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第千八百二十三話 再び、風を(一)


 エンジュールには、温泉宿が数え切れないほどに存在していた。

 かつて、の話だ。

“大破壊”以前、ガンディアが隆盛を誇った最盛期、ガンディア躍進の象徴でもあった英雄セツナ=カミヤの領地であったエンジュールには、溢れんばかりのひとが集まっていた。住民だけではない。温泉目当ての湯治客も大勢いれば、英雄の領地ということで訪れる観光客も引っ切り無しにエンジュールを賑わせていた。自然、そういった客を目当てとする宿が増えた。しかも宿の大半が温泉宿だったのは、エンジュールが温泉地だったからなのだろう。

 エンジュールというよりは、バッハリア近郊が温泉地だったのだ。

 ただの宿よりも温泉宿のほうが客の入りがいいのは当然の話で、自然、普通の宿は淘汰され、温泉宿ばかりが繁盛していった。エンジュールに温泉宿が溢れかえったのは、ひとつにはそういう事情もあったのだ。

 しかし、それも“大破壊”までのことだ。

“大破壊”は、エンジュールにも大打撃を与えた。

 ヴァシュタリア軍の猛攻こそ凌ぎきったエンジュールも、未曾有の大災害から逃れるすべはなかったのだ。大地を引き裂く強大な力は、温泉郷に甚大な被害をもたらし、数々の温泉宿が倒壊を免れえなかった。

 エンジュールが温泉郷としての在り様を取り戻し始めたごく最近のことといってもよく、“大破壊”から二年が経ち、ようやく営業を再開できるようになった温泉宿も多い。

 とはいえ、いまの時代、エンジュールやバッハリアの温泉目当てに訪れる観光客などいようはずもなかった。

 かつては大陸全土が地続きだった。しかし、“大破壊”によって大陸はばらばらになり、エンジュールはログナー島の中に押し込められることとなった。しかも、ログナー島は温泉に現を抜かしていられるような状況にはなく、温泉宿が繁盛する日が来るとしても当分先のことになるだろうとだれもが理解していた。まずログナー島の戦乱が収まらない限りは、湯治客も増えないのだ。温泉宿の主人や従業員たちは、一日も早く女神教団が倒れ、ログノールによるログナー島の統一がなることを祈っているに違いない。

 そんな温泉宿のひとつに、《翠の小鹿》亭がある。

 エンジュール北東部にある小さな温泉宿は、“大破壊”直前からある集団の拠点のようになっているという話であり、その話を聞いたときから、エイン=ラナディースはいつかはここを訪れなければならないと想っていた。

 公務でエンジュールを訪問する度にそう考えていたのだが、時間が取れず、今日まで先伸ばしになっていたのだ。今日の会議が早く終わったのは、好都合だった。

「本当にこんなところにいるのか?」

「いるはずですが……」

 アスタルの疑問符に自信なく返答するしかなかったのは、《翠の小鹿》亭の外観がどう見てもみすぼらしく、目当ての集団が拠点にするには相応しく想えなかったからだ。

「まあいなかったらいなかったで」

「いなければおまえの策が狂うだろう」

「そのときは、まあ、魔王さんになんとかしてもらいますよ」

「……まったくおまえは他人を当てにしすぎだ」

「はっはっは。いまさら気づいたんですか?」

 エインは、《翠の小鹿》亭のぼろぼろの門を潜り抜けながら、乾いた笑いを浮かべた。

「戦術家なんてね、戦術を立てる以外、他人を頼ることしかできないんですよ」

「それは理解しているつもりだがな」

 アスタルがついてきながら、憮然とした。

「おまえは堂々としすぎだ」

「ふふふん。それが俺のいいところでしょ」

「いい性格してるよ、本当に」

「褒め言葉と受け取っておきましょう」

 エインのそんな返答には、さすがのアスタルも沈黙せざるを得なかったようだ。

 エインが連れているのは、アスタルただひとりだった。従者もつけなければ、護衛もつけていない。護衛の必要性がないのは、ここが同盟相手であるエンジュールだからだったし、アスタルがいるからでもある。暴漢が襲い掛かってくるようなことがあったとしても、エインとアスタルならば難なく切り抜けられるのだ。そもそも、エンジュールのひとびとがログノールの人間を襲うことなど考えにくいのだが。

