第千八百十一話 潮風(二)
「これが……海」
レムが感嘆の言葉を漏らしたのは、西帝国軍野営地の北側、海に停泊する三隻の艦船を望む海岸沿いに辿り着いてからのことだ。
暖かな日差しと穏やかな風、浜辺に打ち寄せる波の音が、冬の真っ只中であることを忘れさせるようだった。陽の光が反射する浜辺は白く輝き、寄せては引く波もまた、きらきらとしている。そういった光景さえ、小国家群という内陸部に生まれ育ったレムにとっては感動を呼び起こすほどのものであり、彼女は、うっとりとした様子で浜辺を眺めていた。
「綺麗なものでございますね……」
「そうだな……」
セツナも、彼女の感想には同意するほかなかった。
三隻の魔動船は、浜辺からはやや遠いところに停泊している。ふたりのいる浜辺は、帝国軍野営地から少し離れた場所に位置しているのだ。
海をもっと間近で見たいというレムの要望に応えた形だが、セツナとしても、逸る気持ちを抑えるための気分転換が必要だと考えていたところだった。それには海を眺めるのも悪くはないのではないか。そんな想いが彼をここまで連れてきた。
浜辺を歩きながら、風を浴びる。
潮風だ。懐かしい海のにおいが、かすかにする。海のにおいはどこでもそう変わらないのだろう。
「御主人様の生まれ育った世界では、めずらしいものではなかったのでございましょう?」
「海に囲まれた島国だったからなあ」
「わたくしにとって海とは物語の中のものでしかありませんでした」
「うん」
「こうして海辺に立つようなことがあるなどと想像したこともございませぬ」
レムは、茫然と、浜辺から臨む広大な海の景色を眺めていた。白と黒を基調とする給仕服姿は、浜辺にまったくといっていいほど似つかわしくはない。しかし、海を眺める少女の横顔はため息が出そうになるくらいに美しく、セツナは、彼女の魅力を再発見したような気持ちになった。レムが元々美人であることは知っていたし、そのことは重々承知しているのだが、見慣れると、意識しなくなるものだ。それがふとした拍子に見せたいままでにない表情によって、改めて認識させられたということだ。
頭上には、抜けるような青空がある。雲ひとつ見当たらない快晴。太陽の光だけは燦々と降り注ぎ、海面に突き刺さって輝きを増す。海は風に揺れ、波が無数に起こっている。青い空。碧い海。あざやかな群青で埋め尽くされたような景色。レムの人生において初めての光景。彼女にどれだけの衝撃を与えているのか、想像するのも難しい。
「じっと眺めているだけで、ときが立つのも忘れてしまいそうです」
レムが、うっとりとした様子で、いった。彼女はこの海辺の景色がいたく気に入ったようだ。セツナは、彼女をここに連れてきた正解だったと心の底から想った。
「いつまでだって眺めててもいいんだぜ」
「そうしたら、皆様が困ってしまいますよ」
「ん?」
「あのふたり、どこにいったんだ、って」
「そんなにずっと眺めているつもりかよ」
セツナは、レムの言い様がおかしくてつい吹き出した。
そこまで眺めていても飽きそうにないくらい、気に入ったということなのだろうが。
セツナは、レムが飽きるまで、彼女に付き合ってあげることにした。
かくして、セツナとレムはそれから数時間あまり、その浜辺でゆったりとした時間を過ごした。
セツナは久々に休養をした気分だったし、レムも目一杯海を堪能できて満足したようだった。レムが満足してくれたことがセツナにはなにより嬉しく、野営地に戻る最中、彼女が興奮気味に海の話ばかりするのを聞きながら、彼は何度も笑った。
野営地に戻ったときには夕飯時であり、セツナよりも先にレムが炊き出しのにおいに気づき、彼を驚かせた。
「御主人様よりも早く気づくだなんて、めずらしいこともあるものですね」
レム自身も驚いていたのは、普段はセツナのほうが鼻が利くからだったし、そのことはレムのみならず、セツナの周囲の人間にとって周知の事実だった。それが初めてレムに負けた。それも、帝国軍野営地の炊き出しのにおいというのがかなり強いものだったことがわかると、余計に敗北感を突きつけられざるを得ない。
「これからはわたくしの鼻を頼ってくださいまし。御主人様のためなれば、犬にだってなりますよ」
レムは、冗談目かしくいってきたものの、その言葉を聞いた帝国兵たちは怪訝な顔をした。レムの台詞だけを聞けば、いかがわしいものとして受け取れるかもしれない。無論、レムはそんなこと一切気にしていないし、むしろ、そう受け取られることを意識して、そのような発言をした可能性すらある。
