第千七百九十四話 帝国の影
ザイオン帝国海軍所有の巨大艦船がベノア島北岸に着岸したという報せが入ったその日の内に、騎士団は早急に対策を練り、行動を起こした。
ただし、すぐに迎撃態勢に入ったわけではない。
まずは情報収集こと優先するべきである、と騎士団は考え、そのための部隊を編成した。
帝国海軍がベノア島に上陸したとして、その目的がなんなのかを知ることが先決であり、目的次第では帝国軍に痛撃を与えられる部隊とするべく、再びセツナに協力要請が行われた。セツナは、騎士団が自分のために動いてくれているということへの感謝もあって、協力することを約束、さっそく調査部隊の一員として、ベノア島北岸へと派遣されることとなった。
調査部隊は、正騎士フロード・ザン=エステバンを隊長として、二名の正騎士、十五名の准騎士、三十名の従騎士がその指揮下に入った。セツナは、レムとともにその外部協力者として帯同することとなる。
フロードが調査部隊長として任命されたのは、もちろん彼のこれまでの実績を踏まえたことだが、その精神性からくる人望の厚さも大いに関係しているに違いない。調査部隊として顔合わせしたとき、セツナは、フロードが准騎士以下の騎士のみならず、同格の正騎士たちからも慕われている光景を目の当たりにしている。
その事実に驚くことはない。元よりロウファ配下の中でも、セツナの案内を任されるほどの騎士なのだ。騎士団幹部であるロウファが、信用してもいない騎士にそこまで任せるとは考えられなかったし、それも並大抵の信頼をおいているわけではないことは、式典後、フロードに声をかけ、親しげに話すロウファの姿を見つけたとき、確信したものだ。
シドをして気難しい男であると評するロウファが、砕けた表情を見せていたのだ。それはつまるところ、それだけロウファがフロードに信を置いているということにほかならない。
しかも、彼を評価しているのはロウファだけではないのだ。シドもベインもルヴェリスも、彼のことを高く評価しているようであり、次期騎士団幹部候補の筆頭という噂さえ流れている。
もっとも、フロード本人は、騎士団幹部に評価されていることを笠に着ないのはもちろんのこと、次期騎士団幹部候補筆頭と噂されていることも一笑に付した。彼にとっては、そのような噂話などとるに足らないものであり、騎士としての本分をまっとうする上で不要なものであるという。
表面上、常に明るく、砕けたところもたぶんにある人物と見られがちなフロードだが、その本質は、騎士団騎士の模範ともいうべきものであり、そんな彼だからこそ騎士団騎士たちの尊敬を集めているのだとセツナは思った。
そして、そんなフロードが自分たちの世話係を自認し、常に気にかけてくれていることが誇らしく、嬉しかった。
フロード・ザン=エステバンを隊長とする調査部隊がベノアを出発したのは一月二十九日の早朝、つまりセツナが帝国軍艦船がベノア島北岸に現れたという話を聞いた翌朝のことであり、騎士団の行動の迅速さがわかるというものだろう。
騎士団としては、ザイオン帝国がベノア島に上陸した目的を早急に探る必要があった。もしザイオン帝国がベノア島の制圧および支配を目論んでいるのであれば、全力を上げてこれを撃退し、ベノアガルドおよびベノア島を護らなければならない。そのためには帝国軍の戦力を把握した上で、騎士団の戦力をベノアガルド北部に結集しなければならず、素早い情報収集がなによりも求められた。
その上、おそらく遠く離れたザイオン帝国領より大海を渡り、ベノア島に辿り着いた帝国の艦船は、セツナの目的であるリョハン行きに利用できるかもしれないのだ。それは、セツナのために協力を惜しまなかった騎士団にとっても願ったり叶ったりのことであり、もし、帝国軍が交渉に応じてくれるというのであれば、セツナのリョハン行きを交渉してくれるという。