 玄関から中に入ると、店主が従業員ともども待ち受けていた。エインがこのみすぼらしい温泉宿を訪れたのは、夫婦水入らずの時間を過ごすためではない。公務だ。ログノールの参謀の仕事だった。そのため、部下を先に寄越し、店主と話を通している。

「お待ちしておりました、エイン=ラナディース様、アスタル=ラナディース様」

「予定より早くなったけど、案内、頼めるかな?」

「ははっ」

 ひとの良さそうな顔の店主は、エインとアスタルを前にして緊張しきりだった。それはそうだろう。エンジュールは、元々ログナー領の集落だったのだ。エインはともかく、アスタル=ラナディースの名を聞いて緊張しない人間がいないわけがなかった。飛翔将軍アスタル=ラナディースの威光は、かつてのログナー領内でいまもなお効力を発揮する。


 温泉宿の中は、外観に比べればましだった。ところどころに被災の痕が残っているものの、全体として小奇麗に改装されている。細かいところまで手が回らなかったのだろうし、外観がみすぼらしいのもそのためなのだろう。改装するのもただではない。外観全体を改装するとなると、多額の資金が必要となる。温泉宿としての収入がそこまで見込めない現在、多額の資金を投入するのは博打にも程がある。

 だとしても外観をみすぼらしいまま放置しているのは、博打以前の問題な気もするが、エインはなにもいわなかった。店主には店主の考えがあるのだろう。

 アスタルとともに店主の後に続いて、通路を進む。

「ここにいるのは間違いないんだよね?」

「はい。およそ二年前からここに逗留中でございます」

「自分の家のように扱っているとか」

「それはまあ、わたくしどもがそうしてもらってもかまわないといいましたからでして」

「なるほど。店主さんのお言葉に甘えすぎたわけか。あのひとらしいといえば、らしいかな」

「ふむ」

「それで、なにか変わったことは?」

「特になにか変わったことがあるわけではございませんが、ここのところは、皆様活気にあふれているようでございまして」

「へえ。活気に……ねえ」

 エインは、店主の話を聞きながら、目を細めた。

 およそ二年前、最終戦争の末期、エンジュールに逃げ込んできた一団がある。その集団は、最終戦争で多くの仲間を失ったという話であり、戦いで負った心身の傷を癒やすべく、この《翠の小鹿》亭に長々と逗留しているとのことなのだ。エインは、その一団を戦術に組み込むべく、《翠の小鹿》亭を訪れている。

 その一団の中でもただひとり特記戦力というべき存在こそが重要であり、その特記戦力の有無でエインの考える戦術の成功率は大きく左右された。

 彼がいれば、確実に成功するだろう。

 彼がいなければ、代替となる戦力次第となる。その場合、先もいったように魔王軍の中でも特に強力な個体を当ててもらうほかないが、それで上手くいくかどうかは、不明瞭な点が多い。

 その点、エインが構想に入れている彼ならば、あの特記戦力ならば、まず間違いなく成し遂げてくれるだろう。

 かつて“剣鬼”として名を馳せた青年ならば、きっと――。

 エインは、そう考えていた。

 しかし。

「皆様方は、こちらにおられます」

 宿の主人が足を止め、エインたちに示したのは、《翠の小鹿》亭の別館へと至るための通用口だった。目的の集団が宿の一角を貸し切りにしているという話通りだ。

「案内、ありがとう。後のことはこちらに任せてくれていい」

「ははっ」

 宿の主人が畏まりながら去ると、エインは、アスタルを一瞥した。長身の彼女の顔を見るには仰がなければならないが、それがまた、いい。

「行きましょうか」

「ああ」

 アスタルがいつも通り鷹揚にうなずくのを見て、エインは満足しながら通用口の門扉を開き、別館の敷地内へと足を踏み入れた。


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