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第百八十話 幸せのかたち

 ジナーヴィが平衡を失い、体を水面に叩きつけられたのは、天竜童の翼をひとつ、切り落とされたからにほかならなかった。とはいえ、旋風の防壁が掻き消え、無防備になったのは水面に落ちた一瞬だけだ。

 意識は明瞭。五感も鋭敏。五体は万全。鎧が少々破壊されたが、問題はない。全身が水に濡れたが、動きが鈍くなるほどのものでもなかった。そのうち乾くだろう。

 彼は烈風とともに起き上がると、追撃もままならなかった様子の相手を見た。若い男だ。彼が手にした長剣が、天竜童の翼を斬ったのだろう。見とれたくなるほど美しい剣だった。湖面のように蒼く透き通った刀身は、月光に照らされ、尚更あざやかに輝いている。

 身に纏う簡素な鎧は、機動性を重視してのことだろうが、その判断が彼の全身を傷だらけにしていた。暴風圏に突入してきたのだ。全身がずたずたに切り刻まれ、血まみれになっている。だが、男の目は死んでいない。むしろ活き活きとしていた。もっとも、立っているのがやっとという有り様であり、だからこそ、ジナーヴィは無傷で立ち上がることができたのだが。

「龍を落とすか。名は?」

「知りたきゃ、まず、そっちから名乗りなよ。この状況、わかってる?」

 剣の切っ先をこちらに向けてきた男の澄まし顔に、ジナーヴィは口の端を歪めた。血まみれの男は、ふらつく様子も見せず、突っ立ち、戦う気配を放ってきている。良い戦士だ。武装召喚師かもしれない。彼の手に輝く剣は、間違いなく召喚武装だ。あの宝石のような刀身は、この世のものではない。

 状況。

 ジナーヴィは、感覚だけで自分の置かれている立場を把握していた。いわれるまでもなかった。ロンギ川の中程にすら達せずして、墜落させられたのだ。敵本陣はまだ遠く、一足飛びで近づけるような距離ではないのは明白だった。振り返れば、大将旗すら霞んで見えるだろう。それほどの距離。

 周囲には、敵軍の兵士たちがいる。屈強な男が多い。二百人かそこらだろうか。ジナーヴィの纏った暴風でびくともしなかった連中もいれば、吹き飛ばされながらも立ち上がり、包囲に参加したものもいる。そう、包囲だ。ジナーヴィは二百名余りの敵兵に包囲され、百ほどの弓矢を向けられていた。矢にこめられた殺気は鋭く、彼の五感を著しく刺激する。

 頭上は、晴れ渡っている。

 雲ひとつない夜空は、膨大な月の光によって切り裂かれ、夜の闇が無力にも平伏しているようだった。星々の輝きも、強力だ。まるでこの世が美しく、素晴らしいものであるかのように燦然と光を放ち、謳い、踊っている。

 頭上からの光と、川面に乱反射する光。

 まばゆくも美しい光の乱舞の中で、彼は、ただ、笑った。

「ふっ……はははは、あっはっはっはっ!」

 なにがおかしいのか、自分でもわからなかった。敵軍の弓による牽制の無意味さが面白いわけではない。血まみれになりながら、それでもなお虚勢を張る男の姿も、別段おかしいものではない。では、なにが彼を笑わせるのか。

 ジナーヴィは、ひどく愉快な気持ちで、敵陣を見回していた。どいつもこいつも鋭い目つきに強い顔つきだった。面構え、というのか、そういうものが、龍鱗軍の連中とはまったく違っていた。平素の教育や訓練による成果であったり、経験の差だったりするのだろう。ひとりひとりが、龍鱗軍の兵士十人に匹敵しそうだと、彼は分析したし、実際そうかもしれなかった。

 そんな敵のひとりと戦っているのが、フェイだ。二刀一対の小刀である双竜人そうりゅうじんを自在に操る彼女と、同じく二刀流の女が、互角の戦いを繰り広げている。剣と小刀が激しくぶつかり合い、火花と金属音を散らし、この素晴らしく美しい世界に花を添えるかのようだ。しかし、フェイが押されているのは明らかだった。彼女の斬撃は、なぜか無力化されているからだ。刃が敵を捉えても、斬撃が間違いなく決まっても、彼女の小刀が女を切り裂くことはなかった。逆に、女の斬撃はフェイの体の各所にかすり傷を負わせていく。かすり傷だが、避けきれていない事実が、重い。

