第千八百八話 希望を求めて(一)
西ザイオン帝国に協力することで渡海手段を得たセツナがベノアを後にしたのは、会見の翌日に当たる二月三日のことだ。
休む間もない目まぐるしい日々だったが、セツナはそのことに対して不満も文句もなかった。すべて自分のためなのだ。自分のために動き回っているのに不満を漏らすなどありえないことだ。休もうと想えばいくらでも休めるのだから、文句をいうのはお門違いも甚だしい。
セツナは、一日でも早く、一秒でも早くリョハンに辿り着きたかった。マリアに急かされているというのもあるが、ベノアでの滞在が一ヶ月以上にも及んだという事実がセツナを精神的に焦らせているのは間違いなかった。
騎士団への協力はともかくとして、その後、渡海手段が見つかるまでに随分と時間がかかっている。だが、それは仕方のないことだったし、これでも十分すぎるほど早いといっていい。奇跡が起きたといっても過言ではないのだ。
『一緒になってリョハンを探してくださる船が見つかったのですから、喜ぶべきかと』
レムは、度々そのようなことをいって、焦るセツナを諌めた。彼女にしてみれば、なにを焦っているのか、という想いもあるのかもしれない。焦ったところでどうなるものでもない。急いたところで、船がでなければどうにもならず、ヴァシュタリア領土が見つからなければどうしようもない。
そんなことはわかっているのだが、それでも急ぎたかった。
急ぎ、ヴァシュタリアを目指し、リョハンに辿り着きたい。
それがマリアの望みであったし、そこにいるであろうかつての仲間たちのためにもなると信じた。
ファリア、ルウファ、ミリュウ――あの日、ガンディオンを飛び立ったものたちは、皆、リョハンにいるという。あれから二年余り、彼女たちはリョハンで暮らしているというが、セツナはファリアのことが心配でならなかった。
戦女神になった、という。
ファリアは責任感の強い女性だ。戦女神になることを受け入れたのであれば、その役割を完璧に果たそうとするだろうし、果たしうるだろう。しかし、その責任の強さで、戦女神という重責のすべてをひとりで抱えようとするためにどこか無理が生じるのではないか。膨大な負荷に耐えきれるものだろうか。彼女は決して弱いひとではない。けれどもだれかの支えなしで生き抜けるようなひとでもない。だれからが側にいて、支えてやらなければならない。
それがセツナだけの役割だというほど傲慢ではないにしても、セツナにも担える役回りであることは確かだろう。
ミリュウも、心配だ。
彼女は、最終戦争以前から精神的に不安定だった。エリルアルムとの婚約を期に不安定さは加速していったことが記憶に残っている。おそらく、彼女の側からセツナがいなくなるかもしれないということが彼女の精神に悪影響を及ぼしたのではないか。その後、ある程度持ち直した理由を考えれば想像がつく。そしてその想像が正しければ、セツナが不在の二年あまりで彼女にどれだけの悪影響を及ぼしたのか、考えるだに恐ろしい。
どうか無事でいて欲しい。
ファリアとミリュウだけではない。ルウファもエミルもグロリアも、アスラも、それにエリナのことも、心配極まりなかった。
少なくともマリアがリョハンを離れるまでは皆無事だったという話だが、それは健康面の話であって、精神的な話ではない。
『あたしは医者だからね。肉体的な健康管理はお手の物だけどさ』
精神面までは支えきれるものではない、とマリアはいった。
だからこそ、セツナにリョハンに向かってほしいのだ、とも。
マリアも、セツナと同じように考えているのだ。
セツナならば、ファリアたちの精神的な支えになれるのだ、と信じているのだ。
セツナは、そんなマリアの期待に応えたかったし、応えなければならないものだと想っていた。
島を出るための船を欲したのも、そんな想いがセツナを駆り立てるからだ。
三日の朝、セツナはフィンライト邸での最後の朝食を取った。
食卓には、セツナとレムのほか、ルヴェリスと、シャノアがいた。
シャノアはここのところ、邸内を車椅子で動き回るくらいには元気を取り戻しており、ルヴェリス以外の他人とも少しずつ触れ合うようにまで回復していた。少しずつだが、確実に以前の彼女へと戻りつつあるようだ。気のせいか、笑顔も増えたように想える。
『原因はわからないけれどね』
ルヴェリスは、困惑気味に笑ったものの、シャノアが笑顔を見せるようになったことを一番喜んでいるのは夫である彼だろう。
セツナももちろん嬉しかった。シャノアには世話になったこともあるし、ラグナも彼女に気を許していた。彼女もラグナのことを気に入っていたようなのだ。いつかラグナを連れてきて、彼女と再会させてあげたいものだ、と彼は考えていた。そのためにはまず、セツナがラグナと再会を果たさなければならず、そこが大問題だった。
ラグナが転生に成功していなければどうにもならない。そして、転生に成功していたとして、どこにいるのかもわからなければならないのだ。その上でその場所までの移動手段を確保しなければならない。とにかく、地続きの大地ではなくなった世界において、移動手段の確保ほど重要なものはない。
