第千八百七話 マリア=スコール(三)
「のう、マリアよ」
アマラがこちらに背を向けたまま話しかけてきたのは、セツナとレムが部屋から出ていくのを見送ってたっぷり数分ほどの時間が経過してからのことだった。
セツナとレムとの別れは、少しばかり寂しさを覚えるものだったが、想像していたよりはずっと軽微だ。もっと深く悲しむものかと想ったが、そうはならなかったのは、アマラがいてくれたおかげかもしれない。彼女がいるだけで場が明るくなり、別れを惜しむのも馬鹿らしくなる。
「ん?」
「なぜ、黙っておったのじゃ」
アマラは、背を向けたまま、詰るようにいってくる。
マリアは、彼女の発した言葉の意味を理解しながらも、問い返した。
「なにがだい」
「ぬしのその体」
アマラの一言が耳に突き刺さる。いや、耳だけではない。胸に刺さり、心を射抜く。痛みがある。アマラはそれを理解した上でいってきたに違いない。いわなければならないことはいうのが、アマラだ。ただ愛らしいだけの精霊ではない。聞きたくない言葉も、いわれたくない言葉も平然と突きつけてくる。それがマリアがアマラを必要不可欠に想う理由だ。甘えたいだけならば、アマラでなくともいいのだ。
「ひとはいつか死ぬ。そんな当たり前のことをいったところで、あのひとを引き止めてしまうだけだよ。あたしは、そんな女になりたくはないのさ」
「そういうことではなかろうに」
「そうだね」
マリアは、アマラのいいたいことが理解できるから、ただ静かに頷いた。
仮設研究室内は、冷ややかなまでの静寂に満ちている。つい数分前までの喧騒など、一瞬にして過去のものとなってしまっていた。もはや思い出すのも困難になるくらいの沈黙。アマラが黙り込むのは、研究中以外ではめずらしいことだった。なにかと喋り倒しているのが彼女で、そんな彼女に癒やされるのがマリアだった。
研究用の資材や器具、書類が置かれた机に、医薬品が並ぶ棚。書棚もあるし、ベノアガルド各地から採取した薬草の保管庫もある。それらは、彼女の研究のため、仮設研究室の立ち上げとともに大医術院の医師たちが協力して提供してくれたものだ。マリアの研究は、ベノアの医療の発展に大いに貢献している。マリアの研究が進むことは、ベノアの医療機関にとって喜ぶべきことであり、彼女に協力を惜しまないのもそのためだ。
そして、マリアの研究は、アマラという不可思議な存在によって成り立っている。
「いつか、いっただろう」
マリアは、未だ扉を見続けるアマラの小さな背中を見遣りながら、口を開いた。アマラがセツナとレムを気に入っているのは知っている。しかし、彼女が拘っているのは、自分が彼らを気に入ったからではない。マリアのことを気にしている。マリアのことを第一に考えてくれている。その優しさが痛いほどわかるから、嬉しい反面、ひどく切なくなるのだ。
彼女の優しさのすべてを受け入れることは、できない。
それをすれば、マリアはマリアでいられなくなる。きっと。
「あのひとは、この上なく優しいのさ。他人の痛みがわかるっていうのかな。いつだって自分のことより他人のことでさ。きっと、自分のことなんてどうだっていいんだろうね。困っているひとがいると見過ごせないんだ。それがたとえ自分の身に危険が及ぶことだとしても、自分に不利益をもたらすことであったとしても、放っておけない」
セツナ=カミヤという少年のことを思い出す。
彼のことを初めて知ったのは、いつだったか。
ガンディアの“うつけ”ことレオンガンドが初陣を大勝利で飾ったバルサー要塞を巡る戦いの後だったはずだ。大勝利の報せとともに王都ガンディオンに凱旋したレオンガンドは、セツナ=カミヤなる少年を勝利の立役者とし、大々的に喧伝した。若き武装召喚師は、ガンディアに光明をもたらしたものとして王都市民に迎え入れられたが、そのとき、マリアもセツナの存在を初めて認知したのだ。
そのときは、レオンガンドがガンディアの軍事力が優れているということを世間に知らしめるために作り上げた逸話だとばかり想っていたのだが、実際は、そうではなかった。マリアだけではない。そのときセツナの名を知っただれもが、それから数年に渡ってガンディアを躍進させ続ける英雄の出現だと想像することなどできなかった。
ログナー、ザルワーンにおけるセツナの活躍は、王都市民のみならず、ガンディア国民を大いに興奮させた。どこの馬の骨とも知れなかった少年の、まるで絵物語のような快進撃。彼が黒き矛を振るえば敵は倒れ、彼が敵陣に突貫すれば敵軍は為す術もなく壊滅する――そんな冗談みたいな話が本当のこととして王都に伝わってきたのだから、だれもが興奮するのも無理のない話だった。
そして、暗殺未遂事件が起きた。
それからだ。
それから、マリアは彼の配下になった。マリアは、セツナ=カミヤという少年の傷だらけの肉体に触れ、心に触れ、いつしか、惚れてしまっていた。いつの間にか、だ。なにがあったというわけではない。なにもなかった、といったほうがいいのだろう。
「たとえばいまさっき、あたしが本当のことをいえば、きっとあのひとはここに残ろうとしたと想う。帝国との約束を反故にしてでもここに残り、あたしのためになにかできることはないかって奔走したんだと想う」
「それではだめなのか?」
「駄目だよ。それじゃあ、あたしが馬鹿な女じゃないか」
アマラの純粋な疑問に、彼女は即答した。