 ジナーヴィは、それでもフェイの表情が愉悦に歪んでいることに気づいていた。彼女は、この戦いを心底楽しんでいる。

 この、ふたりの最後の戦いを。

「狂ったのか、あいつ」

 血まみれの男の背後に、大男が現れる。巨大な戦槌を肩に担ぐ男もまた、傷だらけだった。ジナーヴィの暴風に吹き飛ばされたのだろう。

「さあ? あ、無事だったんだ」

「あったりまえだろ。あんなので死ねるかよ」

 大男は大声で言い放ったが、事実ではあるのだろう。彼は、傷だらけでありながら、まったくもって元気そのものだった。これではジナーヴィの立つ瀬がない気もしないではないが、大男はそこまで接近していなかったに違いない。剣の男のほうが血まみれで瀕死といっても過言ではないのだ。

「俺のほうが死にそうだもんね」

「おう、死ぬなよ」

「あっさりいってくれるよね」

「信頼の証と受け取れい」

「了解」

 ふたりの男のやり取りがすこしばかり羨ましくなったのは、彼には、そういう仲間がついぞできなかったからかもしれない。

 生まれ落ちてからずっと、孤独だったのだ。

 ミレルバス=ライバーンの次男。ライバーン家の男子。五竜氏族の一員。将来を嘱望される人物。そういった家系由来の繋がりでしか、彼の下に、ひとが集うことはなかった。いまでもそうだ。国主が与えてくれた聖将位のおかげで、仮初めの軍勢を築きあげることができたのだ。すべて、借り物だった。この血も、この名も、この立場も、この軍勢も、すべて他人から与えられたものにすぎない。

 自分で勝ち取ったものなど、数えるほどもない。

 武装召喚師としての実力と、女ひとりだ。

(なんだ、十分じゃないか……)

 ジナーヴィは、己の考えの愚かさに苦笑すると、思わず彼女の名を叫んでいた。

「フェイ!」

 フェイは、即座にジナーヴィの元に飛んできた。彼への包囲網などお構いなしだ。そして、再び彼を取り巻きだした暴風も、彼女の存在だけは簡単に受け入れる。傷ひとつ付けず、迎え入れるのだ。それがジナーヴィの意志だからだ。だから、他のものは決して近づけようとはしない。切り刻み、吹き飛ばす。

「あの女硬すぎ!」

 フェイの唐突な怒声に、ジナーヴィは面食らったが、同時に吹き出していた。

「武装召喚師だろ」

「あの女は違うよ」

「別の奴だな……あの盾か」

 ジナーヴィは、敵部隊の中央に佇む少年に目を留めた。軽装の少年。純白の盾を両腕で抱えている。真円を描く盾は、淡い光を発しており、ただの盾ではないことを主張している。よく見ると、少年は盾を持っているだけで攻撃には参加していないようだった。つまり、彼の盾は自身のみならず、味方にも作用するということだ。防壁のようなものが展開され、仲間を護っている。目の前の剣士と戦槌男は、少年の仲間ではないのだろうか。同じ軍に所属しているというのに。

「わっかりやすーい」

「召喚武装なんて大抵そんなものだろう」

「そうだけどさ。で、どうしたの?」

 フェイは、両手の小太刀を弄びながら、ジナーヴィを見上げてきた。いつもの上目遣い。瞳に月が映り込んでいる。膨大な月の輝きは、彼女の中の世界を感じさせる。その世界に、自分の居場所はあったのだろうか。ふと、そんなことを考えた。

「ん……いや、なんとなく呼んでみただけさ」

「変なの」

 フェイは、それだけをいった。特に気にもしていないのだろう。いつものことだと思ったのかもしれない。確かにいつものことだ。なにげなく彼女の名を呼び、彼女はそれに全力で反応する。いつものことだ。この最期のときまで、いつものままでいられるのは、ある意味では至上の幸福なのかもしれない。

 敵軍に動きがあった。だれかの号令で、百以上の弓が矢を放ったのだ。ふたり揃ったのを好機と見たに違いない。が、ジナーヴィたちを守るように展開する暴風圏が、矢のことごとくを飲み込み、破壊しながら天高く舞い上げていった。矢一本とて、彼の元に到達することはできなかった。