交渉に応じず、ベノア島への侵攻を目的とした上陸であれば、帝国軍を撃破し、艦船を奪えばいい、と、騎士団は考えている。こちらが欲しているのは、海を渡る方法であって帝国軍の協力ではないのだ。帝国軍が協力してくれないというのであれば、実力行使にでるという心構えがある。
もちろん、そうならないことが一番なのだが、小国家群をただひたすらに蹴散らしてきた帝国軍がベノアガルドとの交渉に応じてくれるものかと考えると、不安が残るのもまた事実だ。
ベノア島への巨大艦船を擁しての到来は、ザイオン帝国が“大破壊”後の世界においても大勢力を保っているということを明らかにするものだった。大陸をばらばらに引き裂いた“大破壊”は、当然、三大勢力のひとつ、ザイオン帝国の領土も分断したはずであり、小国家群を襲った地殻変動の被害に遭わなかったとは考えにくい。しかし、大型艦船でもって海外に戦力を派遣する余裕があることを考えると、帝国の勢力というのは、それほど衰えていないようだった。
元より帝国領というのは小国家群と同程度かそれ以上だといわれていたのだ。国土を引き裂かれ、ばらばらになったとしても、ベノアガルド、いやこのベノア島以上の勢力を保っていたとしても不思議ではない。そして、その勢力を海外にも伸さんとして派兵したのだとしても、なんら不思議ではなかった。
帝国の目的がなんであれ、いまは現地に赴くほかはない。
セツナはフロードたちとともにベノアガルドより北へ、ただひたすらに馬を走らせた。
“大破壊”によって荒れ果て、不毛な大地と化した風景の中を駆け抜けていく。緑が見当たらないのは冬ということもあるだろうが、たとえ春になったとしても草花咲き乱れる美しい光景が広がっているとは想像できなかった。セツナがベノアガルドの降り立った直後に見たのと同じ、純白の岩塊のようなものが地中からいくつも突き出しており、違和感を放っていた。それら白い岩塊がなんなのか、フロードたちにもわからないという。
「“大破壊”後、各地で見られるようになったものでしてな」
「マリア先生はなんて?」
「先生殿も、そんな話聞いたことがない、と」
白化症、神人化についてはマリクから聞いていたマリアも関知しない事象であるらしい白い岩塊がなにを意味するのか、セツナは、想像を巡らせたものの、答えは出なかった。自然の中の白化症なのではないか、と想ったが、どうやら違うらしい。草木には白化症と同等の症状として、結晶化と呼ばれるものがあるというのだ。
白化症と結晶化。
それらが、“大破壊”後のイルス・ヴァレを蝕んでいるものであり、治療法の存在しないそれらがあるかぎり、この世界は滅亡を免れ得ない、という。
“大破壊”は、イルス・ヴァレを聖皇復活による消滅から守った。が、根本的な解決には至らなかった。この世を救うには、この世界全土を覆う恐ろしい現象を完全に消滅させる以外にはないということだ。そしてそんなことができるのかどうかは、セツナにはわからない。
それが、セツナ自身の目的と繋がっているのかどうかすら、不明だ。
やがて、ベノア島北岸付近に辿り着いたのは、翌日午前中のことだ。
現地で調査を続けていた騎士団の斥候たちと合流し、帝国軍の動向を聞いた。話によれば、帝国軍は巨大艦船を北岸に停泊させると、野営地の設営を始めたという。そして、野営地が完成すると、周辺の調査を開始したとのことだ。
「調査ということは、やはりなにがしかの目的があって上陸したのは間違いないようですな」
「まあ、目的もなく上陸しないわけもないでしょうが……」
「それにしても、本当に大きいのでございますね、帝国の船」
レムがめずらしく驚嘆の声を上げたのは、海に浮かぶ巨大艦船が目と鼻の先といっていいほどの距離にあったからだ。
セツナたちは、北岸に近い丘の上に身を潜めていた。そこからならば、ベノア島に上陸し、北岸に野営地を築いた帝国軍に気づかれ難く、野営地の様子を探ることも、巨大艦船を確認することもできたのだ。
