第千八百四十三話 遠い朝焼け
「終わった……んだよな?」
シグルドが呆然としながらも口を開き、ジンに問いかけたのは、偽りの女神が消滅し、女神を消滅させた白い騎士もまた、姿を消してしばらくしてからのことだった。
唐突な、それこそだれひとりとして想像だにしない戦いの結末は、戦場に沈黙をもたらした。だれひとりとしてその勝利とも呼べない戦いの結末を喜びもしなければ、声ひとつ発することができなかった。それはそうだろう。圧倒的な力を見せつけ、同盟軍に甚大な被害をもたらした偽りの女神マリエラが、謎めいた人物によって為す術もなく滅ぼされていく様を見せつけられたのだ。そこにシグルドたちの意志は介在しておらず、完全な第三者であり、部外者というべき状況だった。まるで、マリエラと騎士(が所属する組織)の内紛の結末を見せつけられたようなものであり、シグルドたちにしてみれば、なんのために女神打倒のために反攻作戦を起こし、多大な犠牲を払ったのかわからなくなる。
「ええ……終わった、というほかないでしょう」
ジンも、納得できないというような反応だった。
戦場となったマイラムの中心地は、女神と自軍の攻撃によって徹底的に破壊され、もはや原型を留めてなどいない。敵味方の死体が散乱し、生き残ったものたちも重軽傷者が数え切れないほどにいる。だれもが事の次第に取り残されたかのように茫然としており、それは女神教団軍も例外ではなかった。
女神の消滅は、戦いの終わりを告げた。
少なくとも、女神教団側は、絶対の指導者を失ったことで戦う理由をもうしない、また戦意を喪失させたようだった。そこかしこで行われていた戦いは、女神教団将兵の降参によって幕を閉じている。
「本当に終わったのか? あれで、終わりだというのか……」
ルニアもまた、釈然としないものを感じているようだった。あのような死闘の結末がこれでは、納得できるわけがないということは理解できる。だが、しかし、女神が消滅し、その影響下にあったものたちが解放されたことは、女神教団軍の反応からも把握できていた。もし、女神が未だ健在ならば、その支配力によって女神教団軍の将兵を動かし、戦闘を続けさせていたはずだ。現状、そうではなかった。女神教団に属する兵士ひとりひとりがまるで憑き物が取れたようなすっきりとした表情で、同盟軍に降ってきているのだ。その様子を見る限り、女神が消滅したことは間違いないようだった。
「女神の反応はない。どこを見てもな」
ガ・ゼル・ギが肩で息をしながら、いった。
「それはわかっているが……どうもな」
「これも女神教団軍の策だと?」
「……いや、それはありえないだろう」
シグルドの問にルニアが頭を振った。女神は優位に立っていた。あのまま力押しに押し切れば、シグルドたちを容易く滅ぼせるくらいの状況にあったのだ。それなのにみずからを消滅させるような演出をする意味はない。シグルドたちをさらなる絶望に叩き込むというのであらば、無意味とはいえないが、そのような手間だけがかかるようなことをするだろうか。そう考えると、やはり、女神は消滅したと考えるのが筋だろう。
納得はできないし、釈然としないのも変わらないが。
「あの女神と名乗った人間は魂までも滅ぼされた。生まれ変わることも許されなくなったということ」
「あん?」
シグルドは、背後を振り返った。ゼフィロスが女神のいたはずの虚空を見遣っていた。
「あの男……あれは女神と名乗った人間とは比較にならない力を持っていた。神の加護に近いが……あれはいったい……」
「なにいってんだ? さっきからよ」
「……悪い予感がする」
ゼフィロスは、シグルドに目線を合わせることもなければ、いうだけいって忽然と姿を消した。なんの余韻もなければ、反応もない。シグルドは、憮然とせざるを得なかった。
「なんなんだ、いったい……」
突然現れ、役目を終えたらあっさりと消えていく。まるで吹き抜ける風のようだと彼は想った。ジンがいまさらのように尋ねてくる。
「そもそも、彼は?」
「ゼフィロス」
「はい?」
「名前以外、エレニア殿の関係者ということしか知らねえのさ」
「守護殿の?」
ジンが意外そうな顔をする。彼としては予想だにしない解答だったのだろう。確かに、ゼフィロスとエレニアの繋がりは想像しにくい。エレニアは、エンジュールの戦力を常に欲していた。そのため、たびたびシグルドの元を訪れては、交渉を試みてきたのだ。そのことを踏まえると、ゼフィロスのような戦力を隠し持っているとは考えにくい。ゼフィロスひとりいれば、《蒼き風》など不要ではないかと想えるからだ。
