第千七百九十一話 久しき平穏
ベノアでの日々が、ゆっくりと過ぎていく。
ハルベルト(アシュタル)率いるネア・ベノアガルドとの決戦が騎士団側の勝利で終わったことは、ベノアガルドの近隣国にも大きな波紋を広げた。
まず第一にベノアガルドにセツナが滞在しており、騎士団に協力的であるという事実が知れ渡ったことが大きい。黒き矛のセツナの雷名は、大陸小国家郡全土に響き渡っていたのだ。ベノアガルドと同じ島内に存在する国々が震撼するのも無理のない話であり、反応が現れるのも当然といえる。
セツナという強力無比な協力者を得た騎士団の動向に注目が集まると同時に、ベノアガルドの内紛がネア・ベノアガルドの敗戦とハルベルト=ベノアガルドの死亡によって終幕したことは、島内の話題を攫ったという。
ベノアガルドの統治者たる騎士団が今後、セツナを利用して島内の制圧を始めるのではないかと戦々恐々とする国もあれば、ベノアガルドに擦り寄ろうという国もあるそうだ。中でも内乱によって真っ二つに分かれたマルディアは、前王ユグス派と現王ユリウス派の両者が騎士団に協力を求めるべく、使者を寄越してきたという。特にユグス派は、シクラヒムを占拠中のネア・ベノアガルド軍の撃退に力を貸して欲しいといってきており、ネア・ベノアガルドの力を少しでも削いでおきたい騎士団としては、その要請に応えるかどうか前向きに検討中であるというのだ。
ユグスはかつて、セツナの主であったガンディア王レオンガンドを打倒するべく、ジゼルコートに通じていた人物であり、当時王子であったユリウスの反乱によって王座から退いた人物だ。セツナとしてはユグスよりもユリウスに勝って欲しいという願望があるものの、ベノアガルドの方針についてとやかくいえる立場ではなく、成り行きを見守るしかなかった。
もっとも、本来ならば部外者たるセツナがそうやって内部事情に精通し、成り行きを見守ることなどできるわけもなく、ルヴェリスが食事の際にぽろっと情報を漏らすのは、なんらかの意図を感じずにはいられない。
セツナは、騎士団の協力者であって、騎士団幹部でもなければ、騎士団騎士でもない。
名誉騎士として表彰され、名誉騎士の称号を持つとはいえ、騎士団内での発言権は皆無だった。
だからといって冷遇されている、というようなことはまったくない。むしろ、厚遇も厚遇というべきであり、セツナは生活に困らないくらいの金額を騎士団から支給された上、ルヴェリスの屋敷に滞在することも許されていた。その上、騎士団幹部たるルヴェリスから、国の極秘情報を漏らされたり、意見を求められたりしている。
それもこれも、ルヴェリスを始めとする騎士団幹部がセツナを味方と認識し、内部事情を明らかにしても問題ないと踏んでいるからなのだろうが。
「それにしたって、もう少しこう……なんといいますか」
「隠したほうがいいって?」
「はい……」
その日の朝も、ルヴェリスと食卓を囲んだ際、彼はセツナに向かってベノアガルドの政治について語り、今後の行動方針についての意見を求めてきたのだ。今朝の話題は、ベノアにマルディアの使節団が訪問するかもしれないということであり、その場合、セツナにも会見に同席して欲しいという要請だった。
「でも、今回の騎士団直々の要請だもの。隠す必要ないじゃない?」
「正式なものじゃないですよね?」
「まあね。でも、じきに団長閣下御自ら、セツナくんに要請するでしょうよ」
「オズフェルトさんみずから、ですか」
「そりゃあそうよ。国の一大事だもの」
「だったら、正式な手続きを踏むまで待てばいいんじゃ」
「ま、それもそうなんだけどね。セツナくんも、気になっていたことみたいだし」
「そりゃあ……まあ」
セツナが言葉を濁さざるを得なかったのは、マルディアのことに関心がないといえば嘘になるからだ。そうしてどう切り出すべきか考えていると、隣の席のレムがにこやかに口を開いた。
「御主人様にとって、ユノ様の故郷であるマルディアは大切な国でございますから」
