第千八百二十四話 再び、風を(二)
天地が揺れている。
唸りを上げて、揺れている。
いや。
震えているのはこの肉体ですらなくて、喪失感を抱えたままの魂であるということを彼は理解している。だが、理解しているからといってどうすることもできなかったし、なにもできないまま、震える心を抱えているしかなかった。
まるで天地が揺れるのを錯覚するように、魂が震え続けているのを認めるしかないのだ。
心に空いた穴を埋めることはできない。
失ったものは永遠に失ったままであり、取り戻せない以上、埋め合わせることはできない。
あのとき、彼はいまさらのように理解した。
自分がどれほど彼のことを大切に想い、大事にしてきたのか。
彼は、家族だった。
いつごろからか、彼にとってそのような存在になっていた。血の繋がらない家族。《蒼き風》のだれもかれもそのように考えてはいたが、本質的に彼の家族たりえたのは、ふたりだけだ。
ジン=クレールとルクス=ヴェイン。
あのふたりだけが彼にとって気の置けない間柄だった。
だからこそ、そのひとりを失った瞬間、彼の心に穴が空いた。その穴は、最初、糸が通るか通らないかくらいに小さいものだったはずだ。だが、穴は、日に日に大きくなり、いまでは心の大半が空洞になるくらいに大きなものとなっていた。
もはや自分がなにものかもわからないくらいには、心の空白が大きい。
部下を失うことは、慣れたことだ。
戦場に出て、だれも死なないまま終わることなど、まずありえない。ひとりかふたりは死ぬ。十人以上の部下が命を落としたこともある。傭兵団を立ち上げた当初は、部下を失うたびに心を痛めた。しかし、それも慣れた。
戦場で死ぬことは、戦場で日銭を稼ぐ傭兵のさだめのようなものだ。
明日を食いつなぐために今日命を落とす。
日常茶飯事だったし、そんなことで心を痛めていては身が持たない。団長なのだ。部下全員の命の責任を負うなど、土台無理な話だ。あるときから、深く考えないようにしていた。深く考えなければ、向き合わなければ、心に穴が空くこともない。
そうやって、傭兵としての日々を潜り抜けてきた。
だから、どれだけ部下が命を落としても、耐えられた。気にしないのだから、耐えるも堪えるもないのだ。
だが、ルクスは、違う。
年の離れた、出来過ぎなくらいの弟を失うことは、違うのだ。
身を切るような痛みがあった。
「だんちょー」
遠く、声がする。
新入りの声だ。若く、少年のような幼さを残した青年は、シグルドたちがエンジュールでの療養生活を送るようになって以降、このやる気もなにもない集団への参加を希望し、ジンの判断によって加入を許されていた。《蒼き風》が活動を再開する予定などなければ、今後どうするかも決めていないのにも関わらずだ。
『ルクスに似ているんだ』
ジンのそんな一言に興味を持ったが、シグルドは、一目見て、違う、と想った。
「だんちょーってば!」
鬱陶しさに目を開くと、汗が瞼からこぼれ落ちて、瞳の中に流れ込んできた。全身、汗だくだ。もはや汗が目に入るくらいでは動じようもないほどに汗塗れになっている。真冬だというのに上半身裸のままで寒さを感じないくらい、体が温まっているのは、それほどまでに激しい運動を長時間続けていたからだ。
その結果、疲れ果て、休んでいた。休憩が終われば、また鍛錬を再開するつもりだったが、新入りの呼び声によって、それも妨げられた。
「聞いてますかー? だんちょーだんちょーだんちょー!」
「うっせえな! 聞こえてんだよ、てめえの声はな!」
さすがのシグルドも彼の無神経な声には我慢ならず、上体を起こして声を張り上げた。声の主は、すぐ隣に突っ立ち、地面に寝転んだシグルドを覗き込むようにしていた。まだ少年時代の面影を多分に残した男で、名をイディル=モウグといった。エンジュール出身の二十歳。外見的にはルクスに似ているところはひとつもない。黒髪だし、鈍色の目も、ルクスとは大違いだ。ジンがなにをもってルクスと似ているなどと評したのか、シグルドにはまるでわからなかった。ジンの中では、どこか似ていると想えるところがあったのだろうが。
ここは、《翠の小鹿》亭別館の庭であり、シグルドを含め《蒼き風》の団員たちが常日頃鍛錬を行っている場所だった。地面には団員たちの血と汗が染み込んでいることだろう。
「あ、やっと起きた。いやー眠りこけているかと想ってですねえ」
「だったら寝かせとけよ」
「そういうわけにもいかないんですってば」
「あん?」
「だんちょーにお会いしたい方が来られまして」
「生憎団長様はお出かけ中だ。ほかをあたってくれ、っていっとけ」
「いやあ……さすがにそれは」
「ん?」
「お出かけ中のシグルドさんを発見」
「はあ……?」
懐かしい声に目線を向けると、別館の庭を歩いてくるふたりの人物を発見した。どちらもよく知っている顔だった。エイン=ラジャールとアスタル=ラナディース。いや、いまはエイン=ラナディースだったか。エインがアスタルと結婚し、婿入りするなどという衝撃的な報せを聞いたときは、心底驚いたものだが、こうしてふたり並んで歩いてくるところを見ると、お似合いという感想以外には出てこなかった。
