第千八百四十八話 嵐ヶ丘(一)
風が逆巻く音が聞こえていた。
いつからだろう。
波に揺れる船室の中、寝台に横たわり、目を閉じてからすぐだったか。
まさに嵐だった。
嵐のような暴風が耳元を掠り、走り抜けていった。いや、駆け抜けているのではない。セツナの周囲を巡り巡っている。
視界は、暗闇に覆われている。なにもかもが闇に沈んだ世界。そんな世界で足取りも確かに前に進むことができているのは、闇に目が慣れていたからだ。どこまでも続くような闇の世界。無数に積み上げられた骨の道をひたすら歩いていた。
地獄。
(そうだ。俺は……地獄を進んでいる)
まるでついさっきまで夢を見ていたかのような感覚の中で、セツナは自分の置かれている状況を思い出して、はっとした。拳を握り、感覚を確かめる。指先に至るまで思い通りに動いていたし、骨の道を踏みしめる足にも力が入った。
(なんの問題もない、な)
目の前の現実を認識し直して、彼は、顔を上げた。
人間、動物、怪物――多種多様な骨で形成された地獄の風景は、歩き続けるうちに少しずつ変化していた。それもそうだろう。カインと戦った場所から随分歩いていた。あれからどれほどの時間が経過したのか。感覚的には数時間どころではなかった。数十時間は、歩いている。疲れも知らず、腹が空くこともなく、ただひたすら地獄の中を歩き続けていた。
歩かされ続けていた。
疲れないのも不思議だったし、空腹感や眠気が襲ってこないのも奇妙なことだった。が、ここが地獄だと思えば妥当なのではないかと思い至る。地獄は、亡者を責め続ける場所だ。死者の行き着く果てであり、その魂を罰し続ける領域だ。眠ることも休むことも許されない世界なのかもしれない。
だとしても死者ですらないセツナが疲れない理由にはならないが、彼はそれで納得することとした。
地獄の中。
当面の目的地は、遥か地平の彼方に見える祭壇のような場所だ。
そこだけがほかと異彩を放っていた。ほかは、どこもかしこも血まみれの骨ばかりであり、骨でできた山や谷、血の川に針の山という地獄らしい光景が広がっており、どこにも行く宛がなかった。
そんな世界。
光を放つ祭壇に辿り着けば、なにかがあるかもしれないし、なにもないかもしれない。
いずれにせよ、目的もないまま彷徨い続けるのは、修行にはならないだろうという考えがセツナの中にあった。ならば、目的を定め、それに向かって邁進するべきだ。
彼がこの地獄に堕ちたのは、死んだからではない。
強くなるためにこそ、地獄に堕ちたのだ。
落とされたのだ。
この墓穴の底へ。
真っ赤な髑髏ばかりの道を歩くのにも、鼻孔を貫く死臭にも慣れた。慣れすぎてもはやなにがなんだかわからないくらいだった。骨の道を進み、骨でできた橋を渡って血の川を越え、針の山を横目に突き進む。ここに至るまで出会った亡者といえば、カイン以外にはいなかった。そのカインも戦いを終えればすぐに消え去ってしまった。
あれから何十時間あまり、歩き続けている。
風景の変化というのは微妙なものであり、そんな微妙なものに心動かされることなどなく、彼の心は次第に渇いていった。
渇望している。
(なにを?)
