第千八百三十話 反攻作戦(四)
さて、エインたちがエンジュール近郊の森のなかで対面した空中移動手段とは、大きめの川船だった。《蒼き風》五百名と、同盟軍から選抜した武装召喚師五名、魔王軍から抜擢された猛者数十名を運ぶために用意された川船は三隻あり、それぞれに分乗する形となる。
無論、川船が空を飛ぶわけもなく、優れた飛行能力を有する皇魔に船を固定し、運んでもらうのだ。
邪翼の狂獣、飛翼の黒猫が三頭ずつ、船と鎖で繋がれている。ベスレアはどこか愛嬌を感じられなくもない外見をしているものの、額に第三の眼を持つ山羊頭のネグルベフは、見るからに禍々しく、恐ろしいという感じがあった。ベスレアも皇魔という事実を除外すれば愛らしいかもしれないというだけであり、実際には皇魔特有の波長のようなものがあり、対面した人間は神経を逆撫でにされるような感覚に陥る。
そんな怪物たちが目の前に都合九体いて、それ以外にも無数の皇魔が屯していた。
魔王軍による飛行試験が行われようとしているのだ。
シグルドたち歴戦の傭兵たちも、さすがに尻込みせざるを得ない。
『なにか問題でもあるのか?』
と、冷ややかな声をかけてきたのは、燃え盛る炎のように紅い肌をした鬼だった。赤肌の闘鬼。人型に分類される皇魔の一種であり、ベスベル、グレスベルとともに鬼と総称されることも少なくない。耳の上から後頭部に向かって伸びている角が特徴的だった。また、皇魔の特徴として眼球がなく、眼孔から紅い光が漏れている。強靭な肉体から繰り出される打撃は、人間のそれとは比較にならないほど強烈であり、またその肉体そのものが鋼鉄の鎧のように硬いといわれている。
『うおっ……』
シグルドが驚いたのは、無論、そのレスベルが人間の言葉を話したからだろう。ほかならぬエインも表情にこそ出さなかったが、内心、驚きを感じずにはいられなかった。もちろん、魔王配下の皇魔の中には人語を解するものがいたとしてもなんら不思議ではない。魔王は人間だ。彼と真に意思疎通を図ろうというのであれば人語を学ぶ必要がある。魔王の妃も、姫君も、流暢に人語を喋っていた。側近と思しき連中もだ。
かつて、魔王がクルセルクの支配者として君臨していたころ、彼が重用していた皇魔の中にも人語を解するものがいたことを思い出す。
『なにを驚くことがある』
『そうだな。失敬だな、君は』
レスベルに同意を示したのは、女性型の皇魔だった。青白い肌と真っ白な頭髪が特徴的な美しい女性であり、皇魔でさえなければ人間の男を魅了したこと間違いないだろう。長身だが、やはりレスベルのほうが一回りも二回りも大きい。レスベルは、隆々たる巨躯を誇るシグルド以上の巨漢だった。
『うえ……そりゃあ、なあ?』
『わたしに同意を求められても困る。共通語を解する皇魔がいたとしてもなんら不思議ではないでしょう』
ジン=クレールは、驚いた様子さえ見せない。
『いや、でも、よお』
『まあ、驚くのはわからないではないが……彼らは人間とともに戦うために共通語を学んだのだ。悪く想わないでくれ』
そういって話にはいってきたのは、先程までネグルベフやベスレアの頭を撫でて回っていた魔王だ。彼は、皇魔に対してなんら恐怖を感じない体質らしい、やはり、皇魔の王というだけあるということだろう。そして彼に撫でられていた皇魔たちは、嬉しそうに目を細めていたものだ。ただ異能によって支配されているというだけ以上の関係が、ユベルと皇魔の間にはあるのだ。でなければ、人間を忌み嫌う皇魔が彼と意思疎通を図るために人語を学ぼうなどとは想うまい。皇魔に慕われる人間など理解しがたい存在ではあるものの、いても不思議ではない。
『悪く想ってもいませんぜ。ま、ちょっと驚いただけです。すぐに慣れるでしょうさ』
『そういってくれると助かる』
ユベルは、安堵したようにいうと、シグルドたちに冷ややかな態度を取る皇魔たちを紹介した。
『彼女はリュウディースのルニア。リュスカの娘のひとりでね、特に魔法に長けている』
『よろしく、人間諸君』
ルニアと呼ばれたリュウディースの冷ややかな反応から、彼女が人間に対して良い印象を持っていないのだろうことは窺い知れた。
『あ、ああ』
『彼はガ・セル・ギ。レスベルのガ氏族の戦士だ。彼も優秀な戦士なのは疑いようがない』
『陛下の御命令故、仕方なく協力するということを忘れるな』
ガ・セル・ギというレスベルも、同じだ。人間をとことん嫌っている。協力がため歩み寄ろうという気配さえなかった。
『お、おう』
『仲良くなどできないだろうし、する必要もない。ただ、彼らは君らを裏切ることはないということはわかってほしい』
ユベルの言葉をいまは信じる以外にはなかった。
魔王軍の皇魔ほど、同盟軍の戦力を占めているものはいないのだ。皇魔を信頼できなければ、そもそもこの戦いは破綻してしまうだろう。
