第百八十四話 つがいの飛龍(後)
フェイは、擬体と両剣の女との戦いを演じる一方、本体としての意識は包囲陣の敵へと移っていた。包囲陣の敵兵に大きく分けて二種類いることがわかる。屈強な戦士たちには違いないのだが、武器も防具もばらばらの連中と、統一された服装の連中。統一された服装は、両剣の女と同じ格好であり、所属を示す制服なのだろう。そして、その連中には攻撃が通らない。武装召喚師の盾は、制服の連中だけを護っているようだ。
ならば、連中を避けて戦えばいい。攻撃の効かない敵に襲いかかっても無駄なだけだ。それでは、死んでも死にきれない。
(ううん)
彼女は、胸中で頭を振った。
もう、いつ死んでも構わないのだ。それだけははっきりとしている。至上の幸福を手に入れたのだ。彼とようやく、名実ともにひとつになれた。フェイ=ワイバーン。彼がとっさに考えたのであろう名前は、ヴリディアの呪縛から、五竜氏族の呪縛からも解き放ってくれたのだ。
心置きなく、死ねる。
やっと。
ようやく。
(疲れたんだよね、ジナもわたしも)
身も心も、疲れ果てている。救いなんてあるはずもない世界で、なおかつそれを求めるような馬鹿げたことはしたくなかった。魔龍窟を出ても、見える世界大きな違いはなかった。だれもかれも、くだらない野心や野望に身を焦がし、妬みや憎しみを募らせている。怒りと悲しみと、嘆きと。この世を覆うすべて、魔龍窟のそれとなんら変わらなかった。どこもかしこも地獄のようなものだ。
十年前となにひとつ変わらない空の青さも、雲の白さも、太陽の眩しさも、彼女の心を癒してくれはしなかった。心はとっくに壊れていて、だから治りようがないのだ、とジナーヴィは自嘲気味に笑っていたが、本当は泣いていたのかもしれない。彼は泣き虫で、それはフェイも同じだった。抱き合い、泣き合い、それでもなんとか生き抜こうとしてきた。
それにも、疲れた。
フェイは、包囲陣の敵に向かうのをやめた。
ジナーヴィを見やる。水流の障壁の向こう、彼の姿ははっきりとは見えない。しかし、彼が深手を負っているのはなんとなくわかった。このまま、なぶり殺されるのを、彼はよしとは思わないだろう。それどころか、痛がりで、ちょっとした傷ですぐに泣いてしまう彼には、この状況は耐えられないはずだ。
死にたがっている。
「ねえ、ジナ」
フェイは、擬体ともどもジナーヴィの元に向かった。
どうせ、死ぬのだ。
せめて、少しでも近くがよかった。
刹那――。
「あれ?」
フェイは、凄まじい激痛に身を捩った。擬体からの視覚情報が、なにが起こったのかを正確に伝えてくれる。腹を貫く剣が見えた。背後からの強襲。二刀流の女の剣ではなかった。雑兵にやられたというわけではあるまい。包囲陣は動いてはいなかった。包囲陣。フェイとジナーヴィのふたりをこの場に留め置くためだけのものなのだろう。攻撃能力は皆無といっていい。矢は、ふたりには届かない。攻撃も、盾の仲間にしかできない。その盾の仲間のひとりが、擬体の背中を貫いたのだ。
フェイに反動が来たのは、擬体を動かすために意識の共有を切っていなかったからだ。フェイは、苦笑とともにその場に崩れ落ちかけた。なんとか膝立ちで堪えるが、意味はないだろう。二刀の女が、こちらに疾駆してくるのが見えている。彼女に殺されるのもいいだろう。
フェイは、腹部の激痛に泣き言をいいたくなったが、それだけはなんとか押し止めた。ジナーヴィに視線を送る。水流の防壁はなくなり、彼は空中高く浮き上がっていた。片翼を壊されたせいか、姿勢が不安定で、不格好なのが彼らしいといえば彼らしいのかもしれない。
