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第千八百五十八話 海神領域(四)


 マウアウと名乗るそれは、まさに美神というに相応しい姿をしていた。

 海色の長い髪が白くきめ細やかな素肌を隠すように垂れており、肉付きのいい肢体は、男心をくすぐらざるを得ないだろう。切れ長の目の中に輝く金色の虹彩は、超然とこちらを見下ろしており、見るだけで心を奪われそうなほどの魅力があった。顔の輪郭、眉の形、目の形、鼻や唇――どれをとっても非の打ち所がないといっても過言ではなく、男のみならず女たちも黙り込むほどの美しさがそこにはあった。

「御主人様?」

「なんだ?」

「なにを見惚れているのでございます?」

 レムが冷ややかな目線を投げかけてくる。

「下半身をもっとよく御覧くださいまし」

 彼女にいわれるまでもないことではあったが、セツナは、マウアウの下半身に視線を戻した。マウアウの上半身は、先程見た通り美貌の女神というべき美しさを誇るものであり、その豊かな胸から腰にかけての曲線たるや素晴らしいものがあるのだが、その下へと視線を移すと、途端に評価が逆転する。せざるを得まい。マウアウの美貌や肢体に惚れ惚れしていたものたちも、その下半身へと視線を移動させた瞬間興ざめし、現実へと引き戻されるだろう。

 マウアウの下腹部から下は、軟体生物の巨体だったのだ。

「怪物でございますよ! 怪物!」

「んなもん、いわれなくともわかってらあ」

「でしたら、見惚れている場合では」

「だれが見惚れてたんだよ」

 セツナは、渋い顔をして、マウアウの上半身に目を向ける。一糸まとわぬ上半身は、それこそ男が憧れ、女が羨むほどのものだ。そこだけを見る限りでは、なんの問題もない。眼福といっていい。軟体生物のような下半身にさえ目をつぶればいいだけのことだ。形の良い唇が、開く。

《なにを話し合っている。我はいうたぞ。早々にここを立ち去れと》

 声さえも、耳が蕩けそうになるほどに美しく、セツナは、聞いているだけで幸福感に包まれる自分に気づき、唖然とする。魅了されかけているのではないか。自制心を働かせようとするが、どうにもならなかった。周囲を見ると、レムを始め、だれもが同じような反応を示していた。

 皆、呆けた顔でマウアウを見上げていた。

 質実剛健なリグフォード将軍さえも、マウアウに魅了されつつあるようだった。

《さもなくば、我が腕がそなたらを海の藻屑としてくれよう》

「わかった。わかったから、攻撃はしないでくれよ」

《ふむ……素直に従うのであれば、なにもいうまい。我は、この海と静かにありたいだけだ》

 マウアウはそういうと、艶然と微笑んだ。その魅力に満ち溢れた笑顔は、セツナの心さえも溶かしてしまいそうなほどの破壊力があり、彼は即座に顔を背けると、リグフォードに話しかけた。

「将軍、いますぐここから離れましょう」

「あ、ああ。わかりました。そうしたほうがよさそうですな」

「ええ……どうも、あれと対峙していると気が狂いそうだ」

 セツナは、リグフォードが即座に船員たちに命令を下すのを傍らで聞きながら、胸を抑えた。動悸が収まらない。マウアウの声を聞いているだけで、理性が弾け飛びそうになるのだ。

「しかし、なにものなのでしょう?」

「……神の一種かもしれない」

「神様……でございますか?」

「この世にはごまんといるんだろ、皇神ってのがさ」

 ベノアガルドを掻き回し、数多くのひとびとを不幸に陥れた邪神アシュトラの姿が脳裏を過る。アシュトラだけではない。ベノアガルドの神であった救世神ミヴューラも、皇神ではあったのだ。聖皇ミエンディアによって召喚された神々の一柱であり、ミエンディアより離反したがために神卓に封じられたのがミエンディアだ。それ以外の皇神といえば、ザイオンの神やディールの神もそうなのだろうし、ヴァシュタラもそうであるはずだ。ほかにも数多くの神がミエンディアによって召喚されたのは、歴史的事実であり、それら神々がこの世のどこに潜んでいたとしてもなんら不思議ではない。

 まさか海にみずからの領域を持つ女神がいるとは思いもよらなかったが。

「皇神……」

「だとすれば、速やかにこの場を離れるに越したことはありませんな。皇魔ならばまだしも、神との戦いなど、御免被りたい」

 リグフォードは、髭を撫でながら、自分に言い聞かせるようにいった。彼も落ち着きを取り戻そうと必死な様子だった。リグフォードだけではない。甲板上にいるだれもが、マウアウの姿や声に魅了されかけていたことがその後の反応から窺い知れる。甲板上に残っていた船員たちは無論のこと、召喚武装によって五感を強化されていた武装召喚師たちは余計にその魅力に引き込まれているようだった。セツナもそうだが、五感が強化されるということはなにもいいことばかりではない。嗅覚が強化されれば、悪臭もより強く感じ取ってしまうわけであり、聴覚が強化されれば、魅了の声もそれだけ耳に響くのだ。

