第千八百十六話 三者同盟(二)
三者同盟が女神教団に大敗したのは、去る五百五年十二月下旬のことだ。
それまで鳴りを潜めていた女神教団が突如としてログナー島の統一を再度掲げたのだ。
常にマルスール、女神教団の動向に目を光らせていた三者同盟は、警戒を強めるとともに防衛網を強化してこれに当たった。しかし、女神教団が取った戦術は、三者同盟の防衛網を容易く食い破り、三者同盟に多大な被害をもたらすこととなった。
女神教団は、まず、マルスールより北東、エンジュールへと進軍を開始。事前にこれを察知した三者同盟はエンジュール方面の戦力を充実させるとともに女神教団の戦術を読み、マイラムにも鉄壁の布陣を敷いた。すると、女神教団はエンジュールおよびマイラムへの進軍を諦め、マルスールへと後退を始める。戦うまでもなく勝利したことを疑わなかった三者同盟だったが、それこそ、女神教団の策略だったのだ。
三者同盟が女神教団の軍勢がマルスールに戻ったことで安堵しきっていたところ、突如としてどこからともなく出現した軍勢がメキドサールを強襲、魔王の森は紅蓮の炎に包まれ、大勢の皇魔が討ち取られた。魔王軍はその軍勢が女神教団の手のものであると確認するとともに迎え撃ち、奮闘するものの、魔王軍所属の皇魔の白異化や、白異化した女神教団兵士の存在によって多大な損害を被り、メキドサールの放棄を決定、魔王軍は女神教団に手痛い敗北を喫したのだ。
敗走した魔王軍が向かった先は、同盟を結んだログノールの首都マイラムだった。魔王軍は、同盟国ログノールに女神教団と戦うべく協力を要請、ログノール政府は、しかし、即答を拒んだ。ログノール政府は、マイラムに押し寄せた魔王軍の目的がマイラムへの受け入れであると勘違いし、混乱したようだった。魔王軍は、皇魔のみで構成された軍勢であり、人間だけの都市であるマイラムに受け入れられる余地はなかった。
人間と皇魔が共生するのは不可能に近い。
五百年もの長きに渡る隔絶は、人類と皇魔の間に埋めがたい溝を作っている。
その溝を欺瞞によって埋め立てることで漕ぎ着けたのが、三者同盟だった。
ログノールの不可解な反応は、魔王軍の中に人間への疑念を生んだのはいうまでもない。
さらにメキドサールを滅ぼした女神教団の軍勢とマルスールからの軍勢の到来が、マイラムをさらなる混乱に包み込んだ。マイラム前面に展開した魔王軍の存在がマイラムのログノール軍の出撃を鈍らせ、女神教団の猛攻は魔王軍の戦力を削ぎに削いだ。魔王軍はいてもたってもいられず、マイラムより東へと転進、マイラムのログノール軍は女神教団の総攻撃に遭い。耐えきれずに敗北、マイラムを放棄し、ログノール首脳陣はバッハリアへと逃げ延びることに成功した。
この間、エンジュールはなにをしていたかというと、ログノール・バッハリアの軍勢とともに防衛線の維持に務めており、女神教団がマイラムに総攻撃をかけたのを情報として掴んだときには、すでに勝敗が決まっていた。そして、エンジュール方面へと逃げ込んできた魔王軍を受け入れるとともに、ログノール・マイラム軍のバッハリア行きを支援している。
かくして女神教団は、三者同盟のうち、メキドサールとログノールに大打撃を与えることに成功し、ログナー島統一事業への確かな手応えを声明文として発表した。
女神マリエラの名で発表された声明文には、ログナー島統一を成し遂げるという決意のほか、女神教団の教えに従うのであれば、保護と安全を約束し、栄光に満ちた日々を送ることができるだろうという言葉も添えられていた。しかし、三者同盟の中で女神教団に従おうとするものは現れず、むしろ、女神教団の底知れぬ力に恐怖と嫌悪を抱くものが増大する一方だった。
女神教団は、白異化した皇魔や人間を戦力として利用することで、魔王軍との圧倒的な戦力差を埋めるどころか遥かに凌駕して見せたのだ。魔王軍がメキドサールの放棄を余儀なくされたのは、女神教団がこれまで持っていなかった戦力を投入してきたことにより、戦力差が覆さえ、絶望的なまでの火力の差に打ちのめされたからに他ならない。
その上でマイラムに助けを求めた彼らを待っていたのは、ログノール政府の緊急会議であり、城壁外で待たされ続けた魔王ユベル以下魔王軍の皇魔たちが苛立ちや怒り、不信感をログノールの人間に対して抱くのも無理のない話だった。