彼は自問を投げかけながら、答えず、ただひたすらに前に進む。それしかなかった。目的地と定めた祭壇に向かって、一歩一歩近づいていくしかない。眠ることもなければ休むこともなく、まるで疲れを知らない化け物のように。亡者のように。
(俺、死んだのかもな)
などと不吉なことを考えてしまうほどに、ただ歩くだけの時間というのは苦痛だった。
なにもないのだ。
骨ばかりの世界。彼以外の他者はおらず、世界に変化は訪れない。絶対的な孤独の中、掲げる目的も正しいものかどうかさえわからない。まるで砂中の胡麻を探すかのような苦行に似ていて、これが地獄に堕ちた亡者の行き着く先なのではないかと考えてしまったのも無理のないことだった。
そんなセツナだったが、ついに大きな変化が訪れる。
風の音が聞こえたのだ。
さっきまでまったく吹かなかった風が吹いた。
それは、多大な変化であり、彼は歓喜とともにいつの間にか下げていた視線を上げた。
目の前に大きな丘があった。
無論のこと死者の骨でできたそれは、途方もなく巨大で、呆気に取られるほどだった。さらに近づいてよく見ると、丘全体を風が包み込んでいるようだった。とてつもなく強い風だ。丘に近づけば近づくほどの、その風の強さがわかる。しっかりと地を踏みしめないと吹き飛ばされそうになるほどだった。いや、地を踏みしめても、いけない。丘を登れば登るほどに風は勢いを増していた。
セツナは、丘の斜面這いつくばると、風に吹き飛ばされまいと骨を掴んだ。そしてそのまま、ゆっくりと丘の上を目指した。
なぜ、嵐のような暴風に包まれた丘を登るのか。
別に登る必要などあろうはずもない。祭壇を目指すだけであれば、無視すればいい。無視してもなんの問題もないはずだ。だが、セツナの目的を考えれば、無視などできるわけもなかった。
セツナは、修行のためにこの地獄に堕ちたのだ。もっと強くなるために。今度は、黒き矛を折られないために。折られないほどの力を発揮しうる器を作るために。
一から鍛え直すために。
嵐の丘がどう修行に繋がるのかなど、考えもしない。ただ、代わり映えのない地獄の中に発見した変化だ。なにか意味があると考えるのが、普通ではないか。
カインのような亡者が待ち受けているかもしれない。
セツナは、そんな期待を胸に膨らませながら、丘の斜面を這いつくばって登っていった。一歩一歩、一手一手、慎重に新たな骨を掴み、体を滑り込ませるようにして前に進む。頭上を渦巻く風の音は、次第に強く、激しくなっていっていた。ただの強風がいまや暴風となり、セツナが立ち上がることなど許す気配もなかった。急斜面。立ち上がれば、軽々と吹き飛ばされるだろう。
それほどの嵐の最中、セツナは丘の上をひたすらに目指した。丘の上にはなにもないかもしれない、などとは考えもしなかった。たとえなにもなくとも構わない。ただの地獄の一風景だったとしても問題はない。この地を這うように進む時間こそ、修行になっていると思えば、無意味ではないのだ。
そんな想いを抱き、体を引きずるようにして丘の頂へと至ったセツナは、地に這いつくばったまま、そこに風が吹いていないことに気づくまでしばしの時間を要した。
暴風は、丘の周辺から斜面にかけて吹き荒んでいたのだ。丘の頂点は、まるで台風の目の中のように平穏で、嵐の中とは別世界のような有様だった。そのおかげか、さっきまで風に飛ばされてにおわなかった死臭が、以前にも増して激しく嗅覚に突き刺さった。
起き上がり、状況を確認する。
だだっ広い丘の上は、決して平坦ではないものの、登ってきた斜面に比べれば断然平面に近い。丘の上もなにもかも骨で形成されており、ここが地獄であるということに違いはなかった。代わり映えのない景色といってしまえばそれまでだが。
ふと振り向くと、暴風が分厚い壁のように流れており、向こう側の景色を歪ませていた。逆巻く風の音は、いまも耳にうるさい。
「随分と成長したようだ」
声は、前方からだった。
視線を戻すと、さっきまでだれもいなかった丘の上にひとりの男が立っていた。長身の若い男だ。聞き知った声だったが、すぐには思い出せないくらいには懐かしい声でもあった。しかし、身に纏う群青の鎧も、その鋭い視線にも見覚えがある。忘れようもない姿。彼は、いう。
「セツナ=カミヤ」
「あんたは……ウェイン・ベルセイン=テウロス」
ログナーの青騎士が、そこにいた。