馬鹿な女になるのも悪くはないかもしれない。ただの女になって、彼の肩により掛かる人生も、悪くはなかったのではないか。そうすればきっと、多くの苦悩から解放される。そうすればきっと、辛い現実から目を背けることができる。安らぎを得ることができる。
でも、駄目だ。
それでは駄目なのだ。
そこに甘えては、マリア=スコールは死んでしまう。生きていても、死んでいるのと同じだ。
「あたしは、あのひとの力になりたいんであって、あのひとの足を引っ張りたいわけじゃないんだ」
「なんでそう考えるのじゃ」
アマラの疑問は、純粋なものだ。純粋に不思議に想っているからこその言葉は、マリアの胸に響く。
「セツナがそのように捉えるとは想えぬぞ。あのものの優しさはうちが保証する」
「はは。あたしより付き合いの浅いあんたに保証されるってどうなんだい」
「むむ……うちを信用せぬのか!」
「信用してるさ。あんたのひとを見る目は確かだよ」
マリアは、憤慨するアマラを見つめながら、微笑んだ。アマラの人を見る目というのは、ひと目で相手の本質を見抜く力があると想えるほどのものだ。故に彼女が信用し、受け入れた人間というのは、マリアも素直に信用したし、信頼してきている。そしてそれが間違いだった試しがない。アマラの見る目というのは、それほどまでに優れている。
「確かにあのひとは、そんなふうには考えないだろうさ。単純にあたしのことを心配するだけだろうね。損得勘定とか一切関係なしにさ」
「じゃったら」
「だからだよ」
マリアは、頭を振った。だからこそだ。だからこそ、いえない。いうわけにはいかない。いえば、彼を引き止めてしまう。たった一言。その一言が彼をこの場に縛り付ける鎖となる。それでは、いけない。それは彼女の望むところではない。彼女の望みは、もっと別のところにある。
「そうやって縛り付けてしまうから、嫌なのさ」
「むう……」
「あのひとはね、希望なんだよ」
マリアは、アマラの目をじっと見つめながら、いった。大きな瞳には、マリアに対してぶつけたい気持ちがいっぱいに詰まっている。その思い遣りが彼女の彼女たる所以なのだろう。愛を感じる。でも、だからといって、アマラの想う通りにはできないのだ。
「あたしにとっての。皆にとっての」
皆とは、セツナの周囲にいたひとたちのことだ。いまやばらばらになってしまったが、彼の元に集まったひとたちは皆、セツナに希望を見ていたはずだ。その形こそそれぞれに異なるものであったとしても、彼に希望を見たということそのものに違いはあるまい。あるものは彼の側にいることに安らぎを見出し、あるものは彼の中に居場所を見出し、あるものは彼のために死ぬことこそ希望であるといった。様々な希望が彼の元に集っていた。
それは、彼に魅力があったからだ。
だれもが彼に魅入られた。
「あのひとなら、なにかやってくれる。そう想えるんだ。そう信じられるんだ」
セツナがこれまでに成し遂げてきたこと、積み上げてきたことが、彼への信頼に繋がる。なにもなさなかったものが信用されないように、なにかを成し遂げてきたものを信じることになんの疑問を抱くのか。彼は、なにものにも成し遂げられないことを積み重ねてきたのだ。
「この救いようのない世界でも、あのひとならなんとかしてくれるんじゃないか。それが勝手な想いだってことはわかってる。あのひとにそんなつもりなんてないかもしれない。あのひとはただ、この世界で生き抜くことで精一杯かもしれない。ほかの皆と同じように、今日を生きるだけで大変なのかもしれない」
セツナがこの世界でどのような道を歩むのかは、神ならざる彼女にわかるはずもない。なにか目的があるらしいということは彼との会話からわかったものの、それがなんなのかはいまいち理解できていなかった。
「でもあたしは、あのひとに希望を持ってしまった」
マリアは、セツナとの再会の瞬間を思い出して、胸に手を当てた。あの日、あのとき、あの瞬間ほど、マリアは自分が生きていたことに感謝したことはなかった。死んだものだとばかり想っていた。セツナは、ガンディオンで戦っていたのだ。“大破壊”の中心近くにいたのだ。“大破壊”に巻き込まれ、命を落としたとだれもが想った。信じられなくとも、認めざるをえない。たとえ心では生きていると想っていたとしても、頭では、“大破壊”に巻き込まれたと認識してしまう。
彼を知ってしまったものが、彼の中に温もりを見出してしまったものが、彼のいない世界でそれでも生き続けることはこの上なく苦しいことだ。その地獄のような苦痛を乗り越えて生きてきた。研究に没頭したのも、研究中は、少なくとも彼のいない現実を直視せずに済むからだった。
もちろん、白化症を撲滅したいという想いが原動力ではあったが、現実から逃れるという理由があったのもまた、事実なのだ。
現実に絶望し、生を諦めなくて、良かった。
「あのひとになら、希望を委ねてもいいと想ってしまったんだ」
「……むう」
「だから、このことはあたしとあんただけの秘密さ」
マリアは、アマラに向かって笑顔を見せた。
「わかったのじゃ。黙っておるのじゃ」
「アマラ」
「む?」
「ありがと」
「感謝するのはこちらなのじゃ!」
アマラが目一杯元気よくいってきたのは、セツナの真似事であり、マリアは思わず吹き出してしまった。
彼女がいる限り、明るさを失わず生きていけるのではないか。
そう想えた。
少なくとも、この身に巣食う白化症が意識を覆い尽くすまでは、笑っていられるだろう。