第千八百十七話 三者同盟(三)
魔王の娘であり、メキドサール(現コフバンサール)の姫君として知られた幼女リュカとエレニアの息子レインが、人間と皇魔という数百年に渡って敵対し続けてきた歴史を無視するかのような仲の良さを見せていることは、エンジュールとコフバンサール、両方の住民に驚きをもって受け入れられている。
リュカは、純粋な皇魔ではない。人間と皇魔の混血であり、その時点で皇魔とは別種の存在といってもいいのかもしれないが、人間にしてみれば、皇魔と大きな違いはなかった。リュカと対峙したものは、ほかの皇魔と対峙したとき同様の嫌悪感に苛まれざるを得ない。血の奥底に刻まれた皇魔への恐怖や敵対心が呼び起こされるのだ。ユベルの教育方針によって人間に対する先入観を植え付けられていなかったらしいリュカも、マイラム訪問時の人間側の態度を見て失望の色を見せたほどだ。
ユベルがいうように人間と皇魔の共存は、残念ながら不可能と断じるほかないのだろう。それほどまでに人間側の拒否反応というのは強く、いくら皇魔が人間への敵意や殺意をなくそうとも、埋めようのない溝ができているのだ。
しかし、そんな人間側にあって、ただひとりリュカに先入観なく接し、魔王の娘であるという彼女に恐れを抱くどころか好奇心の赴くままに話しかけ、彼女の興味を引いた人物がいる。
それこそがエレニアの息子レインであり、レインは、リュカと瞬く間に打ち解けると、人間と皇魔双方に多大な衝撃を与えた。
レインは、生粋の人間だ。
父ウェイン・ベルセイン=テウロスも、母エレニアも、その血筋をどこまで遡っても人間以外のなにものでもない。途中で皇魔の血が入っているということなどありえなかったし、皇魔を受け入れる素地などどこにもなかった。
確かにエレニアはレインを教育するに当たって、皇魔への恐怖心や嫌悪感を煽るようなことをいった覚えはない。なぜならばレインはまだ幼すぎて、そういったことを教えたところで効力がないだろうと考えていたからだ。当然、魔王ユベルがいかなるものなのかも教えておらず、レインは、マイラムで初めて皇魔という種が存在することを知ったのだ。だが、だからといって彼が皇魔を平然と受け入れることができた理由には、ならない。
なぜならば、人間が皇魔を嫌悪し、忌避しているのは、なにもそう教わったからではないからだ。
血に刻まれた記憶が、連綿と受け継がれてきたものが、皇魔への拒否反応となって現れているだけのことなのだ。人間ならばだれしもが持つものであり、レインにも受け継がれているはずなのだが、なぜか、レインはリュカのみならず、ほかの皇魔たちに対しても平然と接し、皇魔たちを驚かせている。
エレニアがコフバンサール訪問に際し、レインを連れてくるようになったのは、レインを連れて行かなかった最初の訪問時、リュカがエレニアにそう要望してきたからだが、その要望に応えることにしたのは、レインとリュカの関係が硬化したユベルの態度を軟化させるきっかけになるかもしれないという考えがあったからでもあった。
もちろん、屈託のない純粋なリュカの想いに応えたいという気持ちもあったし、リュカとの再会を楽しみにしていた息子の望みを叶えてやりたいという親の気持ちもあったが。
ともかく、レインとリュカの存在がエンジュール、コフバンサールの両陣営に多大な影響を与えていることは確かであり、ふたりが仲良く遊び回っている姿はエレニアのみならず、ユベルやリュスカ、それ以外の皇魔たちにとっても喜ばしい光景として受け入れられているようだった。
ユベルが態度を軟化させたのも、やはり、ふたりの関係に光明を見出したからなのだろう。
元々、三者同盟に対するユベルの態度を硬化させたのは、ひとつはログノールの対応の遅れによる魔王軍の被害の拡大によるものだ。
女神教団の電撃的な奇襲によって大損害を被ったメキドサールを放棄し、女神教団に対抗するためログノールを頼った魔王軍に対する仕打ちが、それだ。ログノール政府は大挙して押し寄せた魔王軍への恐れから、対応の遅れという失態を演じ、結果魔王軍に損害を与えることとなるだけでなく、マイラムから撤退する羽目になったのだから、なんともいいようがない。
その上でエレニアの失態が重なり、ユベルは三者同盟への参加を考え直すようになったのだろう。
エレニアの失態というのは、エンジュール方面に逃げ込んできた魔王軍をエンジュールに受け入れたことがすべてだった。
エンジュール方面に逃げ込んできた魔王軍をエンジュールに受け入れるという決断をしたのが、エレニアなのだ。司政官ゴードン=フェネックや役人たち、あるいは従者たちの不安を振り切る形での決断は、三者同盟の一員として当然の判断だと彼女は考えていた。いかに皇魔の軍勢であろうと、いかに人間と皇魔が分かり合えない存在であろうと、同盟を結び、手を組んでいるのであれば、困っているときには手を差し伸べるべきだと考えたのだ。そうすることで同盟関係をさらに強固にすることができると踏んだ。