彼の目が、フェイを見ている
それがわかっただけでも、彼女は満足だった。
「見届けてね、ジナ。大好きよ」
目の前に、二刀の女が飛び込んでくる。フェイは、ふと、双竜人を送還した。彼らとて、契約者でもない人間に使い回されるのは、もううんざりしているはずだ。元の世界で眠っていればいい。
息を吐く。
それは自分も同じだ。うんざりするくらいに殺し尽くした。仲間を、家族を、敵を。そろそろ眠ってもいいはずだ。
女を見ると、目が合った。鋭く研ぎ澄まされた目は、刃のようだ。その刺すような視線が一瞬、たじろいだように思えた。なぜかはわからない。こちらが、あまりに潔いからなのかもしれない。
「なにか言い残すことは?」
女が、そんなことを聞いてきたことに、フェイは驚きを隠せなかった。さっきまでふざけているだのなんだのと罵ってきた人物とは思えない。が、彼女は、女の質問に感謝した。答えるべきは決まりきっている。
「わたしはフェイ=ワイバーン。ジナーヴィ=ワイバーンの妻。それだけよ」
その名をひとりにでも記憶してもらえれば、十分かもしれない。それだけで、今日、ここで戦った意味があるというものだ。
「そうか」
女が、フェイの言葉になにを思ったのかはわからない。ただ、怒りや苛立ちをその表情から想像することはできなかった。この状況でふざけているとは思えなかったのだろうか。
なんにせよ、フェイは、待った。
女が、剣を構えた。
空中。
片翼では、高度を維持するのも一苦労だったが、ジナーヴィは竜巻を解除することでそれを可能にした。自分を中心に築かれた包囲陣の見事な円形に苦笑する。しかし、円陣を構築した屈強な戦士たちが手も足も出せず、ただ成り行きを見守るしかないというのは苦痛以外の何者でもなかっただろう。彼らだって戦功を上げたかったはずだ。ジナーヴィの首級は、それなりの価値も合っただろう。
聖龍軍大将、聖将ジナーヴィ=ワイバーン。
ジナーヴィは、とっさに思いついたその名が気に入り、胸中で何度もつぶやいていた。フェイは、どうだろう。気に入ってくれただろうか。少なくとも悪印象はなかったようではあるが、彼女の心の中まではわからない。とはいえ、結婚宣言は、彼女の心を多少なりとも救えることができただろうか。
(幸せ……だよな、俺も)
ジナーヴィは、腕の中に残るフェイの感触を思い出して、少しだけ微笑んだ。フェイとの思い出のほとんどは、幸福そのものだ。ふたりの記憶までも呪う必要はない。そして、世界を呪うのにも疲れ果てた。
眼下、敵軍の動きが慌ただしい。後方から部隊が到着したようだ。いや、後方だけではない。奇襲を行った騎兵隊や他の騎馬隊、歩兵たちが包囲円陣のさらに周囲を固めていく。矢がいくつも飛来した。が、ジナーヴィに当たることはない。大気の保護膜が、彼を護っている。
フェイが双竜人の力を使っていた。なにを思ったのか。擬体とともにこちらに向かってきている。彼女の考えは一瞬で理解できた。
死ぬのなら、せめて、近くで。
ジナーヴィには、フェイの気持ちが痛いほどわかった。だから、側に行ってあげたかった。だが、実体を明らかにした男と、川底から小石を広い上げた女が、ジナーヴィを釘付けにしている。
女は、また爆撃を行うつもりだろう。男がそれに乗じるには、こちらの高度が高過ぎるはずだが、それでも、指をくわえて見ているというわけにはいかないのだ。
フェイの本体が膝をついたのが、視界に飛び込んでくる。擬体は、背後からの一撃に成す術もなかったようだ。擬体を破壊したのは、長剣を手にした男。盾少年の仲間だろう。服装でわかる。
