第千八百十話 潮風(一)
西ザイオン帝国軍野営地は、ベノア島北岸に築かれている。
なんの情報もない島に上陸した西帝国軍は、島内の情勢を調べるため、情報を集めるための拠点としてこの野営地を構築したのだ。西帝国軍は、ここベノア島に至るまで何度もそのようなことを繰り返してきており、野営地の構築も撤収もお手の物ということだった。
セツナとレムが到着したころには野営地の撤収作業が始まっており、以前見たときよりも一回りも二回りも狭く、小さくなっていた。フロードたちと別れ、西帝国軍兵士たちが従事する撤収作業を眺めていると、ランスロット=ガーランドが部下に指示を出しているところを目撃する。普段の飄々とした様子となんらかわりのない彼の姿は、それがランスロット=ガーランドの有り様であるとでもいわんばかりであり、なんともいいようのない存在感を放っていた。
「随分早いおつきですな」
セツナたちに気づいたランスロットは、颯爽と歩み寄ってくると、そんな風にいった。
「撤収作業もすぐには終わりませんし、出航準備にも時間がかかりますのでね。こう早く到着されても、暇をもてあますだけですよ」
「それはわかっていますが、いてもたってもいられなくてね」
「それほどまでにリョハンに行きたいということですな」
「はい」
素直に肯定すると、ランスロットは、少しばかり意外そうな顔をした。
「それならば、我々も心してリョハン探しに協力せねば参りませんね」
「よろしくお願いします」
「お願いされました」
といって爽やかに微笑んでみせるランスロットは、頼りがいのある人物のように想えた。
ランスロットに案内されるまま野営地の中を歩き、一番大きな天幕に辿り着く。
天幕の中に招かれると、中ではニーナ・アルグ=ザイオンが渋面でもって書類と対決している光景が繰り広げられていた。ニーナは相変わらずの美人であり、しかめっ面をしていても綺麗なのはどういうことなのかと想うほどだった。
「閣下、セツナ殿とレム殿がお着きになられましたよ」
「もう、到着されたのか」
ランスロットの報告にも、ニーナは書類から視線を外さなかった。余程重要な書類なのだろう。渋い顔をことさら厳しくしたのは、書類に書かれている内容のせいに違いないのだが、セツナの位置からはまったく見えないため、多少気になったりした。
ランスロットがセツナを振り返り、なぜかにやりとした。
「まあ、ここにおられるのですが」
「! それを早くいわぬか!」
ランスロットの一言にニーナが取り乱したのは、どういうわけなのか、セツナにはいまひとつわからない。ニーナがセツナたちとの対面に慌てる理由などないはずだ。
「いま、いいましたよ」
「天幕内に入る前にいえ、といっている」
ニーナは、ランスロットを睨んだものの、すぐにその鋭い眼差しを引っ込めた。セツナに視線の移したときには、きわめて穏やかな表情に変わっている。ランスロットがまたしてもセツナを見て、目だけで笑う。ニーナの変貌ぶりが彼には面白いのかもしれない。
「セツナ殿、レム殿、迅速な行動には感心するが、何分、我らが船の扱いは慎重にしなければならぬ故、すぐさま出航するということはままならんのだ。しばらくの間、この野営地でくつろぐなりなんなりしていただきたい」
「はい。俺も皆さんを急かそうとしているわけではないので、気になさらないでください」
「それ、気にしろっていっているようなもんですよね」
ランスロットのさりげない一言に、どきりとする。無論、セツナは本心からそんなつもりはない。しかし、そう受け取られても仕方のない言い方かもしれないとも想った。ニーナが、ランスロットを一瞥する。
「光武卿」
「はい?」
「卿は失礼だな」
「まあ、無礼千万がわたしの取り柄ですから」
「駄目じゃないか」
「駄目駄目ですよ」
「……話しにならんな」
「はい」
肩を竦めるニーナに対し、ランスロットはにこやかに笑い返すのみだった。