魔王軍は三者同盟の中でも最大の戦力を有する。魔王軍を大切にしなければ、魔王軍との同盟を維持できなければ、女神教団に対抗することなどできない。
故にエレニアは魔王軍との協調を図ろうとした。
それが、いけなかった。
魔王軍のエンジュールへの受け入れは、エンジュール住民の反発を呼んだ。エンジュールの住民は、全員が全員、生粋の人間だ。魔王軍との同盟を理解し、受け入れているとはいえ、皇魔が同じ空間にいることを許容したわけではなかったのだ。
魔王軍の皇魔たちがエンジュール内になだれ込んできたことは、エンジュール住民に多大な混乱を起こさせ、人間と皇魔を隔絶する溝の深さを再認識させるものとなった。
魔王軍は、早々にエンジュールを去り、エンジュール東の森コフバンサールに新たな住処を作り上げた。
魔王ユベルは、ログノールの対応、エンジュール住民の反応などによって、態度を硬化させたに違いなく、エレニアは、自身の失態を強く後悔していた。そして、その失態を取り戻すべく、魔王ユベルの元を度々訪れ、交渉を重ねてきたのだ。
その成果が現れたのは、間違いなくレインのおかげであり、彼がなぜか皇魔に拒否反応を示さないという体質を持っていたからだろう。
レインは、エレニアさえ拒絶反応を示す生粋の皇魔にさえも興味津々であり、魔王軍の将兵にも話しかけたり、リュウディースたちに可愛がられていた。それがただの人間であるエレニアにとっては苦痛ではあるのだが、レインが楽しそうに皇魔たちと戯れる様を見続けることで少しずつ受け入れはじめていることに気づいた。特にリュカに関しては、もはや拒否反応も生じなくなっており、結局は慣れの問題なのではないか、と想うようになっていた。
だからといって人間と皇魔の共存は不可能に近いという事実を否定する気はない。
エレニアは、自分の立場が特別であるということを認識していた。エンジュールの守護として、三者同盟の維持に奔走しなければならないからこそ、皇魔をなんとしてでも受け入れなければならないという考えが根底にあるのだ。素地があるのだ。そのうえで、愛する我が子が魔王の娘と仲良くしているという事実も大きいだろう。
エレニアがもしエンジュールの守護という大任についていなければ、皇魔を受け入れようと努力したとは考えにくく、我が子を皇魔に近づけようともしなかったに違いない。そして、レインとリュカが出逢い、打ち解け合うこともなかったのだ。
「……ログノールの代表は、来るのだろうな?」
ユベルの態度の軟化は、その一言に現れていた。
エレニアはつい嬉しくなって口元がほころぶのを必死になって抑えながら、彼の質問に応えた。
「総統閣下は、陛下との再会を楽しみにしているとのことです」
ユベルとエレニアが言及しているのは、三者同盟の代表が顔を揃える会議についてのことだ。
エレニアが再三コフバンサールを訪れ、ユベルを口説いてきたのがそれだ。三者同盟会議への参加を要請するべく、彼女は何度となくここを訪れ、魔王と対面している。魔王は、エレニアを煙たがりながらも会うことを拒否してこなかったのは、三者同盟の維持は、魔王軍としても必要不可欠であるという判断からだろう。
魔王軍は、先の戦いで半数ほどの戦力を失っている。これでは女神教団とまともに戦うことなど不可能だ。
「総統は信用に値する仁だが、ログノールは……どうもな」
「ログノールを信用せよ、とは申しません。人間の組織ですから、陛下率いる魔王軍とも理解し合えないところもございましょう。しかし、女神教団という共通の脅威と戦うためなれば、力を合わせることもできるはずです」
「……我が方は、そう考えている」
なんら変哲のない木製の玉座に腰掛けた魔王は、静かに目を細めた。
「しかし、ログノールはどうかな?」
彼は、ログノールが魔王軍に協力しなかったことを未だに根に持っているということを暗にいっているのだろうが。
エレニアは、そんなことをいっている場合ではないと叫びたかった。
女神教団は、マイラム制圧以来沈黙している。エンジュールやログノールの諜報員、工作員が調べられる限り調べているものの、その動向には不明な点が多く、いつ動き出すかもわからないのだ。それはつまり、今日明日にでも動き出す可能性もあるということであり、三者同盟の関係が悪化しているいま動き出されれば一網打尽に壊滅させられるおそれがあるのだ。
だからこそエレニアは、魔王を口説き、エンジュールで開催予定の三者同盟首脳会議に参加してもらわなければならなかった。
「そのことを確かめるためにも、陛下は首脳会議に参加するべきです。そこでログノールの真意を確かめていただき、納得できないのであれば、三者同盟を降りられればよろしい」
「三者同盟こそ、エンジュールの生命線であるのにか?」
「我がエンジュールはそれほどか弱いものではありませんよ」
エレニアは、強がりではなく、告げた。
彼女がエンジュールの守護である最大の理由が、その言葉の裏付けにある。