確かに、北岸に停留する艦船は、途方もなく巨大だった。戦艦と呼んでもいいのではないかという巨大さは、要塞がそのまま海に浮かんでいるようだという騎士団斥候の報告の通りだった。海船を見たこともない騎士たちにとっては衝撃的としか言いようのないものだろうし、実際に戦艦など目の当たりにした記憶もないセツナにとっても、驚愕に値する代物だった。
セツナが生まれ育った世界ならば決して驚くべきほどのものではないのかもしれない。しかし、彼の目の前の海に浮かぶ黒く巨大な要塞は、セツナの中の常識を覆すほどの威容を誇り、潮風を浴びながら悠然と佇むその姿には畏怖を禁じ得なかった。
帝国軍所有の艦船であるということは、帆柱に掲げられた旗からも明らかだ。帝国の紋章が刻まれた旗が潮風にはためいていおり、ザイオン帝国のものであるということを大いに主張していた。巨大な戦隊は全体的に黒く塗られ、各所に黄金の装飾が施されている。特に船首の女神像はすべてが黄金でできているようであり、美しく、豪華だった。船体のどこにも砲台は見当たらないが、それもそのはずだろう。この世界には銃砲火器が存在しないようなのだ。帝国の技術力を持ってしても研究開発されないというのは、不思議なものではあるが、なければないで問題はなかった。
艦船は、その途方もなく巨大な一隻のほか、それに比べれば小さい船が二隻、あった。つまり全部で三隻の船団がベノア島を訪れたということだ。
三隻の艦船には何百人、いや何千人もの帝国兵が乗り込んでいたようであり、それら帝国兵が構築した野営地もまた広大なものとなっていた。
「あれだけの人数を運んできたということは、やはり、侵略が目的なのでしょうか」
「どうでしょうね……帝国の考えはまったく読めませんから」
フロードの疑問に、セツナは腕組みをして、考え込んだ。帝国がなにを企み、なにを求めて外洋に繰り出したのか、まったくもって想像がつかない。帝国は、元来、神が己が目的を果たすために成立したといっても過言ではない国だ。そして、それから数百年、野心を抱かず、沈黙を守り続けたのも、神の目的のためだ。聖皇復活による神の在るべき世界への帰還――三大勢力は、ただそのためだけに存在した。聖皇復活が阻止されたいま、神々がどうなったのかは、不明なままだ。
アシュトラのように元の世界への帰還を邪魔された腹いせにこのイルス・ヴァレに混乱を巻き起こしている神もいるかもしれないし、つぎの機会を待ち、潜伏する神もいるだろう。
帝国の神は、どうか。
帝国の神は、目的を果たすために何百年もの沈黙を保ち続けることすら厭わなかったような神だ。一度聖皇復活に失敗したからといって、アシュトラのように自暴自棄になるとは思えない。だが、また帝国の影の支配者として舞い戻ったとも考えにくかった。であれば、帝国軍の艦船がベノア島にまみえるとは思えないからだ。つぎの機会のため、また沈黙を保つのであれば、海外に派兵するとは考えられない。
つまり、帝国軍の現在の行動は、神の意志の反映ではないのではないか、ということだ。もっとも、聖皇復活のつぎの機会を模索するため、帝国の神が兵を動かしている可能性もまた、皆無ではないのだが。
要するに考えるだけ無駄だ、ということではある。
「帝国といえば、ニーウェ様はどうなされておいでなのでしょう?」
不意にレムが予期せぬ名を発してきたので、セツナは彼女の顔を見た。レムがセツナの反応の意味もわからず、小首を傾げる。
「……さあな。生きているのか、死んでいるのかさえわからん」
実際、ニーウェがいま現在どうなっているのか、まったくわかっていなかった。そもそも、同一存在である彼のことを感じ取れたのは、彼が黒き矛の眷属であるエッジオブサーストを手にしていたからであり、エッジオブサーストが黒き矛と合一してからというもの、ニーウェを感じ取ることはできなくなっていた。同一存在だからといって魂が共鳴するとか、そういったことはないようだった。いや、もしかすると、同一存在ではなくなったからこそ、なのかもしれない。
