第千八百五十五話 海神領域(一)
「――!」
遥か彼方で、声が聞こえる気がする。
渦巻く暴風の向こう側から、自分を呼びかける声が聞こえる気がする。気のせいだろうとはいいきれない。声。遠く、けれども力強い。切羽詰まっている。なにかを必死で伝えようとしている。なにをそんなに焦っているのか、彼にはわからない。
地獄の底の嵐の中で、彼はただ、翻弄されているからだ。
「――様っ!」
声が、次第にはっきりとしてくる。その声は、悲鳴にも似ていた。だれが泣いているのか、なぜ泣いているのか、まったくわからない。想像もつかない。自分は地の底で、地の果てで、嵐のような激闘を演じているのだから、そんなことを考えられるはずもない。だがだからといって無視できることではないのは、その悲鳴が彼の心に直接届いているような気がするからだ。なぜだろう。強く引き上げられるような感覚がある。
「御主人様っ!」
そこでようやく、彼は、その悲鳴が彼にとっての大切なひとのものであるということがわかり、目を開いた。ぼやけた視界によく知った顔が映り込んでいる。黒髪の少女だ。必死の形相は、なにか切羽詰った状況であることを示しているのだろうが、半覚醒状態のセツナのぼんやりとした思考では、最適解を導き出せそうにもなかった。口をついて出た言葉も、そんなものだ。
「レム?」
「やっとお目覚めになられました」
レムは、セツナの声を聞いただけで満足したのか、満面の笑みを浮かべた。さっきまでの形相はどこへやらといった感じの変化に、さしものセツナも拍子抜けがしたが、ともかく、彼女が安心してくれたことにはほっと胸を撫で下ろした。きっと、たいしたことではないのだ。そんな確信とともに周囲を見回す。
相も変わらぬ船室の中だ。質素な作りで、調度品などたかが知れているようなものばかりだが、問題はなかった。私物の入った棚と小さな机、椅子が置かれているくらいでも十分過ぎる。それに加え、セツナが寝ている寝台がある。決して安物ではないが、高級品という感じもしない。だからといって寝にくいわけではなく、むしろセツナにとっては寝心地がいい部類に入る。
「朝か」
「昼でございます」
「昼……?」
「寝過ぎでございますね」
「まったくだ」
セツナは、レムの呆れ果てたような言い方に渋い顔をした。寝すぎたのは、おそらく寝台の寝心地が良すぎたからだ。それに加え、船の揺れがちょうどいい感じに眠りを誘うのだ。目覚めようとしても、もっと眠り続けていいとでもいうような揺れ。実際、眠り続けてもなんら問題はない。長い航海の真っ只中。起きて日中にできることなど、とくになにもなかったりする。
ベノア島を出航してからというもの、セツナがメリッサ・ノア号でしてきたことといえば、リグフォードとニーウェのことを話し合うか、日課の鍛錬を行うか、船員に船旅についての話を聞くか、ただレムと時間を過ごすかのいずれかしかなかった。
退屈を持て余している。
船の仕事で忙しい船員たちとは異なり、ただの乗客でしかないセツナにはなにもすることがないのだ。船の素人になにかを手伝ってもらおうという船員がいるはずもない。ましてやセツナは西帝国にとっても重要な人物なのだ。そんな人間になにかを頼めるわけもない。
結局、セツナは日がな一日、ぼんやりする時間が増えた。
「で……なんでまたあんな形相をしていたんだ?」
「御主人様がうんともすんともいってくれないからにございます。本当に心配したのですよ?」
「心配……?」
セツナには、レムの言い分が理解できない。
「なにを心配する必要があるんだよ」
「それは……御主人様がこのまま目覚められないのではないか、とか」
「だったらおまえも起きていられないだろ」
「……それは、そうでございますね」
彼女は少しばかり考えるような顔をして、すぐさま笑いかけてきた。
「それならば、悪くはないかもしれません」
「なにが」
「御主人様と一緒に永遠に眠っていられるなら、それも」
レムはそんな風にいって、微笑する。それが本心なのかどうかは不明だが、少なくともそうなってもいいと想ってくれていることには、素直に喜ぶのだが、セツナの口から出たのは真逆の言葉だった。
「俺は、嫌だよ」
「まあ」
レムが眉根を寄せたのは、セツナの反応が予想外だったからなのだろうが。
「眠ってたら、おまえがいるかどうかもわからないだろ」
「御主人様……」
「寂しいのはやだぜ」
「わたくしも……そうですね」
レムがセツナの言い分を理解したように深くうなずく。
それからしばらく、沈黙が続いた。
船が揺れている。波の上、どれほど巨大な構造物も、揺れずにはいられない。
魔動船メリッサ・ノア。一見するとただの巨大な帆船にしか見えないそれは、帝国が技術の粋を集めて作り上げた特別製だった。それでも海の生み出す力には敵わないのだ。
「ところで、航海は順調なのか?」
「船員の皆様によると、とても順調だそうですよ」
「そうか……」
「まあ、リョハンに辿り着けるかは不明だそうですが」
「そりゃあ仕方ないさ」
セツナは、あきれるように笑った。