魔王軍の将が人間との同盟など辞めるべきだといい出しているという話も、むべなるかなというところであり、そういった拒絶反応がログノール側にも出始めたのも道理なのだろう。ログノール側の言い分としては、突如、大挙して押し寄せてきた魔王軍が協力を求めてくれば、対応したものが恐れをなし、混乱の中で支離滅裂なことをいったとしても仕方がないといったものであり、到底理性的なものではなかった。それも致し方のないことだ。人間は、皇魔を見ると、命に刻まれた恐怖心が呼び起こされるものなのだ。神経を逆撫でにされるような感覚に苛まれる。
魔王率いる皇魔の軍勢を目の前すれば、エレニアでさえ冷静でいられるものかどうか。
ログノール政府の言い分もわからないではないが、そんな言い訳が魔王軍に通用するはずもない。魔王軍がログノール政府への心証を悪くしたのはいうまでもないことだ。
そのようにして、三者同盟に亀裂が入り始めたのだが、軋轢が強くなったのは、なにもログノール政府だけのせいではなかった。
エンジュールもまた、悪手を打っている。
それはエレニアにとって痛恨極まりないことであり、彼女は後悔の念に駆られながら、魔王軍とログノール政府の間を駆け回っていた。
エンジュールの東の森に、コフバンサールと呼ばれる一帯がある。
古代語で精霊の森を意味する名称は、皇魔の住処としては皮肉が聞いていると魔王ユベルは自嘲するようにいったものだ。
メキドサールを放棄した魔王軍はマイラムに助けを求め、それが無駄だと知ると、同盟相手であるエンジュールへと走った。その後、いくつかの問題を経て、彼らはエンジュール東の森に皇魔の集落を作ることになったのだが、そのいくつかの問題というのが、エレニアの失態ともいえることなのだ。
「また、来られたのか。守護殿も健気なものだ」
魔王ユベルは、そのきわめて人間らしい風貌を隠すことなく、エレニアの前に姿を見せた。
魔王の館は、コフバンサールの中心である大樹の上に作られている。まさに幻装の産物というべき代物は、魔王軍に属するリュウディースたちが魔法の力を結集して作り上げたものであるといい、エレニアは魔王の館を訪れるたび、感嘆するほかなかった。
自然を愛する――それ自体魔王に聞くまでは知らなかった新事実だが――リュウディース制作であることは、コフバンサールの命名の由来となった大樹を傷つけることなく利用していることからもわかる。
その大樹の館で魔王と対面するのは、何度目となるのか。
それこそ両手の指の数では足りないくらいかもしれない。それほどまでにエレニアは魔王との交渉に明け暮れていた。
女神教団は、マイラムを制圧してからというもの、またしてもおとなしくなっているものの、それもいつまでも続くものではないことは明らかだ。いずれ戦力が整えば、またしても侵攻を再開するに決まっているし、そうなれば現状の三者同盟では為す術もなく撃滅されるだけだ。
ログノールは魔王軍を忌避し、魔王軍はログノール、エンジュールと距離を置いている。エンジュールも魔王軍に対して、複雑な想いを隠せていない。
「魔王陛下には、是非ともエンジュールにご足労願いたく」
「エンジュールにか?」
「はい。エンジュールは名だたる温泉郷。日々の疲れを癒やすには、温泉ほど相応しいものはないといいきりましょう」
「……また、拒まれるだけのことだ」
ユベルの一言には、エレニアの胸にちくりと棘が刺さった。
「以前にもいったはずだ。人間と皇魔の共存は不可能だとな。わたしのような例外を除いては」
彼の断言は、この世界における常識であり、人間も皇魔も絶対不変の法則の如く受け入れていることだった。そして、彼自身が特別な力を持つ人間だという事実に基づいたものでもある。魔王ユベルは、皇魔ではない。人間なのだ。その人間である彼がなぜ絶対不変の法則を越えて皇魔と生活し、皇魔との間に子を設けることができたのかは、彼が特異な能力を持っているからに過ぎず、その能力がなければ、ユベルであっても皇魔とわかりあうことなどできなかったということを彼はいっているのだ。
しかし、彼以外の例外もあるということを彼女は知っている。
「では、あの子も例外なのでしょうか?」
「……レインか」
ユベルが、視線をエレニアの後方へと向ける。エレニアもそちらに向き直った。さきほどから、きゃっきゃとはしゃぎ回る子どもたちの声が聞こえていたのだ。
ユベルとの会見のために通された広間には、彼とエレニアのほか、エレニアの従者たち、魔王配下のリュウディースたちと、その間を駆け回る二名の子供がいた。
「リュカはこっちですよ」
「どこどこ? 待ってよー」
「うふふ、待ちません」
「待ってってばー」
四歳に満たない男児と女児が無邪気に駆け回る様は、ただただ愛らしく、見ているだけで心が洗われるような思いがした。
そんなふたりを見遣るユベルの目は、どこか眩しそうなものを見るように細められていた。