 おそらくそれこそがマウアウの力なのだろう。

(見るものを魅了する姿に聞くものを魅了する声……か)

 さながらセイレーンのようだ、とセツナは想った。

 やがて、船が回頭を始めてもマウアウは静観の構えを崩さなかったが、こちらのことを考えてくれたのか、彼女が生み出したのであろう白霧はとっくに消え失せていた。

《ひとの子らよ》

 マウアウの声は、やはり脳内に強く反響した。幾重にも響き、無数に反る。胸がざわめき、なんともいえない高揚感に包まれる。抗おうにもそういう意識さえ働かない。このままマウアウの声を聞き続けることが危険であるという想像は、まさに正解以外のなにものでもなさそうだった。

《我が声に耳を傾けてくれたこと、感謝する》

「いや、こちらこそ、あんたの領域だと気づかずに踏み込んで済まなかった」

《よい。その素直さ、忘れるでないぞ》

「……ああ」

 どうにも上から目線なのが気にかかったが、マウアウが本当に神であれば、致し方のないことかもしれない。神は人間より上位の存在であると自覚し、そのように振る舞うものだ。マユラ、アシュトラのみならず、人間に好意的なミヴューラですらそうだった。人間に友好的でさえなさそうな――かといって敵対的でもない――マウアウが、人間に対し丁重な態度を取るとは考えがたい。

 もっとも、どうでもいいことではある。

 マウアウがどういう由来の神であれ、敵対せずに済むのであればそれに越したことはなかった。マユラ、ミヴューラの例を考えるまでもなく、神の力というのは強大極まりないものだ。アシュトラは辛くも撃退できたものの、打ち倒せたとはいい難い結果に終わっている。

 黒き矛は確かに強い。その上、地獄での鍛錬により、神に食らいつくほどの力を発揮することができてはいた。だが、それですら、神の本気には遠くおよばないかもしれない。少なくとも現状引き出せる力のすべてを持ってしても、マユラに勝てるとは想えなかった。

 マユラは、セツナの記憶の中において絶大な力を持った存在として君臨している。

 セツナは、ほっと胸を撫で下ろすと、メリッサ・ノア号がゆっくりと回頭するのを待とうとした。マウアウの守護する海域はおそらく、琥珀の柱が乱立する範囲内であり、その海域さえ離れれば、彼女の怒りを買うことはないだろう。遠回りにはなるが、神であろうマウアウとの戦闘を避けることができるのならば、それに越したことはない。神との戦闘は、周囲に多大な被害をもたらしかねない。

 そう考えていた矢先のことだ。

《しかし……》

 不意にマウアウが口を開いたかと思うと、予期せぬ事を口走ってきた。

《そなたのこと、視た記憶があるな》

「え?」

 顔をあげる。ゆるりと回頭する船の上、マウアウの美貌がわずかに歪んでいた。怪訝な顔つきで、こちらを見下ろしている。金色に輝く瞳には、いつまでも見ていてもらいたいという衝動を駆られる。だが、それが自分の本心ではないことは明らかだ。マウアウの力。他者を魅了する強大な力が働き、作用しているに違いない。でなければ理不尽だ。

《確か……クオンの記憶の中で視たはずだ》

「クオンの? どういうことだ?」

《待て。我も困惑している。なぜそなたは、クオンの記憶の中にいた?》

 問われて、セツナはますます混乱した。マウアウがなぜクオンを知っていて、クオンの記憶の中を覗き見たようなことをいうのか。まったく理解ができないし、想像がつかないことだ。見知らぬ海の底にいたと思しき異形の女神がなぜ、クオンのことを当然のように知り、当たり前のように記憶の中に視たなどというのか。

「クオンの記憶の中を視たってのか? あんたが? どうして?」

「御主人様」

「どういうことなんだ、いったい!」

 セツナは、レムが抑えようとする手を邪魔に想いながら、マウアウを睨みつけた。すると、マウアウの透き通るように白い肌に神秘的な斑紋が浮かび上がっていく。巨体の表面に浮かんでいる斑紋と同じものだ。マウアウが、斑紋の浮かんだ顔を厳しいものにした。

《なるほど。そういうことか。そういうことならば、致し方ない》

 冷厳な声はしかし、この上なく魅力的なものとしてセツナの頭の中を反響する。セツナは咄嗟に両耳を塞いだが、そんなことをしても無駄だった。マウアウの声は、セツナたちの頭の中に直接届いていたからだ。

《そなたは、捨て置けぬ。セツナ=カミヤ》

 ぎろりとマウアウがセツナを睨みつけた瞬間、凄まじい殺気が電流のように全身を駆け抜け、体中の毛穴という毛穴が開いた。

《魔王の杖の担い手よ》

 マウアウが告げてきた瞬間、海が揺れた。



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