「おまえなあ……」
セツナは憮然としていると、ランスロットがふたりを探し回っている様子が目に入り、彼のもとに駆け寄った。そして、彼に伴われた先で待っていたニーナと夕食をともにすることになり、その席でレムが海についての話をし、ニーナの共感を呼んだ。
ニーナも、“大破壊”以前は海とは無縁の人生を送っていたといい、あのままなにも起きなければ、海を見ることもなく生涯を終えただろうと話した。
ザイオン帝国領土の中でも、海に面した地域というのは決して多かったわけではない。大半が内陸地であり、ニーナの領地であったエンシエルなどは、小国家群に近い、帝国領土内でも辺境と呼ばれる地域だったという。海とは無縁の地であり、そんな地にありながら超大型艦船の建造を極秘裏に進めていたニーナの腹心イェルカイム=カーラヴィーアがなにを考えていたのか、ニーナにもわからないのだという話になった。
イェルカイム=カーラヴィーアは、故人だ。
世界大戦、最終戦争とも呼ばれる三大勢力の決戦において、帝国軍に所属するすべての武装召喚師の頂点に立つものとして戦場に立った彼は、彼が独自に編み出した兵装召喚と呼称する術式を用いたとされる。王都ガンディオンに大穴を開けた砲撃がどうやらそれによる攻撃であるらしく、砲撃が止んだ経緯から鑑みて、おそらくカイン=ヴィーヴルがイェルカイムを討ったのだろう。無論、憶測にすぎないし、イェルカイムについて思うところのあるらしいニーナやランスロットの心中を考え、セツナはそのことを口にはしなかった。もっとも、ニーナにせよ、ランスロットにせよ、イェルカイムの死因についてはある程度理解しているように想えたが。言及しないのは、そんなことをセツナたちにいっても詮無いことだと認識しているからだろう。
世界大戦を引き起こしたのは、帝国を始めとする三大勢力だ。ガンディアは、それに抗っただけのことであり、その結果帝国側にどれほどの被害が出ようと知ったことではなかったし、そのことで帝国側に対し、セツナが謝罪する必要性は感じなかった。帝国軍は、ガンディオンに至るまでにガンディア領土を蹂躙してきている。どれほどのガンディア軍人が命を落としたのか、想像するだに恐ろしいほどだ。
かといって、セツナも帝国側に謝罪してほしいなどと考えてもいない。
あの戦いが帝国の意図したものであり、帝国の意思によってガンディア領土が蹂躙されたというのであれば、その上でセツナに協力を要請しようというのであれば話は別だが、そうではないことがわかってしまっている。
あのとき、ガンディオンを包囲した三大勢力のいずれもがあるひとつの目的がため、神なるものどもによって突き動かされたのだということが判明している以上、彼らを責め立てることはできない。彼らを非難したところで、なんの意味もないことだ。
セツナもあの戦いでは散々に殺した。あのまま戦い続けていれば、さらに殺しただろうし、ニーウェたちが前線に出てきていれば、躊躇なく殺したことだろう。そしてそんなことになっていれば、このような状況は決して生まれなかったに違いない。
不幸中の幸いといった事態が、続いている。
最終戦争が引き金となって起こった“大破壊”は、有史以来未曾有の大災害だったが、それ自体、最悪の事態を防いだ結果だった。聖皇復活を止めるため、クオンたちが命を賭したことによって、世界の滅亡という最悪の結末は回避された。そのためにワーグラーン大陸はばらばらに引き裂かれ、世界は激変し、数多くの命が失われたというが、世界が滅び去るよりはましだったのは考えるまでもない。そのために死んでいったひとたちにとっては同じことだろうが、いまを生きるものにとっては、世界が存続していることほど重要なことはない。
失われたものは数え切れないほどにあり、爪痕は未だ深くひとびとの心に刻まれているものの、それでもこの世が滅び去り、生きとし生けるものすべてが根絶やしにされるよりはいい。
そう想わなければやっていけないということでもあるが。
ともかく、“大破壊”が現在を生きるひとびとに多大な影響を及ぼしたことは間違いない。
ニーナが長い航海の末、この地に辿り着いたのも、“大破壊”が起きたからこそなのだ。
「世界崩壊は思い出したくもないくらい悪いことばかりではあったが、あなたと出逢えたことには感謝しなければならないかもしれない」
晩餐の最中、ニーナはセツナを見て、苦い笑みを浮かべた。
「あなたは陛下の写し身だ。そのことが、わたしにとっての救いとなる」
それがどういう意味なのかは、セツナにもなんとなくわかっていた。