「あら、セツナくんってば、マルディアの姫様にまで手を出していたの?」
ルヴェリスが驚嘆し、レムがあっさりと肯定する。
「そうなのでございます」
「おい、勘違いさせるようなことをいうなっての」
「なにが勘違いなのでございます?」
レムは、セツナの言動こそ理解できないとでもいうようにきょとんとした。セツナには、その反応のほうが信じられない。
「ユノ様が御主人様に心底惚れられているのは事実でございます。わたくしが間違えるはずがございませぬ」
「や、でも、それはだな……」
レムのいうことももっともであり、反論のしようもなく、彼はしどろもどろにならざるを得なかった。ユノ。ユノ・レーウェ=マルディアのことだ。マルディアの王女であり、マルディア救援のためにガンディアを訪れ、ガンディアを味方につけるため、なんとしてでもセツナを落とそうとした少女。無論、セツナは彼女の幼い色仕掛けに落とされることはなかったが、そんな彼女の健気なまでの覚悟に心を打たれ、マルディア救援に賛成したことはいまも覚えている。それもジゼルコートの企みだったわけだが、ユノの純粋な決意に嘘はなかったし、彼女は真実を知ったあとも、ガンディアに協力してくれていた。その上、マルディアが彼女の双子の兄ユリウスによって支配されると、彼女はガンディアへの従属の証として、人質として、ガンディアを訪れ、セツナ預かりとなった。
そんなユノがセツナを慕ってくれているのは、事実だ。
セツナは、他人の好意に決して鈍感ではない。ユノが自分のことを熱烈に好いてくれていることは知っていたし、そういう気持ちに感謝してもいた。だからこそ彼女が身命を賭して救おうとしたマルディアのことがいまでも気がかりだったし、“大破壊”後、ふたつに分裂したという話を聞いたときは、驚いたものだ。
だが、よくよく考えてみれば、さもありなんという話ではある。
ユグス=マルディアは、ユリウスの反乱によって王座を退いたとはいえ、自分が間違ったことをしていたとは毛ほども考えていなかったようだし、レオンガンドを裏切ったことについては反省さえしていなかったようなのだ。反省しているとすれば、ジゼルコートの敗北を見抜けなかったことであり、時勢を読めなかったことくらいだという。そんな男が“大破壊”後の混乱に好機を見出すのは、無理からぬことだったのかもしれない。
ユリウス派がユグス派の台頭及びマルディアの分裂を許したのも、“大破壊”後の混乱がいかに凄まじいものであったかを考えれば致し方のないことであり、分裂程度で済んだだけましだろうというのが騎士団幹部たちの見方だった。混乱に乗じ、ユグス派の人間に暗殺されていたとしてもおかしくはなく、生き延び、辛くも国を保つことができたのは不幸中の幸いとのことだ。
そしてユグス派がベノアガルドに接触を持ったいま、ユリウス派としては、手をこまねいている場合ではないと判断を下したのだろう。なんとしても騎士団との協力関係を結び、マルディアを安定させようというのだ。
セツナとしては無論、ユリウス派のほうに情が湧く。レオンガンドを打倒するべくジゼルコートと手を組んでいたユグスと、ユノの双子の兄であり、ガンディアに協力的であり続けたユリウスならば、後者に情が移るのは当然のことだ。それにユリウスは、セツナに懐いてさえいた。
もっとも、そのユリウスは、最終戦争の折、ヴァシュタリア軍の侵攻によってマルディアが蹂躙されたため、ガンディアに落ち延びているのだが。それもあって、ユグス派が台頭した可能性は大いにある。
そんなことを話しながら食事を終えると、部屋に戻り、時間を潰した。
日課の鍛錬は午後からだったし、今日は天候も思わしくなく、散歩するような気にもなれなかった。マルディアの話もある。ルヴェリスがそんな話をしなければ、深く考え込まずに済んだのだろうが、聞いてしまった以上は仕方がなかった。ユノとユリウスがいまも無事に生きていることを祈らざるにはいられない。
こんな世界だ。