「なにも昨日の今日ででていかなくてもいいのに」
「いつまでも甘えているわけにはいきませんから」
「いいのよ? いつまでだって甘えてくれたって。こちらこそ、名誉騎士殿におんぶにだっこなんだし。お互い様じゃない。ねえ?」
ルヴェリスがシャノアに話を振ると、シャノアはうんうんを頷いた。まだしゃべれないが意思疎通はできる上、感情表現が豊かになっている。ルヴェリスとシャノアが本心をぶつけ合ったあの日からというもの、シャノアは以前とは見違えるほどに変化し始めている。互いに心の底までさらけ出しあったことが功を奏したのだろうか。それでも即座に回復しないのは、運命のいたずらなのかどうか。
「そうしたいのは山々なんですが」
「……うん。わかってるわ。あなたにも目的があるものね」
「はい」
ルヴェリスの少しばかり残念そうな顔を見つめながら、うなずく。目的。大いなる目的と、目の前の小さな目的。まずは小さな目的であるリョハン到達を目指す。そのためにも、ここを離れなければならない。
ここ、ルヴェリスの屋敷は、極めて居心地のいい場所だった。ルヴェリスがシャノアへの愛情のみで建築した屋敷は、気遣いが行き届いており、住み心地が良いのだ。その上、屋敷にいる執事、使用人のだれもが気のいいひとばかりだった。
フィンライト邸だけではない。
ベノアそのものがセツナにとって居心地のいい場所になっていた。
騎士団は、救済を理念に掲げるだけあり、素晴らしい組織だった。その理念に傲ることもなく、だれもが真摯に、真剣に救済について考えている。だれもが、救済という理念に命を燃やしている。騎士の多くは、生真面目であるが、同時にひとの良さも窺い知れた。セツナのようなかつての敵を平然と受け入れる度量の広さもある。
騎士団という組織もまた、セツナにとって居心地のいい場所だった。
「引き止めるつもりはないわよ。あなたには散々世話になったもの。これ以上、足を引っ張るなんて騎士の風上にも置けないもの。とはいえ、寂しいのは事実だけれど」
「俺も、同じ気持ちですよ」
セツナは、ルヴェリス、シャノアたちとの別れが近づいていることに寂しさを実感した。
その後、会話の弾んだ朝食を終えると、荷物を纏めたセツナとレムは、フィンライト邸の前庭にてルヴェリスたちに見送られることとなった。
セツナたちの荷物というのは、別段、大したものがあるわけではない。ルヴェリスが用意してくれた何着もの着替えを詰め込んだ鞄に、マリアが以前託してくれた多数の医薬品くらいのものだった。武器防具など必要なかったし、その点では武装召喚師は気楽でいい。
「リョハン……か」
シャノアの車椅子の後ろに立つルヴェリスが、難しい顔をした。
“大破壊”によって大陸はばらばらになった。ベノアガルドがその周辺国ともどもひとつの島になって海を漂うように、ほかの国々も同じように海を彷徨っていることは想像に難くない。帝国領土が南北に両断されたように、リョハンの存在するヴァシュタリア領土も切り裂かれているのは間違いなかった。神の加護が領土を守ってくれたりはしなかったということだ。
「いま現在、どこにあるかわかりませんが、根気よく探し出すしかありません」
「そうねえ……本当、大変なことだと想うけれど、諦めなければいつかはかならず見つかるわ」
「はい」
力強く頷いた。
もちろん、諦めるつもりなど毛頭ない。
「セツナくん。色々ありがとうね。あなたがきてくれたおかげで、ベノアガルドはなんとか持ち直せそうよ。なにもかもあなたのおかげね。本当、感謝しているわ」
「俺だけじゃないですよ。皆さんも」
「うん。それもわかってる。皆で支え合っているもの。それでも、あなたがいなかったら神様を撃退なんてできなかったのも事実よ」
ルヴェリスのその言葉を否定しなかったのは、事実だからだ。黒き矛を携えたセツナ以外のだれがアシュトラを撃退できたというのか。たとえ騎士団幹部たちが真躯の力を結集させたところで、困難だったのではないか。可能性として皆無ではないものの、きわめて低いものだったに違いない。
神とは、人間とは次元の異なる力を持った存在なのだ。人間に対しては圧倒的な力を誇る真躯も、神の前ではどうなるものか。
「レムちゃんも、ありがとうね。シャノア、あなたのこと気に入ったみたいだし、またいつか、顔を見せてあげてね。そのときには、もっと元気になってると想うから」
「はい。ルヴェリス様も、シャノア様も、それに皆様も、どうかお元気で。またいつか、再会できる日を楽しみにしております」
そうして、セツナとレムはフィンライト邸を後にした。セツナたちが門の外に用意されていた馬車に乗り込んだ後も、ルヴェリスとシャノア、それに執事や使用人たちは見送り続けてくれていた。
馬車は、騎士団本部に向かう。
騎士団長以下騎士団幹部への挨拶のためだ。
ベノアを離れれば、しばらくはここに戻ってくることはない。
挨拶ができるのは、いまだけだった。