第千八百二十二話 ふたりのひみつ(二)
突如として出現した地下へ至るための階段は、リュカに驚きを齎していた。
ここは、エンジュールの森の中だ。周囲になにか建物があるわけでもない、ただの常緑樹の森。真冬であっても緑の美しい森だということくらいしか取り立てて特徴のない森の地下に、人工物めいた階段があるのは不思議というほかなかったし、普段はだれの目にも触れないように隠されているのが奇妙に想えた。レインが地面を叩くことで姿を見せるということもそうだし、地面が左右に割れていった事自体、不思議というほかない。
リュカが茫然としていると、レインは満面の笑みでもってこちらを振り返ってきた。
「おどろいたでしょ?」
「……こ、この程度で驚くわけがないでしょう?」
リュカが強がるも、レインは笑みを崩さなかった。
「ふふ、でも、このさきにいったらおどろくとおもうよ!」
レインは、リュカを驚かせるためだけにここまで案内したようであり、彼女は、そんな彼の気持ちが嬉しくてたまらなかった。そして、彼に促されるまま、彼に続いて地下への階段を降りていく。
階段は、石造りであり、どう見ても人間が作り出したもののようだった。陽の光の届かない地下へと通じる階段ということもあり、一歩一歩慎重に降りなければならなかったものの、リュカに不安はなかった。なぜならば、レインが自信満々に先を進んでいるからだ。レインにとっては慣れたことなのだろうし、何度も訪れた場所のようなのだ。ならばなにも心配する必要はないだろうし、彼についていけば安全だ。
リュカは、レインのことを心の底から信用していたし、レインもまた、リュカの信頼を裏切ったことは一度たりともなかった。
それなりに長い階段を降りきると、そこは真っ暗な闇の底だった。頭上にあったはずの出入り口もいつの間にか消えてなくなっている。階段を降りている最中に閉じたらしい。少しだけ不安を覚えたものの、レインが手を握ってくれた瞬間、それも霧散した。レインの体温がリュカに勇気を与えてくれる。
「きーたよ!」
レインが、突如として大声を発する。だれかに向かっての意思表示だろうことはわかったが、それがなにを意味するものか、いまいちわからない。
「どうしましたの?」
「みてて」
リュカは、レインの面白そうな反応にきょとんとした。
すると、つぎの瞬間、彼女の感知魔力が大きな力の奔流が吹き荒れるのを察知した。しかし、肌で感じた力に害意はなく、むしろリュカたちに有効的なものであることは瞬時に把握できたため、身構える必要もなかった。吹き荒れた力は、彼女たちの視界から暗闇を一掃する光となって、この地下空間を照らし出す。
彼女たちのいる地下空間の全容が明らかになる。そこは階段の終着点であり、天井までかなりの高さがあることがよくわかった。床から壁に至るまで幾何学模様があり、自然物ではなく人工物であるらしいことが窺い知れる。
「これは……いったい?」
「ふふ」
レインは、リュカの質問に応えず、彼女の手を引っ張りながら先へと進んだ。
階段の終着点には奥へと通じる通路があり、リュカが感じ取った力が流れ込んできたのもその通路からだ。力の持ち主は、その通路の先にいるのだろう。強大な力の持ち主であることは、これだけの広さの空間に一瞬にして光を灯したことからもわかる。だが、身構える必要はない。場に満ちた力が、レインを歓迎するためのものだということくらい、リュカにだって理解できるからだ。
幾何学模様の美しい通路を進む。
ふたりの靴音だけが静寂の中に反響し、リュカはなんだか不思議な気分だった。エンジュールの地下にこのような空間があるなどとは想像してもいなければ、レイン以外だれも知らなそうだという事実もまた、不思議と想うほかない。なぜ、レインだけがこの場所を知っているのか。それはきっと、この先まで行けばわかることだろう。
決して長くはない通路の先には、広い空間が待っていた。
半球形の広間は、ここに至るまでと同じ幾何学模様に彩られており、中心に祭壇のようなものがあった。その祭壇の上に目をやったとき、彼女は息を呑んだ。祭壇上には、光源があったのだ。青白く美しい光の塊が浮かび、この地下空間全体を照らしているようだった。息を呑むほどに美しく、心が洗われるほどにあさやかな光だった。同じ青白い光でも、冷ややかな感じのする魔晶灯とはまるで異なる、血の通った光だった。
リュカが息を止めていると、レインに手を引っ張られた。祭壇の目の前に辿り着く。
「おまたせ」
「おまたせ?」
「ちゃんとつれてきたよ」
「レイン、さっきからなにをいっているのです? リュカにわかるように――」
リュカがレインに説明を求めようとしたときだった。
祭壇上の光の塊がゆっくりと動き出したかと想うと、さらなる輝きを発散し、リュカの網膜を青白く染め上げながら、その形を変えていった。
「彼女が、君のいっていた大切なひと……かい?」
それは、リュカたちの目の前に姿を表すと、レインに向かって優しげなまなざしを向けた。優しげなのは、まなざしだけではない。彼の声も、発する気配も、レインに対する慈しみに満ちていた。
それは、美しい青年のような姿をしていた。青白い頭髪に青い目を持つ青年。身に纏うのは群青の装束であり、装身具まで青一色だった。長身痩躯。リュカたちよりもずっと大きいが、細長いという印象を抱く。だからといってひ弱そうには見えなかったし、むしろ頼りがいがありそうに想えるのは、彼から強大な力を感じ取ることができるからだろう。
「うん!」
レインが大きく頷いたのは、その青年の質問に対してなのだろうが。
(大切な……ひと――)
リュカは、青年がレインに発した質問を思い出して、どきりとした。大切なひと。それはつまり、どういうことなのか。考えるだけで胸が高鳴ったし、思考が回らなかった。考えれば考えるほど、体温が上がり、わけがわからなくなっていく。大切なひと。その言葉の意味はわかるし、レインがリュカのことを大事にしてくれていることは理解しているのだが、しかし。
大切なひととして他人に紹介するほどというのは、やはり、衝撃的だ。
「愛らしいお嬢さんだ。レインが大切に想うのもわからなくはない」
「でしょ!」
「ふふ。自慢したかったんだね?」
「うん!」
「まったく……君という子は」
青白い光を発する青年は、レインの屈託のない反応に困ったような顔をする。ただ、本当に困っているのではないことは、その穏やかな表情からも明らかだ。レインとのやり取りを心底愉しんでいるようなのだ。レインもそんな彼との会話が他の行くて仕方がないらしい。リュカに見せるのとは違う表情が、少しばかり羨ましい。
だから、というわけではないが、リュカは思い切って口を開いた。
「あの……」
「なに?」
「なんだい?」
「どちらさま、ですの?」
「ああ、自己紹介がまだだったね」
青年が察すると、レインが、おお、といまさらのように反応した。
「わたしはゼフィロス」
青年が静かに微笑んでくる。
「レインの守護者をやっているものだ」
青年の自己紹介は、それだけでは終わらなかった。