「ま、エンジュールに戻ったら聞かないとな」
「そう……ですね」
ジンがうなずいたときだった。遠くから大声が聞こえてきた。
「団長ー!」
「ん?」
見やると、《蒼き風》の団員たちがこちらに向かって駆け寄ってくる様子が窺えた。イディル=モウグを先頭に屈強な戦士たちが爆走してくるさまは圧巻というほかない。
「勝ったんですねーっ、やったんですねーっ、終わったんですねーっ!」
「うるせえ奴がきたな」
シグルドは、イディルの威勢のいい歓声になんとも言えない顔になった。一気に現実に引き戻された気がする。いまのいままでどこか上の空というか、妙な心地の中にいたというのに、イディルの大声を聞いただけで平常な感覚を取り戻してしまうのだから、不思議なものだ。
「良かったじゃないですか」
「あん?」
「生き残っててくれて」
ジンは、イディルの元気すぎる様子を嬉しそうに眺めていた。そして、小さく告げてくる。
「死にすぎましたから」
「……まあな」
うなずくほかない。
実際、あまりにも多くが死んだ。新生《蒼き風》は、その初陣で半数以上の団員を失ったのだ。これからが始まりだというそのときに、だ。しかも、戦闘の真っ只中ではなかった。開戦すらしていない状況での死亡。死んだものたちは無念だっただろうし、その痛恨の想いが、シグルドを奮い立たせたというのもある。
わずかでも生き残ってくれたことには、感謝するほかなかった。
不意に視線を感じた。
「シグルド=フォリアーといったな」
「ああ?」
見ると、ルニアがなにやらもじもじとしていた。らしくない素振りに怪訝な顔になっていると、彼女は、意を決したように口を開いた。
「人間にしては、よくやった。褒めてやる」
「……ありがとさん」
一瞬、間を開けたのは呆気に取られたからだ。まさか、明らかに人間を見下していたルニアがどのような理由があれ、シグルドを褒めてくれるなど想いもしなかったのだ。人間は皇魔を恐れる。それと同じくらい、皇魔もまた、人間を忌み嫌っている。そのことが彼女の言動にも現れていたのだが、ともに死線を潜り抜けたことで、多少なりとも軟化したとでもいうのだろうか。
「あんたも、皇魔にしてはいい女だったぜ」
「ふん……」
シグルドが素直に褒め称えるも、ルニアはあっさりと顔をそらしたため、彼女の表情を窺い知ることはできなかった。軟化しているなどというのはただの幻想かもしれない。シグルドは、その冷ややかな対応に己の考えを改めた。
すると、今度は、ガ・ゼル・ギが話しかけてきた。
「人間と馴れ合う気などさらさらないが、貴様は確かによくやった」
「へっ……褒められるような活躍なんざしてねえっての」
シグルドは、なんだか照れくさくなって、鼻の頭を掻いた。
「結局、決め手になったのはあの騎士の力だ。俺は、女神を追い詰めることもできなかった」
「それは、我らとて同じこと。女神に肉薄することすら困難だったのだ。その点、貴様は女神に手傷を負わせることができた。一応、な」
「それもこれも、あんたたちの支援があったからだぜ。俺ひとりじゃなにもできなかったさ」
「……そのとおりだ。そして、それは我らも同じ。人間と我らが協力して初めて女神に傷をつけることができた。それも決定打にはならなかったがな」
ガ・ゼル・ギが自嘲気味に笑った。そして、静かに続ける。
「人間への認識、改めねばならんな」
皇魔らしからぬ一言を聞いたとき、シグルドもまた、皇魔への認識を改める必要があると想った。
もっとも、ルニアにせよ、ガ・ゼル・ギにせよ、魔王の影響下にあるからこそ、こうしてシグルドたちと共闘することができるのであり、彼らがもし魔王の支配下になければ、このような状況にはなりえなかっただろう。彼らと協力しあうこともなければ、彼らに認められることもなかったのだ。
皇魔とわかり合うのは、そう簡単なことではない。
そんな当たり前の現実を、彼は、この死闘を通して改めて理解したのだった。
戦いは、終わった。
決して納得のできる終わり方などではない。犠牲は払いすぎるくらいに払った末、自分たちとはまったく無関係の第三者の介入によって得られた勝利だ。勝利などといえるようなものでさえないのかもしれない。
しかし、偽りの女神との死闘が幕を閉じ、マイラムが女神教団の支配から解放される運びとなったのは紛れもない事実だ。それを勝利を呼ばずして、なんと呼ぶのか。
(ま、なんでもいいさ……)
多大な消耗と肉体疲労を重荷のように感じながら、彼は、ぼんやりと空を仰いだ。
朝焼けは、まだ遠い。