第千八百十三話 ニーナの頼み事(二)
ニーナ・アルグ=ザイオンは、黒髪に赤い瞳が特徴的な。すらりとした長身を誇る女性だ。西ザイオン帝国大総督という立場から分かる通り、生粋の軍人であり、武人でもある彼女の肉体は鍛え抜かれており、歴戦の猛者であっても対等に渡り合えるかどうかといったところだ。
かつて、ザイオン帝国の中でも三公五爵として並び称される高位の爵位のうち、騎爵に任じられていただけあって、個人の武にも自信があるということだが、騎爵として領地を持つようになってからはもっぱら指揮官として指示を出すことばかりだという。
「とはいえ、前帝国時代は、実戦など、皇魔討伐くらいのものしかなくてな。それ以外の戦いといえば、つまらない演習ばかりだった」
書類仕事を進めながら、ニーナは、語る。セツナは彼女が書類仕事を進める傍らにいるだけだったが、ニーナにはそれでいいといわれていた。なにもせず、ただ視界に入ってくれていれば十分だ、と。むしろ、セツナがなにかしら行動を起こすことのほうが嫌なのかもしれない。つまるところ彼女は、目の保養をしているのだ。ニーウェそっくりのセツナを仕事の合間合間に目に入れることで、わずかでも癒されるらしい。
セツナは、そんなニーナを見ては、それほどまでにニーウェのことを愛しているのだと想い、ニーウェのことを羨ましく想うとともに、彼が彼女のことを遠ざけているらしいというのが納得いかなかった。帝都でニーウェと対面することがあれば、直談判してもいいほどだと考えている。無論、ニーナがそんなことを望むわけもないが、セツナはニーナとニーウェには幸せになって欲しかった。
三大勢力の一角であり、最終戦争を引き起こしたザイオン帝国そのものには恨み言のひとつもいいたい気持ちはあったが、それも帝国人個人個人への恨みではないのだ。帝国に所属したものたちにもどうすることもできなかった。たとえニーウェが皇帝だったとしても止めようのない流れだったに違いない。むしろ皇帝ニーウェ率先して軍を率いていただろう。三大勢力を支配する神々の思惑があの戦いを引き起こしたのだ。
三大勢力のひとびともまた、神の手のひらで踊らされていた被害者に過ぎない。
しかし、そういう風に考えられるのも、セツナが真相を知っていたからであり、真相を知らないものからすればセツナの考え方など理解できないだろうし、帝国を始めとする三大勢力をいまもなお恨むものがいたとしても、なんら不思議ではない。
実際、最終戦争で蹂躙されたベノアガルドには、最終戦争を引き起こした三大勢力を憎悪するものが大勢いた。一般市民のみならず、騎士の中にもだ。こればかりは、致し方のないことだ。あの戦いの真相をすべて明らかにし、すべての人間に周知徹底させるというのは、混乱を招くだけにすぎない。
伝承、伝説でしか知らない神の存在を現実として認知させ、その上ですべての出来事が神々の思惑通りであり、神々の思惑によって世界が滅びに曝されていた――などという話を聞けば、だれだって混乱するはずだ。ただでさえ、“大破壊”による混乱が収束しきってはいないというのに、そんな情勢下で混乱を拡大させるなど愚の骨頂でしかない。
ベノアガルドにおいては神々の存在は秘匿とされ、ネア・ベノアガルドを裏で支配していたアシュトラの存在もまた、公表されることはなかった。つまりいまでもベノアガルドのひとびとは、ネア・ベノアガルドを率いたのはハルベルト=ベノアガルドだと信じており、彼が騎士団を裏切り、暴走しただけだと想っているということだ。それはハルベルトと親しい騎士団幹部にとっては否定したいことであるはずだが、彼らは、口を噤んだ。神の実在を言及することによる混乱の拡大など、死したハルベルトも望んではいないだろう、と。
セツナは、騎士団のそんな話を聞いて、自分の発言にも注意しなければならないと自戒したものだった。
「演習と実戦は違う。そのことは、セツナ殿もよく知っているだろう?」
「ええ、まあ……」
セツナは適度に相槌を打ちながら、ゆったりと流れる時間を感じていた。ニーナが書類に筆を走らせる音が小気味良く、彼女の穏やかな表情には心を打たれる。ニーナが望んでいるのは、自分ではない。自分と同じ姿、同じ魂の形をした別人なのだ。そのことを実感として理解するたびにニーウェを怒りたくなった。彼女を幸せにするのがおまえの夢なのではないのか、と、叫びたかった。それだけがニーウェのすべてだったはずだ。それ以上でもそれ以下でもない。ただそれだけのために全身全霊を捧げ、戦い抜いたのではないのか。
もちろん、ニーウェにもニーウェの事情があるのはわかっている。皇位を継承したのだ。皇帝として相応しくあるために私情を捨て去ろうという気持ちは理解できるし、自分の役割に集中するためにニーナを遠ざけているのだろうということは想像できる。しかし、だからといって、幸せにすると誓った女性を不幸な目に遭わせるのはよくないことだ。