“大破壊”を生き延びただけでも喜ぶべきことであり、再び逢える日がきたのであれば、全身が歓びをあらわすほどのことなのかもしれない。
広い室内。
セツナが自堕落に寝台の上に寝転んでいると、レムは手箒を持って室内の掃除を行っていたりする。開け放たれた窓から入り込む風は冷ややかだが、むしろ心地良いとさえ想えた。空は曇っている。雨が降り出しそうな気配もあり、いつまでも窓を開けてはいられないかもしれない。もちろん、そんなことがわからないレムではないのだろうし、その点では心配していない。
自堕落な日々。
仕方のないことだ。
セツナは、リョハンを目指すことにしたものの、方法も手段もないのだ。
リョハンは、ベノア島から海を隔てた彼方に存在するはずだ。元々、北の大地に存在していた都市だ。“大破壊”に伴う大地の大移動がリョハンの位置さえも動かしているだろうが、ベノアから南へ移動したとは考えにくい。ベノアより遥か北、海の彼方に存在するのは間違いないだろう。たとえベノア島の南方に移動していたのだとして、海を渡る手段が必要なことに変わりはない。
渡航手段。
つまり、船が必要だ。
海を渡る船でも、空を飛ぶ船でも、どちらでも構わないが、後者は技術的に存在し得ない。無論、セツナがルウファたちにさせたように、飛行能力を有した召喚武装の使い手たちを集め、船を浮かせるという方法は取れなくはない。が、そんな方法でベノアより遥か彼方に存在するだろうリョハンまで移動できるかというと、確証は持てない。断続的に飛行と休憩を続けるにしても、不安定極まるものだ。その上、飛行能力を有した召喚武装を持つ武装召喚師を揃えるという難関を越えなければならないのだ。よって、召喚武装による飛行船案は彼の中で却下された。
となると、海船となる。
が、小国家群というのは、内陸地だ。川や湖に浮かべるための船こそ存在したが、航海用の船が作られたことはほとんどの国でないだろうとのことだ。小国家群で出回っている航海記録などは、すべて帝国や聖王国が発行している書物であり、海を知らない小国家群のひとびとに航海用の船を用意しろというのは、困難を極める話だった。
それでも、“大破壊”によって海に囲まれた現状に対応するべく、航海用の船の建造に乗り出した国があるのではないか、とオズフェルトたちは考え、ベノア島内に存在する国々に探りを入れてくれている。
セツナは、その調査結果が出るまで待ち続けなければならない。
もし、調査結果が不調に終われば、そのときは別の方法を考えなければならないのだが、それについても騎士団は思案してくれていた。
ベノアガルドが独自に航海船を建造するというのだ。いまから建造を始めればどれくらいかかるのかわかったものではないが、なにもしないよりはずっとましだろうというのが、騎士団幹部たちの出した結論だった。
セツナは、自分たちのためにそこまでしてくれる騎士団に感激し、感謝もしたが、どうお礼すればいいものか、悩みに悩んだ。しかし、オズフェルトたちは、そんなセツナに対して、笑っていうのだ。
『セツナ殿には、ベノアガルドを救っていただいた恩がある。恩を返すのは当然のことです』
彼の一言には、ほかの騎士団幹部たちも同意という表情をしていた。しかし、セツナは疑問に想うのだ。セツナがネア・ベノアガルド軍の撃退に協力したのは、自主的なことではない。騎士団と協力関係を結んだからであり、それ以上でもそれ以下でもなかった。恩返しをされる理由はないはずだ。
『そして、この程度のことで不服を申し立てるものなど、騎士団にもベノアガルド国民の中にもひとりとしていませんよ』
セツナの疑問は、オズフェルトたちには無用のものとして処理された。
騎士団はセツナに恩を感じた。故に恩を返すべきであるという結論に達した、と。
その恩返しとして、航海用の船の建造を始めるというのは途方もないことのように想えたが、そういった騎士団の行動力があればこそ、セツナは、待ち続けることができるのだ。
なんの当てもなくただ日を過ごすより、遥かにましだろう。