『皆、この一戦に我らの未来もかかっている。宜しく頼んだぞ』
『はっ!』
『陛下の勅命とあらば』
魔王を前にして一斉に傅いた皇魔たちを目の当たりにして、エインは、なんとも奇妙な高揚感に包まれた。
魔王は、人間なのだ。異能に目覚めたただの人間が多数の皇魔に忠誠を誓われている。普通ならば決してありえない光景だった。そして、皇魔たちの忠誠がただ異能に支配されているからこそのものではないということも、なんとはなしに伝わってくるのだ。たとえユベルがいま支配を解いたとしても、彼らが裏切ることはないのではないか。そんな風に錯覚させるほどの相互の信頼関係が見て取れて、それがなんだか嬉しかった。
ユベルは、みずからが何度となく否定した皇魔と人間の共存の可能性を体現しているのではないか。
そんなことを考えさせられたのは、同盟軍本隊がエンジュールを発した数日前のことだ。
「報告!」
エインの思考を切り裂くような声が飛び込んできたのは、彼がエンジュールの同盟軍司令室で考え事をしていたときだった。見ると、伝令兵が傅いている。
「マイラムの女神教団が動き出しました! 大部隊が南へ、別働隊がこちらに向かって出撃したとのこと!」
「……報告ご苦労。下がって良い」
「はっ」
伝令兵は、アスタルの指示に従い、部屋を出ていく。
司令室には、ログノール軍将軍アスタル=ラナディースと参謀エイン=ラナディースのほか、数名のログノール軍幹部がおり、エンジュールの守護エレニア=ディフォンがいた。ログノール総統ドルカ=フォームがいないのは政務で忙しいからであったし、ゴードン=フェネックもそうだ。コフバンサールの代表であるリュスカがいないのは、人間と皇魔の相性を考慮してのことであり、エンジュール防衛の要である魔王軍戦力が市内に入っていないのもそのためだった。魔王軍は、人間をできるだけ刺激しないように配慮してくれているということだ。
「ここまでは思惑通りか、参謀殿」
「はい、将軍閣下」
エインは、静かに頷いた。
「あとは、本隊と我々が壊滅する前に決着がつくことを祈るのみですね」
運を天に任せるなど、作戦立案者のすることではない。
しかし、実際問題、同盟軍と女神教団軍の戦力差を考えると、博打に出るしか勝ち目はなかった。奇抜な策を使って一時的に出し抜けたところで、圧倒的な戦力差を覆すどころか埋め合わせることも不可能であり、そのために繰り出した戦力を消耗し、差が開く一方となるだろう。そうなれば勝利はさらに絶望的なものになる。負けるわけにはいかないのだ。敗北は、滅亡に等しい。少なくとも、人間らしく生きていられる保証はない。
女神を打倒しなければ、女神を名乗る狂える人間を討ち滅ぼさなければ、ログナー島の人間に安穏たる日々は来ないのだ。
そのために時間をかけすぎてもいけない。こちらの戦力が充実するより早く、女神教団の戦力が増大するに決まっているからだ。
なんとしてでも打って出なければならなかった。
そして、エインが考えうる限り最高の勝率を引き出せるのが、この度の戦術だった。
それはもはや戦術などと呼べる代物でもないのかもしれないが。
彼は、己の策が成ることを祈るほかないという事実に憮然とし、戦力が潤沢にあった頃を懐かしく想った。
「ひゃっふうううううう!」
シグルドは、吹き荒ぶ寒風の中、凍えそうな体を励ますようにして叫んでいた。
激しく揺れる川船の中、シグルドを除くだれもが縮こまっている。それも致し方あるまい。寒いのだ。とにかく、寒い。いまは、真冬だ。昼間とはいえ、気温は低く、風は冷たい。しかもシグルドたちを乗せた船は、地上より遥か上空を飛んでいた。上空は、地上よりも遥かに気温が低いというのは本当のようだった。
吹雪の中にいるかのような寒さが、防寒着を着込んだシグルドたちを襲っていた。
船は、飛行能力を有した皇魔たちが運んでくれている。いずれも船と鎖で繋がれており、船の先頭にネグルベフが一頭、ベスレア二頭が船の左右を補うようにしていた。まるで皇魔たちに地獄にでも運ばれているのではないかというような情景だが、案外間違っていないのだから、困りものだ。
これからシグルドたちが向かうマイラムは、まず間違いなく地獄のような戦場となるだろう。
どれだけマイラムから戦力が出ていったところで、二千から三千は防衛のために残されるはずだ。全戦力を吐き出さなければならないほど、女神教団は追い込まれていない。
「なに馬鹿なことやってんですか」
「はっ」
後ろから聞こえてきたジンの冷ややかな声に対し、彼は鼻で笑った。
シグルドは、揺れる船の中、船首に足を乗せ、吹き抜ける風の中でイルス・ヴァレの空を感じていた。
「これからやろうとしてることに比べりゃ、なにが馬鹿なもんか」
マイラムという地獄に降り立ち、女神を探し出し、討とうというのだ。
これが馬鹿げたことでなく、なんだというのか。