半身に異界を宿したニーウェは、セツナとは完全に同一の存在ではなくなり、決戦を行うべき運命から外れた。故にセツナはニーウェと戦わずに済むこととなり、ニーウェがセツナの敵に回る可能性はなくなった。もっとも、最終戦争において、セツナとニーウェは対峙する可能性がなかったわけではない。帝国の皇子であり、闘爵であった彼が前線に出てくる可能性がないとは言い切れなかったからだ。幸いにもセツナはニーウェと戦場で遭遇せずに済んでいる。もし接触し、交戦することになったのであれば、セツナは、迷いなく彼を殺しただろう。
あのときのセツナは、理不尽な運命への怒りによって自分自身さえ制御できなくなっていた。
「ニーウェと仰られますと、帝国の皇子ですな?」
「ええ。彼とは、ちょっとした縁がありましてね」
「ほう?」
フロードが興味深げな顔をすると、レムが知った風な顔で口を開いた。
「ニーウェ様、御主人様の生き写しのようなお方なのだそうでございます。わたくしは、残念ながら見たことがありませんが」
「残念なのか?」
「はい。御主人様ふたりを侍らせるのは、わりと夢でございましたので」
レムが冗談ともつかないような表情でいってきたので、セツナはげんなりした。彼女がそういう風にいうときは、大体本音が混じっている。
「侍らせるのかよ」
「はい。御主人様のように」
「俺がいつ侍らせたってんだ」
「おふたりとも、静かに」
「あ……」
「騒いでいては、気づかれてしまいますね」
「おまえのせいだろ」
「御主人様の浮気性が悪いのでございます」
「だれがだよ」
セツナは、レムのからかい半分、本気半分の言い様に肩を竦めた。彼女が言いたいことはわからなくはない。セツナにそんなつもりはなくとも、他人の目から見れば、そう受け取られても仕方のないことばかりだ。釈明の予知もない。
「セツナ殿」
「どうしました?」
フロードの声音に変化を感じ取り、セツナは、脳内のくだらない考えを一掃した。
「野営地に動きが」
「気づかれた?」
「いえ、なにやら帝国の兵士たちが集まっているようでして」
「ふむ……」
セツナは、少しばかり考え込むと、フロードたちの側から離れた。怪訝な顔をするフロードたちを尻目に、呪文を唱える。ただ一言、武装召喚、と。その瞬間、セツナの全身から爆発的な光が生じ、右手の内に収斂する。光の帯の中から漆黒の矛が具現し、冷ややかな重量を伴って彼の手の中に実体化する。黒き矛。カオスブリンガー。あるいは、魔王の杖。
再びフロードたちの側に近寄り、身を伏せると、セツナは、飛躍的に向上した視力によって、帝国軍野営地に起きている異変の正体を突き止めることに成功した。
帝国軍野営地内の将兵たちが野営地の出入り口に集まり、艦船から何者かが到着するのを待ちわびているようなのだ。その人物はどうやら野営地が完成するまで艦内で待っていたらしいことがわかる。そして、将兵たちの話し声から、その人物がどう呼ばれているのかも判明する。黒き矛が強化するのは視覚だけではない。聴覚、嗅覚、触覚――ありとあらゆる感覚が強化されるのだ。確認したことはないが、味覚も強化されたりするのかもしれない。
潮風のにおいが急激にきつくなったのも、そのためだ。
「どうやら兵士たちは閣下と呼ばれる人物を待っているようです」
「閣下……ですか」
「帝国で閣下と呼ばれる人物ってご存じです?」
「はて……帝国の内情というのは、あまり伝わってきておりませんからな。皇家の一員についてはよく知られたものですが」
というフロードだったが、彼に尋ねるまでもないことだったということは、すぐにわかった。
件の閣下が、艦船から出てきた小舟に乗って、ベノア島に上陸したからだ。
閣下と呼ばれる人物は、女性だった。
黒髪に赤い瞳の大柄な女性は、セツナの記憶の中のある人物と一致した。
ニーナ・ラアス=エンシエル。