第千八百四十四話 できること
ログノール首都マイラムが同盟軍の手によって奪還されたのは、女神教団との決戦が行われた翌朝のことだった。
大陸暦五百六年二月十七日。
女神マリエラ=フォーローンが斃れたことは、女神教団教徒たちの目を覚ますことに直結していたらしく、元々ヴァシュタラ教の信徒だった彼らは、女神に支配されていたことを自覚し、自分たちが至高神ヴァシュタラを裏切ったことへの罪悪感に苛まれることとなったようだ。そうなると、戦意など湧き上がることもなく、同盟軍がマイラムに押し寄せるだけで降参した。
生粋の女神教団教徒など数えるほどしかおらず、それらは女神の死の直後、ヴァシュタラ教徒たちの手によって誅殺されていた。なぜならば、女神教団教徒もまた、元を正せばヴァシュタラ教徒であり、女神教団の宗旨変えは、ヴァシュタラ教徒にとって許せざる背約行為にほかならないからだ。
故に、当のヴァシュタラ教徒たちは、自分たちを許すことができず、これから先、ヴァシュタラ神への懺悔の日々を送ることになるという。
そんな話をドルカ=フォームが聞いたのは、マイラムに入った数日後のことだが。
ログノール総統がマイラムに入ったのは、同盟軍によるマイラム奪還が成った翌々日のことであり、そのころには元女神教団軍、現ヴァシュタラ教団軍との話し合いはついていた。エイン=ラナディースが主導となって行われた話し合いにより、ヴァシュタラ教団軍将兵は、ログノールの支配下に入ることで合意したとのことだ。
ログナー島で生きていくためには、ログノールと協調するのが一番であり、それならばいっそのこと、ログノールの支配下に入るのも悪くはないとでも結論づけたのだろう。
もちろん、同盟軍が女神を打倒したおかげで自分たちを取り戻すことができたから、というのも極めて大きいようだ。
生粋のヴァシュタラ教徒たちにしてみれば、女神に支配され、望む望まぬに関わらず背約行為を取らされた挙句、異教の神を信仰させられていたのだ。女神マリエラへの怒りや恨みは相当なものであるらしく、その根深さは、戦後、女神教団幹部へと向けられたことからも窺い知れる。
幸い、ほとんどの女神教団教徒がヴァシュタラ教徒としての自分を取り戻したため、血みどろの争いに発展するようなことはなかったものの、みずから率先して女神に忠誠を誓った女神教団の幹部は全員、ヴァシュタラ信徒の手によって惨殺されており、女神教団の実態を知る術は絶たれてしまった。
もっとも、女神教団の実態をいまさら知ったところで、その女神が斃れた以上、どうでもいいことではある。
「どうでもよくはありませんが」
「え?」
「え? じゃないですよ、まったくもう」
エイン=ラナディースが困ったような顔をしてくる。彼の相変わらずの童顔は、困らせ甲斐のあるものだと想わざるを得ず、ドルカは度々、ログノールの名参謀を困惑させるべく無駄な努力を試みていた。
マイラムにある政府官邸の一室に、ふたりはいる。総統の執務室だ。政府官邸は、マイラムが女神教団に制圧された後、女神教団の拠点として利用されていた。そのため、奪還直後はそこかしこに女神教団関係の物品や飾り付けがされていたということだが、奪還から二日が経過した今日、ドルカが目にした範囲にはそういったものは見えなかった。エインたちが早急に撤去させたのだろう。さすがの手腕だ。
「女神マリエラは、元々ただの人間だったんですよ」
「それは、知ってるけどさ」
「それがヴァシュタラ信徒の身も心も支配するような力を得たから、こんな騒動になったんです。俺のいってる意味、わかりますよね」
「ああ、わかるよ、わかるともさ」
高級な机の光沢見つめながら、エインの言葉にただうなずく。彼がいわんとしていることはわかるし、そのことを懸念する気持ちは無論、ドルカにもある。
官邸に入るまで、彼はマイラムの惨状を目の当たりにしている。いや、マイラムに至るその道程でも、見てきている。女神教団と魔王軍別働隊の戦いは、マイラム東部森林に甚大な被害をもたらしていた。それは女神の脅威とは直接関係のないことかもしれないが、女神教団軍を操っていたのは女神マリエラであることに違いはない。