フェイは、擬体からの反動に耐えきれなかったようだ。両剣の女が、フェイの眼前に立った。竜巻を起こしても、女には効かないだろう。フェイをその場から引き離しても、時間稼ぎにしかならない。そして、時間稼ぎなど必要はない。
ジナーヴィもフェイも、ここで終えようとしている。
ジナーヴィは、フェイの声を聞いた気がした。
「わかってる」
フェイの胸に差し込まれる剣の形状を記憶に焼き付けるように、彼は、彼女の最期を看取った。フェイは、苦痛にうめくようなこともなく、逝けたらしい。くずおれる寸前に見えた彼女の表情は、どこか安らかだった。
ジナーヴィは、怒りや哀しみよりも、むしろ彼女を救ってくれたことに感謝すら覚えている自分に気づいた。取り乱すこともない。彼女の死を見届けることができたのだ。
もう、思い残すことはない。
不意に、女が鉄槌で小石を叩き飛ばしてくる。小石はジナーヴィの眼前で爆発を起こしたが、その瞬間には暴風障壁を展開している。爆炎を吹き飛ばすと、男の姿が消えている。だが、脅威にはならない。
ジナーヴィは上空で、天竜童の全力を解き放った。
嵐が起こる。
川の水が大量に巻き上げられ、水底の小石や土砂も舞い上がる。凄まじい暴風がなにもかもを巻き込みながら、膨張していく。嵐はやがて包囲陣へと至り、さらに勢力を広げていく。川の両岸へと到達するころには、多くの死体も空に巻き上げていた。
だが、包囲陣は一切崩れない。盾の仲間以外の兵士たちも、暴風に耐えている。吹き飛ばせない。盾の少年を見ると、純白の盾が一層強く輝いていた。彼も、召喚武装の全力を行使しているのだろう。絶対的な防壁が構築されているようだった。
ジナーヴィは、笑うよりほかなかった。
だれひとり倒せぬまま、死ぬらしい。
「それもいいか」
彼は、笑って納得すると、眼下、男の姿が実体化するのを目撃した。飛びかかったはいいが、高度が足りなさすぎて諦めたのだろう。そう思った。だが。
「いい足場だ」
男の後方から飛来した剣士が、彼の背を踏み台にして、再度跳躍してみせた。男は呆気に取られたようだが、剣士は不敵に笑っている。龍の翼を斬った剣士だ。蒼い剣が、あまりに美しい。
ジナーヴィは、右手を剣士に向けた。圧縮した空気の塊を叩き込む。しかし、剣士の一閃が風弾を切り裂き、間合いを広げることもかなわない。いや、彼も盾の庇護下に入っているのなら、直撃しても意味はなかっただろう。牽制にすらならない。
「ずるい奴らだ」
本心を告げると、剣士は一笑に付した。口の端に血が滲んでいる。
「武装召喚師の言葉とは思えないな」
「はっ」
ジナーヴィは、耳元で聞こえた剣士の言葉に、自嘲を浮かべた。天変地異にも等しい暴風を起こしているものがいっていい台詞ではない。
「違いない」
剣が、ジナーヴィの胸を貫いていた。天竜童の装甲は、どうやら蒼の剣の前では意味を成さなかったようだ。そもそも、この鎧に防御能力を期待してはいけなかった。鋭い痛みが、肉体を、心臓を貫いている。なにかが脳裏を過る。いくつもの景色、無数の光景、数多の情景。自分の記憶なのだろう。ジナーヴィ=ライバーンとして生まれ、ジナーヴィ=ワイバーンとして死ぬものの最期の風景。闇が見えた。地獄のような世界で、彼は小さな花と出逢った。彼女がいたから、生き抜くことに意義を見出だせたのだ。
生き抜き、死ぬ。
だが、彼は安らかな気持ちだった。ようやく命が終わる。彼女の元へ逝ける。
風が、止んだ。