そういう考えが自分自身に突き刺さることを理解して、彼は、憮然とした。
(俺もひとのこといえねえな)
幸せにしたいと想ったひとをひとりでも幸福にすることができたのかと問われれば、だれひとりできていないとしかいうほかない。
「どうしたのだ?」
ニーナが怪訝な顔をしたのを見て、セツナは慌てて頭を振った。
「い、いえ、なんでもないっす」
「ふむ……やはり、貴殿はニーウェとは違うのだな」
などと当たり前のことをいってきたニーナだったが、なにを想ったのか、突如として頬を染めた。
「ニーウェはもう少し、可愛げがあった」
(惚気かよ)
セツナは胸中で毒づきながらも、ニーナがニーウェのことを心底愛していることを自分のことのように嬉しく想った。
ニーウェは、もうひとりの自分といってもいい。
本来出会うはずのなかった別世界の自分。それがニーウェなのだ。そんなニーウェが大切に想われていることが嬉しくなるのは、人間として当然の感情なのかもしれない。
と、突如として隣に座り、黙り込んでいたレムが身じろぎした。
「ニーナ様、無礼を承知で申し上げますが」
「なんだ?」
「御主人様も大変可愛らしいところがあるのでございますよ」
「……まあ、そこは否定しない」
ニーナがレムを見遣りながら、納得したような表情を見せる。
「なにせ、ニーウェの同一存在、とやらなのだからな。可愛くないはずがない」
「なるほど。そう考えるのであれば、ニーウェ様が可愛らしいのも頷けます」
「だろう?」
「はい」
なにやらふたりにしかわからない会話を繰り広げる帝国軍大総督と下僕に、セツナはなんともいえない居心地の悪さを感じずにはいられなかった。さらにそのまま、ふたりしてそれぞれの主の自慢合戦を始めたものだから、ますますセツナの肩身が狭くなった。ニーウェの話を聞くのはまだしも、レムによるセツナ自慢は聞いていて心地の良いものではない。こそばゆいうえ、いたたまれない気持ちになってくるからだ。
レムはまるでセツナがこの世に舞い降りた唯一無二の希望であるかのように仰々しく褒め称え、それを聞いたニーナは、得心したような顔をした。なぜ納得したのかまったくわからないまま、ニーナによるニーウェ自慢が始まると、今度はその甘ったるい日々の告白にげんなりとしてくる。が、レムはニーナの告白を実に羨ましそうに聞き、セツナを一瞥して、目を輝かせた。まるでセツナにそうしろとでもいうような反応には、セツナも絶句するほかなかった。
そんな風にして、ニーナとの時間は過ぎていく。
間に昼食を挟むと、ランスロットが仲間に加わり、ふたりの会話に参加した。
セツナは、時折レムの妄言に突っ込むだけだったが、それにも疲れると、あとは言われ放題になった。レムがセツナのことをなにかと美化して話すのは、彼女の中の願望なのではないかと考える一方、セツナをからかっているだけなのではないか、という考えにも至る。どちらもありえそうなのがレムだから、セツナはますます気力を奪われていく。
夜になるころにはすっかりぐったりしていたセツナだったが、途中からいなくなったランスロットはともかく、レムもニーナもむしろ活力を取り戻したとでもいうような様子だった。互いに自分の主を自慢しあっただけなのだが、それがふたりには良かったらしい。横で聞いていたセツナは、気恥ずかしさのあまり悶絶しそうになったものだが、それでふたりが活力を取り戻せたというのであれば、なにもいうことはない。
「もうこんな時間か」
ニーナが懐中時計を取り出したのは、午後十時を回ったころだった。すっかり日も落ち、魔晶灯の冷ややかな光だけが天幕内を照らしていた。
「セツナ殿。貴殿にはたっぷりとわがままを聞いてもらったな。ありがとう。心からの感謝を」
「い、いやいや、俺なんてなにもせずただここにいただけですし」
「いや、それで良かったのだ。久々にニーウェが側にいた気がしただけで、十分だ」
ニーナの言葉は、考えれば少しばかり寂しさを感じさせるものだったが、彼女が満足しているのであればセツナとしてはそれ以上口を挟むことはなかった。
「レム殿とはまたゆっくりと話したいものだな」
「はい。わたくしも、ニーナ様とはもっとじっくりと語り合いたいものでございます」
「ふ……それは楽しみだ」
なにやら奇妙な友情が芽生えたらしいふたりの満足げな顔を交互に見遣りながら、セツナは、ただただ途方に暮れたのだった。
つぎにレムがニーナと話し合う機会となると、遥か先、帝国本土に辿り着いてから以降となる。そのとき、レム以外にもセツナと一緒にいるものが増えているかもしれず、そうなった場合のことを想像すると、呆然とせざるを得ない。
きっと、ニーナと激論を繰り広げるに違いないのだ。
今日一日でさえ馬鹿馬鹿しい言い合いばかりをしていた。
そんなのがさらに人数が増えるとどうなるのか。
考えるだけ無駄なことだとわかっていても、考え込まざるをえないセツナだった。