手は、セツナが身動き取れないようにがっちりと絡みついている。ここまで絞めつけられれば、いかに鍛え上げ、黒き矛の補助を受けていようと動くことなどできるわけもない。が、触手が密着しているということは逆に好機でもある。全身から噴き出す力を余すところなく受け取ってくれるだろう。
セツナは、黒き矛の能力のひとつである全周囲への力の発散を行った。全力攻撃、全周囲攻撃などとセツナが呼んでいる能力は、黒き矛の持つ驚異的な破壊の力を全方向あらゆる角度に向かって拡散するものであり、発動した瞬間、セツナは凄まじい力の消耗によって脱力感さえ覚えたものの、全身に絡みついていた触手があっけなく消し飛び、周囲の海水すら蒸発したのを認めた。体が一瞬だけ軽くなる。その瞬間を見逃さず、翅を広げ、海上へと急上昇する。水飛沫とともに虚空へと至ると、やはり触手が口を開いて待ち受けていた。またしても雄叫びとともに光線を放出してくるが、今度は軽々と回避してみせた。四方向からの一点集中攻撃。交点さえわかれば、回避することそのものは難しくはない。
そのまま上昇していくと、軟体の柱のような部位に支えられた女神の上半身と対面することとなった。斑紋の装飾を全身に纏う素裸の女神。危うく見惚れそうになるのを胸中叱咤する。マウアウの上半身は、やはりどう見ても美しく、誘惑的だ。美女に見慣れたセツナでさえ見惚れてしかねないほどの美貌は、アズマリアやウルクに並び立つか、わずかに上回るほどといってよかった。醜悪な下半身さえなければ、信徒になってもいいと想ってしまう。が、それも女神が黒き矛を欲さなければの話だ。
「マウアウ!」
セツナは触手の追撃をかわしながら、女神と同じ目線の高さまで上昇してみせた。ともすれば意識を持っていかれないほどの美貌を前にして、叫ぶ。
「なんであんたはクオンを知ってたんだ!」
《知らぬはずがなかろう》
女神は、悠然と腕組みをしていた。無数の触手が彼女の背後に蠢き、そのうちわずかばかりが口を開けてこちらを睨んでいる。いつでも攻撃ができるからこその余裕。
《クオンは、あの裏切り者は、ヴァシュタラの神子だったのだぞ》
「裏切り者……」
アシュトラも、クオンのことをそういっていた。裏切り者。それがどういうことを示すのかは、最終戦争の真相を知るセツナには想像できることではあった。聖皇復活の儀式を完遂させ、自分たちのあるべき世界へ還ろうと願う神々にとって、クオンたちによる聖皇復活の阻止は、裏切り行為以外のなにものでもない。そのせいで神々はあるべき世界に帰還することもできず、この異世界に留まり続けなければならなくなった。神々にとっては痛恨極まりないことだっただろう。
アシュトラがセツナではなく、クオンを呪わなかったのが不思議なほどの出来事だ。
《我はヴァシュタラの一柱だったのだ。ヴァシュタラの神子たるものの記憶を視るなぞ、当たり前のこと。その中にセツナ=カミヤ。そなたがいることは想定外のことではあったがな》
「ヴァシュタラの一柱……」
《ヴァシュタラがなんたるかも知らぬか》
マウアウは、攻撃してくる気配もなく、言葉を続けてくる。
《ヴァシュタラとは、目的を同じくする神々の総称なり。我を始め、数え切れぬほどの神が聖皇復活のために力を合わせることとしたのが、ヴァシュタラの始まり。至高神を名乗り、北の地に降臨したのは五百年ほど前のことになるか……懐かしい話だ》
「知ってるさ。神様の集合体だったってことくらいな」
《ならば、教えるまでもなかったか》
(なるほどな。理解できてきたぜ)
セツナが納得したことは、ヴァシュタラの秘密では、ない。