 天竜童の防壁は、やはり凶悪極まりない。

 暴風圏を突き破ったあの剣士が異常だったということを確認できただけだ。そして、あのような無茶はもうできまい。出血しすぎたのか、剣士は剣を足元に突き立て、体を支えていた。後退するべきなのだが、そうしないのは彼の誇りが許さないのだろう。つまらない意地だ。そんなくだらないもののために、彼のようなものは死ぬのだろう。

(俺も同じだな)

 ジナーヴィは、血まみれの、いまにも死にそうな男の姿に自分の姿を重ね合わせた。

 つまらない意地を張って、死のうとしている。

 撤退する機会ならいくらでも作れた。ジナーヴィが暴風圏を拡大し、敵の足止めをするだけで、多くの味方が撤退に成功しただろう。ゼオルに逃げ込み、城門を閉ざせば、多少の時間稼ぎはできるはずだ。奇襲直後ならば、こちらの損害も大きくはなかったのだ。兵を集め、再戦を帰すこともできたかもしれない。

 が、取るに足らない感情が、彼をこの場に踏みとどめていた。

(ミレルバス=ライバーン。俺はやはり、あなたの期待には応えられないらしい)

 感情が、それを許さない。

 家のためにと息子を見捨て、国のためにと息子を戦地へ送り出したあの男の顔が、ジナーヴィの脳裏に浮かんで、消えた。

 ジナーヴィは、空中高く舞い上げられた矢の残骸が、敵陣に雨のように降り注ぐのを見届けると。少しばかり退屈そうなフェイに声をかけた。

「……ひとつ聞いていいか?」

「なあに? 改まっちゃって」

「おまえは、幸せだったのか? こんな戦いに巻き込んでしまうような男と一緒にいて、さ」

 問うのは、怖かった。否定されたらどうしよう、そんな繊細さが、いまさらのように沸き上がってきていた。彼女との睦み合いも、愛の戯言も、いつもの言葉も、すべてが自分だけの思い込みだったら、どうすればいいのか。そんな妄想が馬鹿げたものだとはっきりしたのは、フェイが、こちらを仰ぎ、はにかみながらも笑ってくれたからだ。

「うん。ずっと、幸せだったよ」

「ずっと?」

「そう、ずっと」

 フェイは照れているのか、頬を染めているように見えた。月明かりの下、はっきりとはわからない。

「はは、冗談だろ」

 ジナーヴィが笑ったのは、あの地下にいた時代のどこに幸福があったのか、彼にはわからなかったからだ。幸せとは程遠い、絶望と怨嗟だけの世界。そんなところで、幸福など実感できるはずもなかった。しかし、フェイの表情は変わらない。

「ジナと出逢って、わたしはわたしになれたの。ジナに愛されて、わたしは初めて、人間になれた気がした。人間として生きていていいんだって、許された気がしたんだ」

「おまえ……」

「だから、ずっと幸せだったんだよ。あの闇の底でも、ジナがいてくれるから、わたしはわたしであり続けることができた。全部ジナのおかげ。だから、いまでも十分幸せなの」

(いまでも……十分……)

 ジナーヴィは、彼女の言葉を反芻して、自分の愚かさを改めて思い知った。

 失われた十年を取り戻す。そのための新国樹立。そのための軍勢。そのための仮初の勝利。なにもかも、不要だったのだということを、彼はようやく、理解した。なにも要らなかったのだ。

 なにも。

 ジナーヴィが欲したのはフェイの幸せであり、フェイの幸せとはジナーヴィとの日々だった。

 新国など不要だったのだ。ザルワーンの内に築く新天地など、端から必要ではなかったのだ。では、なんおためにそんなことを思いついたのだろう。

 ミレルバス=ライバーンへの意趣返しにほかならないのではないか。

 彼女のために、彼女の幸福のためにと考えたことごとくが、結局は自分の感情を埋め合わせるためのものでしかないことに気づいて、彼は愕然とした。

「でも、ひとつだけ……」

 彼女は、少し俯いた。悲しげ、というよりは恥ずかしそうな口ぶりに、ジナーヴィは怪訝な顔になった。

「ひとつだけ、不満があるとすれば……それは……ね」

 再びこちらを見上げた彼女の顔が真っ赤になっていたのは、今度こそ認識できた。

「ジナのお嫁さんになれないこと、かな」

 ジナーヴィは、フェイを抱き竦めていた。

 暴風圏の外側で、敵軍がなにを思おうと知ったことではなかった。

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