第千八百三十六話 偽りの女神(三)
「はっ、やっと本性を表しやがったな、このどぐされ外道が!」
シグルドは、女神が笑わなくなった瞬間、屋根を蹴って後ろに飛んだ。女神と距離を取りながら、周囲の動きを把握する。シグルドはいま、マイラムの中央部にほど近い建物の屋根の上にいる。傾斜のない屋上は、戦場にならないこともない。しかし、いまこの場で戦いを始めるのは得策とはいえなかった。戦力があまりにも心もとない。周囲に散らばった味方との合流を急ぐべきだと彼は判断し、すぐさま女神の元を離れたのだ。すると、駆け寄ってくる気配があった。
「団長、言い過ぎ!」
などと叫んできたのは、イディル=モウグだった。船体が真っ二つにされて以来生死不明だったが、どうやら無事だったらしい。ところどころ傷を負っているものの、走れるということは、心配不要ということだ。シグルドは心底嬉しくなった。
「生きてやがったな、イディル!」
「あんなので死んでいられますかっての!」
イディルが向きになって言い返してくるのが、これまた小気味いい。
「はっ、その調子だ!」
「無闇に挑発して、馬鹿ですかあなたは」
シグルドを叱責した声に彼は反射的に笑みを浮かべた。振り向く。冷徹な表情の副長がそこにいた。彼も傷を負っているが、生きている。そして、駆けている。
「ジン!」
「なんです?」
「良かった!」
「わたしもです!」
ジン=クレールの大声は、背後から迫りくる爆音に対抗するためのものだった。
爆音の原因は、無論、女神マリエラの攻撃によるものだ。女神は、シグルドの挑発に対する怒りからか、冷静さを完全に失っていた。シグルドを追いかけてこなかったのも、どうやらそのためのようだ。そして、その場に留まったまま、見境のない攻撃が開始された。周囲に浮かべた光球を矢のように飛ばし、四方八方に被害をもたらしている。光球は着弾と同時に爆砕を起こし、爆煙が舞い上がった。爆砕の連鎖。爆音の連続。シグルドの真横を掠めたかと想うと、前方で爆発し、爆煙の中を突っ切らなければならなかった。熱気にむせる。だが、シグルドたちは止まらない。女神との距離を取り、味方と合流しなければならない。
現在の戦力では、女神に立ち向かうなど不可能だ。
建物の屋根の上を飛び移り、東へ、東へ。
味方の動きも、いまのシグルドならばある程度はわかった。グレイブストーンを握っていることによる感覚の強化が、彼にそのような恩恵をもたらしていた。皇魔やログノールの武装召喚師たちが、シグルドたちの動きに合わせて移動しているのもわかる。彼らもこちらの動きを認識し、それに合わせてくれているのだ。
「反撃は合流してからだ。俺達だけじゃどうしようもねえ」
「合流して、どうにかなるんですかね?」
「さあな」
「さあなって」
「さっきのが効かなかったんだ。状況は思ったよりも絶望的なんだよな、これが」
シグルドの脳裏には、あれほどの猛攻を受けても傷ひとつ負わなかった女神の姿が浮かんでいた。まったくの無傷だった。攻撃が届いたという様子さえなかった。強力な防壁でも張り巡らせ、攻撃を受け止め続けたのだろう。シールドオブメサイアの守護領域を思い出させる。
「そのわりには、楽しそうですが」
「まあ、絶望的な戦いほど、楽しいことはねえよな」
「そう、ですか?」
「団長は特に変わり者なので、感化されないように」
「はい」
「はいじゃねえ」
シグルドは、ジンとイディルのやりとりに不満を覚えて叫んだが、彼の声は、つぎの瞬間轟いた咆哮によってかき消されたのだった。
「おおおおおおおおおおお!」
地を揺るがすような咆哮とともに眼前の屋根を突き破ったのは、白い異形の巨躯だった。人間の大人の数倍はあろうかという巨体の怪物は、顔の一部が人間のそれであり、元人間であることは明らかだ。白異化した人間だろう。白異化という症状について詳しくは知らないものの、白異化した人間は、皇魔以上に凶悪な存在であることは聞かされている。魔王軍がメキドサールを放棄したのも、白異化した人間や皇魔の圧倒的な攻撃力によるところが大きいという。
「おおっと、ここで現れたるは白異化体かあ!」