西帝国軍大総督と西帝国皇帝側近こと光武卿のやり取りには、セツナもレムも取り残され、きょとんとするほかなかった。
ニーナの元を辞したセツナとレムは、ランスロットによってふたりの寝床となる天幕まで案内された。西帝国軍野営地は、一回りも二回りも縮小したとはいえ、まだまだいくつもの天幕が残っており、そのうちのひとつをセツナたちのために開放してくれたらしい。
「出港準備が整うまでは、ここで休まれるとよろしい」
「そうさせていただきます」
「もちろん、野営地内外の出入りは自由ですので、好きになさってください。ただ、あまりに離れすぎると、出港準備が整っても連絡できなくなりますのでね、その点だけはご注意を」
「わかってますよ」
セツナがいうと、ランスロットは苦笑した。
「それはそうでしょうがね、一応、ですよ」
ランスロットはそれから、セツナたちの元を離れると、何名かの兵士に指示を出していった。セツナたちの監視を命じたのかもしれないし、別の命令かもしれない。いずれにせよ、セツナたちは帝国軍将兵の監視下にあることに変わりはない。西帝国軍としては、せっかく協力関係を結んだセツナたちを見失うわけにはいかないのだ。重要な戦力として認識されている。丁重な扱いもそのためだ。
セツナとレムは、寝床となる天幕内に荷物を乗せた荷車を入れると、天幕の外に出た。休むには早すぎる時間だったし、ただ天幕内で時間を潰すのももったいないという気分があった。
「しばらく時間がかかるとのことですが、どれくらいかかるのでございましょう?」
「さあな。まったく見当もつかねえ」
セツナは、北岸に築かれた野営地のさらに北を見遣った。ベノア島北岸から見渡す海は、陽の光を浴びて青々と輝いている。見渡す限り一面の海。水平線の果てまで続く膨大な碧は、これまでイルズ・ヴァレでは見たこともないものだった。風が波を起こし、白波が冬の日差しにきらきらと輝く。その照り返しが西帝国が保有する三隻の船の巨大な船体に光跡を刻んでいる。
西ザイオン帝国が海外で戦力を確保するため繰り出した三隻の船は、すべて魔動船と呼ばれる船であるらしい。魔動船という名称から考える限り、普通の船ではないことは間違いない。ランスロットの説明によれば、イェルカイム=カーラヴィーアが秘密裏に建造していた超大型艦船アデルハインこそが世界初の魔動船であるということだ。それくらいしか教わってはいない。魔動船にどのような技術が使われ、なぜ魔動船などと呼ばれるのかなどもまったく不明だった。が、知る必要のないことかもしれない。要するにセツナたちは、海を渡ることさえできればいいのだ。
魔動船が海を渡るだけの力があることは、ニーナたちが西帝国領から遥々とこのベノア島までやってきたことから疑う余地もないのだ。
海に浮かぶ超巨大艦船アデルハインと二隻の大型艦船メリッサ・ノア、キリル・ロナーの威容を眺めながら、セツナは、逸る気持ちを抑えるのに必死にならなければならなかった。
この広大な海の彼方にファリアたちがいるはずだ。
セツナを待っている――などという傲慢な考えが彼を突き動かしているのではない。もっと素直で純粋な気持ちだった。
ただ、逢いたかった。
逢って、生きていることを確かめたかった。
ひとは、ひとりで生きているものではない。
自分以外の他人を認識して、初めて生の実感を得ることができる。
セツナがたったひとりでベノアの地に放り出されたときもそうだが、孤独では、自分が本当に生きているかどうかなど確かめようがない。
様々な出会いがあり、レムとの再会を果たしたいま、生きていることの実感はある。しかし、それだけでは足りないのだ。
失ったものをすべて取り戻すことはできない。
それはわかっている。
波間にきらめく陽光に目を細めながら、彼は、拳を握った。
それでも、もう一度、皆に逢いたいという気持ちは、本物なのだ。