第千七百八十九話 ベノアの夜の月と風(前)
風の強い夜だった。
嵐とは行かないまでも、鍛え上げた肉体を持っていなければ立っていることさえ敵わないくらいの強風が、ベノアの夜を包み込んでいた。風害がなくなって久しい。すっかり風の恐ろしさを忘れていたベノアの市民にとっては寝耳に水と言ってもいいような出来事であり、そのせいでせっかくのお祭り気分に酔っていたひとびとはすっかり目を醒ましてしまい、夜中まで盛り上がるつもりだったのが早々に引き上げていった。引き上げざるを得まい。
名誉騎士式典のお祭り騒ぎに乗じて市内各所に出店されていた露天商や屋台が、業務を続けることも困難なほどの大風だったのだ。ベノアに集まっていた国民たちは、残念に思う気持ちがありながらも、風害の恐ろしさを思い出して、それぞれ宿に戻っていった。
騎士団も風害の夜ばかりは、哨戒任務を早々に切り上げさせることにしていたため、今夜は、夜を徹した巡回は行われないだろう。お祭り騒ぎの夜。こういうときこそ警備を厳重にしなければならないのだが、これほどの強風が逆巻いているとなると話は別だ。
賊さえ犯罪を諦めるしかないほどの風の夜。
上天には星空がある。
強風が雲を強引に押し流し、星空を維持していたのだ。
月が大きかった。
大陸暦五百六年一月十五日真夜中。
もうそろそろ十六日に変わる頃合いかもしれない。
懐中時計を確認する気にもなれず、彼は、月明かりに照らされた廃墟をひとり彷徨っていた。
ベノア城跡地。騎士団本部跡地ともいう。廃墟と化してからすでに十日が経過し、瓦礫や残骸の撤去作業はかなり進んでいた。壊滅に巻き込まれ、命を落としたものたちの亡骸もすべて回収され、弔ったあと、丁重に葬られている。何十人もの非戦闘員、戦闘員が死亡したのは、それだけ爆発の威力が凄まじく、規模が大きかったからだ。ベノア城を完膚なきまでに破壊し尽くすほどの爆発。爆発したのはシヴュラの死体が真躯へと変容したものであり、たとえオズフェルトが手を出さずとも自動的に爆発し、被害を撒き散らしたことは想像に難くない。
シヴュラの亡骸をベノアに送った手前、彼は責任を感じずにはいられなかった。ストラ要塞に葬っていれば、少なくともベノア城がこのような状態になることは防げただろう。もっとも、その場合は、ストラ要塞がシヴュラの爆発に巻き込まれ、消し飛んだのだろうが。
いずれにせよ、大規模な被害を防ぐことは不可能だった、ということだ。シヴュラの死体を消滅させたのであればまだしも、予め未来を知ることなどできるわけもない彼らに、かつての同胞の亡骸を損壊し、消滅させるような行動に出る道理はない。
騎士団騎士や市民の手によって数多くの瓦礫が撤去された廃墟は、深く大きな破壊跡の残る地として存在していた。月明かりが照らすのは、そのような無惨な大地であり、人っ子一人いない寂しい景色だった。吹き抜ける強風が砂を巻き上げ、小石を飛ばす。
王城としてよりも騎士団本部としての印象のほうが強いのは、シド自身がベノア王家とそれほど深く関わっていたわけではなかったからだろう。革命後、ある目的を果たすために騎士団に入った彼にとっては、ベノア城はやはり、仇敵の住処であり、敵対組織である騎士団の本拠地としての印象が強くならざるをえない。それがあるときを境に彼にとって代えがたい拠点となるのだから、人間、どうなるかわかったものではない。
人生など思うままにならないものだ。
彼はふと、そんなことを考える。
生まれてこの方、なにひとつ、上手くいった試しがなかった。
ルーファウス家の次男としての生涯は途中で大いなる挫折を味わうことになったし、復讐者としての道も頓挫するほかなかった。そして新たな人生目標となった救済の道も、いまや混迷の中にある。
“大破壊”以降、世は混沌の暗闇に包まれてしまった。
騎士団の、ベノアガルドの将来さえも、深い暗黒の中をたゆたい、光ある出口が見いだせないまま、さまよい続けている。
まるでいまの彼のように。
「こんな夜にお散歩とは、副団長様は危機管理がなっていませんな」
左から投げかけられてきた皮肉な言葉に、彼は目を細め、つぎに笑みを浮かべた。振り向くと、月明かりに照らされた巨躯があった。その北方人らしからぬ赤銅色の肌は、青ざめた月光の中でも自己主張が激しく、彼が彼であることを止められないのと同じようだった。
ベイン・ベルバイル・ザン=ラナコート。
彼が己の目的のために同胞に迎えたひとり。いまも彼の腹心の如く振る舞うその男は、いまや騎士団になくてはならない人物だった。
「それは卿も同じだろう」
「わたくしは副団長様の身辺警護を自認しておりますのでね」
「卿に警護を頼むくらいなら頼まないほうがましだと想うがな」
嫌味を込めて言い放ったのは、無論、彼ではない。