マイラムは、中心部に大規模な破壊跡が刻まれていた。政府官邸は巻き添えを食わなかったものの、何十、何百の建物が地上から消滅し、大地に大穴が空いたと表現してもいいほどの爪痕が残っていた。それは、女神の圧倒的な力を示すものであり、そんな脅威的な力を持つ存在が人間の中から生じたというのは恐るべきことだった。そして、それは女神マリエラを打倒したからといって解決するものでもないかもしれないのだ。
「今後、マリエラのようなものが現れないとも限らないってことだろ?」
「ええ」
「だからといって、俺たちになにができるのかねえ」
「……できることは、そのときに備え、戦力を確保すること」
「うん。そりゃあわかるよ。でも、今回の戦力でもなんともならなかったんだろう?」
「そこなんですよねえ……」
エインが肩を落とし、嘆息した。どんなときでも楽観的な表情を見せることを忘れない彼にしてはめずらしい反応だといわざるをえないが、女神討伐の顛末や各地での戦いの推移を知れば知るほど、彼のような反応にならざるを得ないのも当然だった。
ログノール、エンジュール、コフバンサールの三者同盟軍が女神教団軍に勝利し、見事女神の打倒に成功したのは、三者同盟の実力ではなかった。外的要因が関係している。
「白い騎士……か」
ドルカは、ふと、勝利の外的要因を思い浮かべて、つぶやいた。
強襲部隊が生還できたのは、ひとえにその白い騎士なる人物のおかげだという話を彼は報告の中で知った。強襲部隊と女神マリエラの戦闘は熾烈を極めたが、女神の力は圧倒的に過ぎ、強襲部隊は全滅を覚悟しなければならないほどのものだったという。だれもが女神の力を前に絶望しかけたそのとき、突如として現れ、女神を滅ぼしたのがその白い騎士だ。純白の甲冑を身に纏う大男という外見から、そう呼ばれている。ただ単に白鎧とも呼ばれることがあるが、それはその男が騎士かどうか不明だからだ。ドルカとしては判別できればそれでいいため、白い騎士という呼称を用いていた。
その白い騎士は、強襲部隊が死を賭しても倒せなかった女神マリエラ=フォーローンを一蹴といってもいいほどの呆気なさで撃滅したという話であり、その実力たるや、想像を絶するほどのものであることは明らかだ。
しかも、白い騎士は、マイラムに現れただけではなかった。
マイラム南方、同盟軍本隊の戦場にも、同盟軍別働隊の戦場にも現れ、それぞれ白異化体を撃滅して回り、同盟軍の窮地を救ってくれている。もっとも、同盟軍を援護してくれたわけではないことは、白異化体殲滅後、すぐに姿を消したという話からもわかる。
シグルドたちの報告により、女神を討った白い騎士の目的が、同盟軍の支援ではないことは明らかだ。白い騎士は、女神を名乗るマリエラを討ち、どうやら彼女が手に入れた力を回収するために現れたようなのだ。
「彼らはいったいなにものなのでしょう」
「さあね。知っていたらログノールに招聘したんだが」
「来ないでしょう」
「冗談だよ」
「はあ」
エインの嘆息を聞きながら、ドルカは、腕組みをした。
白い騎士の正体はわからない。ただ、白い騎士が偽りの女神マリエラに匹敵する以上の力を持っていることは明白であり、神なるものと関わっているのも間違いはなさそうだ。また、白い騎士は、黒き矛のセツナについて言及してもいたという。
それが一体なにを意味しているのかは、想像するほかない。だが、情報量のあまりに少なすぎることを想像したところで、空想か妄想にならざるを得ず、そんなことになんの意味があるのかと問われれば、ないと答えるしかない。考えるだけ無駄なのだ。それならばいっそのこと、まったく考えず、総統としての役割を果たすことに全力を上げるほうが遥かに健全であり、建設的だろう。
戦死者の弔いと、マイラムの復興から始めなければならない。
「白い騎士はともかくとして、戦力の充実は考えなくちゃあな」
「ええ。しかし、島内のどこを探しても、これ以上の戦力は……」
エインのいうとおりだった。
現状、三者同盟にヴァシュタリア教団軍を加えた戦力が、このログナー島で確保しうる戦力のすべてといっても良かった。その中でも特筆するべき戦力といえば、ログノールの武装召喚師であり、魔王軍の皇魔であり、エンジュールの守護くらいのものだろう。これではまた女神のようなものが現れたときに対処しきれない。
「となると、海の外……か」