ふたりがなぜこの場にいて、シグルドに面会したがっているのかは、すぐに想像がついた。ふたりの立場を考えればわからないわけがない。ふたりは、ログノールの高官なのだ。エインは参謀、アスタルは将軍をやっている。つまり、ふたりはログノールの重要な任務としてシグルドに会おうというのだ。だとすれば事前に連絡を寄越せとも想うのだが、その場合、シグルドが逃げる可能性を知っていたのだとすれば、エインは策士だ。
シグルドは、エンジュールからの接触を度々回避していた。エレニアとは何度か話し合ったこともあったが、彼女やゴードン=フェネックがシグルドたちをエンジュールの戦力に組み込みたがっているという気配を察すると、会わなくなった。会えば、交渉になる。交渉を断れば、気まずくならざるをえない。いままでどおり気ままではいられなくなるのだから、交渉そのものを回避することが肝要だった。
エンジュールでの療養の日々を終えるのはいつでも構わなかった。しかし、エンジュールを出て、どこか宛てがあるわけでもないのだ。“大破壊”によって大地が引き裂かれ、ガンディオンまで地続きではなくなったという話もある。ガンディオンまで歩いて戻れるというのであれば、エンジュールから抜け出すのも考えたが、そうではない以上、行く宛もなく彷徨わなければならなくなる。そうすると、自分とジンはともかく、団員たちを困窮させることになりかねない。団長として、それはできなかった。
故にエンジュールに留まり、この《翠の小鹿》亭で鍛錬の日々を送っていたのだが。
どうやら、そういうわけにもいかなくなりそうだった。
彼は、ぎろりとイディルを睨んだ。
「てめえイディル、勝手に通しやがったな!?」
「勝手ってなんですか! こっちは副長の言いつけを守っただけですからね!」
「ジンのいいつけだと?」
「副長は、団長が勝手なことをしないよう見張っておけって」
「俺は自分の立場もわからねえ子供かよ!」
シグルドが思わず叫ぶと、イディルが困ったような顔をした。
「違うんです?」
「てめえ!」
「まあまあ、シグルドさん、落ち着いて」
「エインさんよぉ……これが落ち着いていられるかってんだ」
イディルとの会話に割って入ってきた人物に目を向けて、シグルドは嘆くようにいった。
エイン=ラナディースは、約二年前、最後に逢ったときよりも見た目が幼くなっているような印象を受けた。あれから二年が経過し、彼も二十代に入っているはずだというのに十代の少年にしか見えないというのは、どういうことなのだろうか。彼の肉体構造が他人とは違うなどということはありえないはずだが、それにしても、若い。幼ささえ漂わせている。彼の背後に立つ女傑は、二年の歳月と苦労をうかがわせる外見上の変化があるというのにだ。
「なんでまた、おふたり揃ってこんなみすぼらしい温泉宿に? 夫婦水入らずの新婚旅行ってわけでもないだろうに」
「それも悪くはありませんが、そういう状況ではないことくらい、わかっていますよね?」
「……女神教団の話か」
「さすがにご存知でしたか」
「あったりまえだ」
その場であぐらをかきながら、エインの反応に呆れ果てる。物知りのエインだ。常識知らずではあるまい。ただの冗談なのだろうがそれが気に食わない。
「傭兵だぞ。情報収集能力の有無は生死に関わるんだぜ。つっても、女神教団の話くらい、《蒼き風》の情報収集能力を駆使するまでもなく聞こえてきたものだがな」
「まあ、それもそうでしょうね」
「それで、女神教団に対抗するために俺らの力が必要だってんで、わざわざログノールのお偉方が交渉に訪れたってわけだ。そりゃまたご苦労様なこって」
「シグルトさん……」
エインは、なにかいおうとしたようだが、諦めたようだった。なにをいおうとも、シグルドの心に響かないと判断したのか、ほかになにか考えがあるのか。いずれにせよ、ログノールの参謀の頭脳は、シグルドには想像もできないほど目まぐるしく回転しているはずだ。それを理解しながら、彼はエインをじっと見ていた。
「お目当ては、あいつか」
シグルドの問いに、エインは即答しなかった。それ以外考えられないというのに、だ。即答すれば、心証が悪くなるとでも考えたのかもしれない。
「隠す必要はねえ。女神教団とログノール、エンジュール、魔王軍からなる三者同盟の戦力差は、圧倒的というほかないんだろ? そんな情勢下で《蒼き風》を頼りたがるなんざ、あいつを目当てにしてるとしか考えられねえっての」
《蒼き風》が傭兵団として名を馳せることができた最大の要因が、彼だった。シグルドやジン、他の団員たちの活躍が無関係だったわけではないにせよ、あの規格外の人物がいなければ、《蒼き風》が凄腕の傭兵集団として名を上げることはできなかったのは間違いない。だれもが知っていることであり、だれもがそういうだろう。
《蒼き風》最強の剣士であった彼は、それに傲ることもなければ、満たされることもなかった。強さに対して常に貪欲で、向上心の塊だったのだ。彼は成長を続け、ついには人間の限界を超えたのではないかと想われるほどの力を身につけた。彼に敵う人間などいない。少なくとも常人の中にはいなかった。
「しかし、残念だったな」
シグルドは、エインのまっすぐな視線を受け止めながら、告げた。
「あいつは……“剣鬼”ルクス=ヴェインは死んだ。二年前にな」
彼の死に様が網膜に浮かんで、シグルドは目を伏せた。瞼を閉じると、より鮮明に浮かび上がるのがつらかった。