大陸は、およそ二年前の“大破壊”によってばらばらになった。ただ大地が引き裂かれただけではない。世界全土を襲ったのだろう地殻変動によって、大地と大地が引き離され、海水が陸地と陸地の間を埋め尽くした。どこにどの土地があるのか、まったくわからないのだ。
リグフォード将軍の話によれば、西帝国軍はこれまでいくつかの島を渡り歩いて来ており、必ずしもかつての大陸図に沿った配置にはなっていないのだという。リョハンの存在するヴァシュタリアの大地がどこにあるのかなど、検討もつかないのが現実なのだ。
ちなみに西帝国軍が辿ってきた道中に立ち寄った場所というのは、ラクシャ、ジベル、イシカ、クリュードといった国々が存在する多数の島であり、それぞれで戦力を確保できなかったためにベノア島まで足を伸ばしたのだ。その結果、西帝国軍はセツナと取引できたのだから、彼らとしてはその長旅にまったく意味がなかったわけではない。むしろ、ほかの国々で戦力を借り入れるよりも、セツナひとりのほうが余程強力であるとさえいっていいのではないか。
傲慢ではなく、冷静にそう断じる。たとえば、現在のジベルに残っている戦力を掻き集めたとして、セツナひとりに敵うとはとても思えない。たとえジベルに武装召喚師がいたとしても、それほどの数にはなるまい。セツナひとりでどうとでもなる人数に違いない。それならばセツナを戦力として組み込むほうが遥かに効率的だ。セツナを戦力に組み込むということは、レムもついてくる。レムには並の武装召喚師では太刀打ちできない実力がある。
「ちょっくら、甲板の様子でも見に行くか」
「まずはお昼をお召し上がりになられませんと」
「ん……それもそうか」
そのとき、思い出したようにセツナの腹が鳴ったのは、レムに指摘されたからに違いなかった。
魔動船メリッサ・ノアは、西ザイオン帝国が誇る魔動船の一隻だ。
超大型魔動船アデルハインと比べると二回りほど小さく、見劣りするのだが、メリッサ・ノアだけを見ればそうは想えなかった。十分過ぎるほど巨大で、迷路のような船内には最大五百人超の乗員を乗り込ませることのでき、無数の船室があった。食堂があるのは無論のこと、便所、浴室、休憩所まで完備されており、長い船旅を少しでも快適なものにしようという努力が随所に見受けられた。
帝国は、三大勢力の中でもっとも外海への進出を考えていただけあって、海や船への知識が豊富にあるらしかった。
帝国も他の二大勢力と同じく小国家群への侵攻は、国是として禁止されていた。領土の拡張そのものを禁じ、領土の維持と、国内情勢の安定や戦力の充実に全力を注ぐことが帝国を始めとする三大勢力を支配する掟であり、この数百年に及ぶ沈黙の原因だった。それが神々の真の目的に達するための計画であるということが判明したのは、最終戦争の最中のことであり、それまでだれひとりとして知るものはいなかった。もしかすると、帝国皇帝や聖王国の王ですら真相は知らなかったのではないか。
ともかく、領土の拡大を禁じられた帝国は、その膨大な国力が生み出す野心という強大な欲望をどこかにぶつける必要があったらしい。それがリグフォード将軍いわく、外海なのだ、という。
何代も前の皇帝アデルハインが大陸外周の一周を成し遂げたのも、その一環なのだそうだ。とにかく海への憧れの強い国であり、海の果てにまだ見ぬ大地があると信じて、何度も船を繰り出し、その度に失敗してきたという。航海技術を磨き、新たな船を建造しては、海に繰り出す。やがて帝国海軍の航海技術は、イルス・ヴァレ全土において類を見ないほどのものとなった――とは、帝国海軍士官の話だが。
セツナは、そういった海軍士官の話を聞きながら、帝国への想いを馳せたりした。
ニーウェが生まれ育った国だ。どういった国なのかも、ニーウェの記憶を通して垣間見た一部しか知らなかった。
本当のザイオン帝国を知らないのだ。
知るためには、一度、ザイオン帝国領に赴くしかないが、その日は確実に来るだろう。セツナはニーナと西帝国の戦力になると約束している。約束は果たさなければならない。でなければ、セツナは自分でいられなくなるだろう。
もちろん、そのためにはまず、リョハンを見つけ出すことが先決だが。
「いい天気だな」
「まことに晴れやかで……いい気持ちでございますね」
レムがめずらしく伸びをするのを横目に見て、彼はもう一度頭上を仰いだ。
晴れ渡る空には雲ひとつ見当たらず、降り注ぐ陽光も春の訪れを感じさせるほどに温かい。二月ももうそろそろ終わり、三月が近づいていた。段々と寒い時間よりも温かい時間が増えてきている。もっとも、北を目指している関係上、船はむしろ春から遠ざかっているようなのだが、今日の日差しはそんなことを忘れさせるくらいに暖かかった。
船内から、メリッサ・ノアの甲板に出ている。そこかしこで船員たちが働いており、ふたりは、船員たちの仕事の邪魔にならないように注意しながら、甲板上を歩いていく。船の上から見渡す海は、どこまでも広大だ。後方を振り返っても、もはや陸地は見えない。ベノアを発ってから既に十五日程が経過しているのだ。見えなくなるのも当然だった。
吹き抜ける潮風が心地よいものの、あまり海のにおいを感じず、セツナは不思議に想った。
隣で潮風を満喫するレムの様子を見れば、そんなことはすぐに吹き飛んだが。