アシュトラがクオンのことを裏切り者と呼んだ理由も、セツナのことを知っていたことも、それで説明がつく。アシュトラもまた、至高神ヴァシュタラを構成していた神の一柱だったのだろう。ヴァシュタリアの“神々”という言葉の意味も、そこでわかる。ザイオンやディールは一柱の神によって支配されていたが、ヴァシュタリアは違うのだ。無数の神々からなる神の群体が北の大地を支配していたということだ。
マウアウがクオンのことを知り、クオンの記憶を覗き見る機会を得ることができたのは、彼女がヴァシュタラの一部だったからということだが、それもクオンがヴァシュタリアの神子ヴァーラとの合一を果たしていたからにほかならない。クオンがもし、ヴァーラとの合一を拒絶していればそのようなことはなかっただろうし、クオンの記憶の中にセツナと黒き矛を見出すことはなかったのだろうが、もしものことを考えたところで詮無きことだ。
ヴァーラは、クオンの同一存在だったのだ。
セツナにとってのニーウェであり、合一を拒むのであれば、決戦を行う必要に迫られただろう。複数の同一存在を世界は受け入れない。いずれかひとりだけしか生き延びる方法はないのだ。だから、ニーウェはセツナとの決戦によって、セツナを消し滅ぼさんとしたのだし、クオンとヴァーラは合一によってその問題を解消した。セツナとニーウェが同一存在でありながら同時に存在できているのは、奇跡のようなものに過ぎない。おそらくはニーウェの半身が異界化したことによる影響だろうが、そのような奇跡がそう簡単に何度も起こるわけもないのだ。
クオンは、この世界に存在するためにヴァーラとの合一を受け入れ、ヴァシュタリアの神子となった。そして、至高神ヴァシュタラを名乗る神の群体に付き従うふりをして、聖皇復活による世界の終わりを防がんとしたのだ。
結果、クオンの目的は果たされた。
“大破壊”が起き、大陸はばらばらとなり、数多の人間、生物が崩壊する世界の中で命を落としたが、世界が滅び去るという最悪の事態だけは避けられたのだ。クオンにとっては最低限の結果といえるのかもしれないが、これ以上の結果は望むべくもなかったのかもしれないと想える。
神々を出し抜いた上で聖皇の復活を阻止し、さらに余波さえも完全に抑え切るのは、クオンと《白き盾》、神卓騎士、救世神ミヴューラなどの力を合わせても不可能だったのだと考えると、聖皇復活によって世界が滅びたというのもあながち大袈裟でもなんでもなかったということがわかる。
世界は、滅亡を免れた。
拭いきれない痛みと、絶望的な暗雲に覆われたが、滅び去るよりは余程良い結果だといえるはずだ。滅びていれば、現状に対しての不安や恐れを抱くことさえできないのだから。
だが、その最低限の結果は、至高神ヴァシュタラを構成していた神々の分裂を招いたらしい。マウアウとアシュトラのように、ほかにも数多の神々が本来の姿を取り戻し、活動を再開したのだろう。
《話は終わりか? ならば、闘争を続けようぞ。魔王の杖に選ばれしそなたと、大いなる海の神たる我のいずれが勝者となるか、その決着がつくまで……!》
「ちょっと待ってくれ」
《まだ……話し足りないのか》
などといいながらも、マウアウはセツナの話を聞く態勢になってくれた。マウアウは、やはり好戦的な神ではないらしいということが伺える。それどころか、斃すべき敵と認識しているのであろう相手の話にも応じるあたり、懐の広さ、器の大きさはセツナが知る神々の中でも上位に位置するのではないか。救世に全霊を注ぎ、それ以外のことを考慮しないミヴューラよりも余程話のわかる神様かもしれない。
「あんたもそうだが、なんでまた神様はカオスブリンガーを、あんたらが魔王の杖と呼ぶこれを見ると、目の色を変えるんだ?」
セツナの長らくの疑問に対し、マウアウの美しすぎるといっても過言ではない双眸が細められた。