シグルドは、白い巨人がおもむろに振り下ろしてきた拳を飛んでかわしながら、歓喜の声を上げた。ちょうど敵に怒りをぶつけたいと想っていたところだった。
《蒼き風》の全員が生き延びたわけではない。船体が女神の攻撃によって真っ二つにされたとき、何十人もの団員が地上に投げ出された。そのときの高度を考えれば、だれひとり生き残れなかったはずだ。皆、即死した。その怒りは、未だ彼の心の奥底で燃え続けていた。女神にぶつけようとしなかったのは、そんなことをしてもどうにもならないだろうという確信があったからだ。
「やはりいましたね」
「退路を塞ぐつもりですな」
「はっ、冗談じゃねえ」
建物から上半身だけを出した白異化巨人の横殴りの拳をまたしても飛んでかわし、そのまま腕の上に着地する。振り落とされないよう駆け抜け、二の腕を駆け上がり、肩の上から頭部に向かって飛ぶ。そしてその勢いのまま、右眼球にグレイブストーンを突き刺して見せる。白巨人が激痛にうめいた。
「俺らは逃げてんじゃねえっての!」
シグルドを払い落とそうと迫りくる左手を左目から引き抜いたグレイブストーンで叩き落とし、そのまま着地、直後に伸びてきた複数の触手の如き部位をつぎつぎと切り落として、飛び離れる。白い触手は無数に増え続け、シグルドが着地した場所へと殺到、建物の屋根を軽々と破壊してみせる。
「さっすが団長」
「褒めてる場合か!」
シグルドはイディルを叱ったものの、そんな場合ではないことにも気づいていた。白異化体の猛攻は留まるところを知らない。異様な速度で増殖する触手が屋根上を薙ぎ払い、シグルドの接近さえも拒絶し、そのうえでシグルドたち全員を攻撃しようとしていた。《蒼き風》の団員たちの手持ちの武器では、白異化体にさえ致命傷を与えることはできない。白異化体の凶悪さは話に聞いている以上であり、シグルドは唇を噛んで触手の一本を切り落とした。だが、それだけでは攻撃を押しとどめることにはならない。さらには後方から爆音が近づきつつある。このままでは、白異化体と女神の挟撃によってシグルドたちは全滅する――そう想った矢先だった。
「そうだな。そんな場合ではないな」
冷ややかな女の声が聞こえたかと想うと、白異化体の上半身が青白い輝きに包まれた。本体だけでなく何十本もある触手の動きも鈍くなると、夜の気温以下の寒気がシグルドを震わせる。何事かと想った瞬間、白異化体の全身が一瞬にして氷結した。氷漬けになったのだ。リュウディースの魔法攻撃。シグルドは内心の安堵を表情に出さず、顔を上げた。声は頭上から聞こえてきていた。
「一先ず、合流できたか。だが、どうする?」
リュウディースのルニアが空中に浮かんだまま、シグルドたちではなく、後方を見やりながらいってきた。リュウディースの生き残りは、彼女ひとりではない。何名ものリュウディースたちが彼女の周囲に布陣し、後方に攻撃する姿勢を見せている。後方、女神の見境ない爆撃は未だ鳴り止む気配を見せない。
「どうするもこうするもあるまい」
別方向から聞こえてきたのは、レスベルのガ・セル・ギの声だ。見ると、シグルドたちの撤退方向とは真逆、左後方にガ・セル・ギ率いるレスベル部隊と皇魔たちがいた。右後方に目を向けると、ログノールの武装召喚師たちが黒勇隊、《蒼き風》の生き残りとともに陣を組んでいる。
戦力は揃ったと見ていいだろう。
少なくとも、当初予定していた決戦力が欠けることなく揃っているのは間違いない。五人の武装召喚師に皇魔たち。これで女神マリエラ=フォーローンを討つつもりだったのだ。それがだれひとり欠けることなく、暴走する女神と対峙できている。
しかし、シグルドは必ずしも安心できていない自分に気づき、目を細めた。
女神には、最初の総攻撃が一切効いていなかったのだ。
再び全戦力を叩きつけても、結果は同じだろう。
「叩き潰すのみ」
ガ・セル・ギの言葉は勇ましいものの、女神の防御を突破しなければどうしようもないことはだれもが理解しているはずだった。
シグルドは、グレイブストーンを右手だけで握りしめると、左手でお守りに触れた。