ドルカは、壁にかかった地図を見た。かつて大陸図が掲げられていた壁には、世界図が代わりに掲げられている。その世界図の中心にはログナー島が記されているのだが、それは無論、地図の作成者がログナー島に住んでいるからにほかならない。作成者とは魔王ユベルであり、世界の現状をもっともよく知る人物のひとりといってもいいのだろう。
ログナー島とドルカたちが呼び合っているこの歪な島を取り巻くのは、果てしない大海原だ。そのどこまでも続く海の中にログナー島と同等の大きさの島もあれば、比べようもないほどに巨大な大陸もある。海を渡る手段がない以上、海外に戦力を求めるのは至難の業であることは、ドルカが理解していないわけもなかった。
「ま……無理難題だな」
「海外に戦力を求めるのなら、魔王陛下に協力を要請するほかありませんね」
「そういえば、魔王陛下は……そうか」
ドルカは、エインがなにをいい出したのかと想ったが、少し考えれば理解のできることだった。魔王ユベルは、“大破壊”後、配下の皇魔を外海に派遣し、世界の現状を一枚の地図に纏め上げていたのだ。魔王配下の皇魔の中には、広大な海を乗り越えることさえできる飛行能力を有した皇魔が数多くいるということであり、その力を借りることができれば、海外に戦力を求めるというエインの思惑もかなえられるかもしれない。いや、エインひとりの勝手な考えではない。エインの考えというのは、ログノールを安定させる上で、ログナー島の秩序を保つ上で必要不可欠なものだ。
また女神のようなものが現れないとは限らないし、女神以外にも脅威はある。白異化体だ。白異化はなんの前触れもなく発症する症状だ。そして、一度発症すれば、回復することはなく、いずれ白異化体と呼称する怪物に成り果て、周囲に破壊と殺戮を撒き散らすようになる。白異化体の戦闘能力は圧倒的であり、魔王軍ですら蹂躙されたことは記憶に新しい。
白異化体の出現に備え、戦力を整えるというのは絶対に必要なことだった。
「魔王陛下が我々に力を貸してくれるとは考えにくいがな」
「そうですね」
エインが、静かに肯定した。
魔王ユベルは、三者同盟の結成にも消極的だったのだ。ログノールの戦力を確保するために海を超える手段を提供して欲しいなどといいだそうものなら、にべもなく突き返されるだけだろう。
それからしばらく、沈黙が続いた。
「ところで、論功行賞はやらないんです?」
「へ?」
「ログノールは一応、三者同盟の筆頭ですし、そのログノールの支配者であらせられるドルカ総統には、反攻作戦の戦功を評する資格があるのではないかと」
「……ないな、んなもん」
彼は、エインがなにを企んでいるのかと呆れるしかなかった。
「俺は、なんとなくログノールの代表をやっているような人間だぜ。そんなやつがどうして三者同盟の代表のような顔ができるんだ。それに今回の戦いでは俺はなにもしていないんだ。そのくせ、戦いが終わったら論功行賞? 三者同盟に亀裂が入ってもいいのなら、構わんがね」
ドルカは、肩を竦めた。人間だけが相手ならば、それでも大した問題にはなるまい。ログノールとエンジュールの仲は、決して悪いわけではない。むしろ良好にもほどがある。ログノールとエンジュールだけならば、彼が論功行賞を行ったところで受け入れられもしよう。
問題は、魔王軍――コフバンサールだ。コフバンサールの皇魔たちは、魔王ユベルにこそ忠誠を誓っている。先の戦いでも、三者同盟の一員としてではなく、魔王軍の一員として参戦し、戦い抜いたのだ。そんな彼らが忌み嫌う人間がその戦い振りを評価しようものなら、どのような反発を食らうかわかったものではない。総スカンを食らうだけならばまだいいが、魔王を無視したと勘違いされ、殺意さえ抱かれるのではないか。
皇魔と人間の間の溝というのは、そう簡単に埋まるものではないのだ。
せっかく同盟を結べたというのに、ログノール代表の言動によって亀裂が生まれては意味がない。
「戦功を評するのは、各組織の代表者が行えばいい。ログノール軍のことは無論、俺がやるが……エンジュール、コフバンサールの内情にまで口をだすのは愚か者のすることだろう」
ドルカが告げると、エインはにこにこしていた。
「俺にできることがあるとすれば、戦勝を祝い、戦死者の追悼式典を開くことくらいかな」
そして、それくらいならば、コフバンサールの皇魔たちもなにもいってはこないだろう。