ベインとは真逆の方向に姿を表したのは、金髪碧眼の貴公子然とした男だ。この二年の心労が表情に現れたその男は、北方人として、貴族の一員として相応しい容姿をしていた。月光が黄金色の頭髪をより美しく彩り、肌の透明感を際立たせる。絵になる男だ。ルヴェリスが彼を題材に絵を描きたいというのもわからないではなかった。
ロウファ・ザン=セイヴァス。
彼が同胞として迎え入れたもうひとりであり、その男もまた、いまもなお彼の腹心であろうと心がけていた。そして、騎士団にとってなくてはならないという点でも、ベインと同じだ。
騎士団幹部はいずれも掛け替えのない人物だ。代わりとなるものがいないのだ。騎士団幹部の下には、数多の正騎士がいる。しかし、正騎士と騎士団幹部の間には、途方もないくらいの隔たりがあるのだ。それはただ実力の差があるというだけではない。騎士団を運営する上で、ベノアガルドの統治者として振る舞う上で重要なものがあるかないか。
騎士団幹部にあって、正騎士にないもの。
それがこの上なく重要なのだが、そのことを知る正騎士はいないだろう。そして、その事実を騎士団幹部が正騎士たちに伝えることは、できない。
騎士団幹部――つまり、騎士団の根幹をなす騎士は、かつて、十三人いた。十三騎士と呼ばれたものたちは皆、救世神ミヴューラに選ばれ、神による洗礼を受けていた。それにより魂は結ばれ、絆が紡がれた。そのことが騎士団幹部の結束を生み、互いに全幅の信頼を寄せられることに繋がった。
実績、実力、人格面だけを考えれば、正騎士の中にも騎士団幹部に相応しいものがいないではない。しかし、救世神ミヴューラの本願を根本とし、理念とする騎士団において、ミヴューラの選定と洗礼ほど重要なものはないのだ。現在の騎士団幹部が、新たな騎士団幹部を選び出したとして、ミヴューラの選定した幹部たちとの間で微妙な齟齬が生じることは目に見えている。齟齬は軋轢を生み、軋轢は瓦解へと繋がる。騎士団が崩壊するようなことがあってはならない。
ただでさえ騎士団が力を失い続けてきたのだ。
これ以上の失態は、ベノアガルドという国にとっての命取りとなりかねない。
「ほう……俺の警護なく、その結果、副団長様が怪我をしても構わない、と、卿はいうのだな?」
「だれがそういった。卿がいなくとも、わたしがシド様を護るといっている」
「卿では不安だが」
「鸚鵡返しか。どうやらわたしにそういわれたのが余程堪えたようだな」
「なんだと」
「やるか?」
「おうよ!」
互いに挑戦的な態度を崩すことのないふたりは、ついにシドの眼前で睨み合い、一触即発の危機といった風な雰囲気さえ出し始めていた。体格差を見ればベインに軍配が上がるのは一目瞭然なのだが、ロウファが負ける未来も見えない。どちらも騎士団幹部、元十三騎士なのだ。実力伯仲といってもいい。それにベインはいささか飲みすぎている。決して酒に弱くはない彼が、酒豪のロウファに打ち勝たんと呷りに呷った挙句、酔い潰れてしまったのだ。酔いからは覚めたようだが、完全に回復しているとは思えなかった。そんな状態でやりあえば、ロウファに分があるのは明白だ。
もっとも、ふたりの喧嘩を口論で押しとどめるのは、どちらかが敗れ、精神的に傷つくことを恐れるからではない。
シドにとってはふたりとも掛け替えのない同胞だからだ。
「まったく、君らはいつまでたっても仲が良くて羨ましい限りだ」
「皮肉かよ」
「皮肉だよ」
シドが笑いもせずに告げると、ベインは面白くもなさそうな顔で舌打ちした。
「ちっ」
「貴様のせいだぞ」
ロウファがベインにいったのは、シドの叱責の責任について、だおる。
「ちげえだろ!」
「違わん」
「違う!」
犬歯をむき出しにして吼えるベインと対抗するロウファのふたりは、決して仲がいいわけではないし、気が合っているわけでもないのだが、呼吸がぴったり合っていることは、シドも認めるところだった。
「……いつまで言い合いを続けるつもりだね」
「死ぬまで、なんていわねえよ」
「当たり前だ。だれが貴様と死ぬまで言い合いを続けなければならんのだ」
「あのなあ……」
ロウファが呆れ果てたように言い放つと、ベインがうんざりしたように肩を竦める。いつものことだ。いつものやり取り。いつもの光景。“大破壊”から二年が経過し、だれもが騎士団幹部としての役割と責務に追われる日々を送る中、それでも変わらないものがある。
それこそ、絆なのだ。
十三騎士に結ばれた魂の絆とは異なる、三人だけの絆。
シドは、そんなふたりのやりとりを眺めながら、ふと、訪ねた。
「それで、どうしてまたふたりがここに?」
「それはこっちが聞きたいねえ。俺は別にあんたを追ってきたわけじゃあないんだぜ?」
「わたしも」
ベインとロウファは素知らぬ顔でありえないことをいってきたが、シドは笑みを浮かべて問い返すのみだ。
「偶然なのか?」
「どうやら」
「そのようですね」
ベインとロウファが視線を交わし、即座に目をそらす。仲がいいのか悪いのか。決して良好とはいえないが、険悪ということもありえない、そんな微妙な関係。だが、確かにふたりの間には、目に見は見えない絆があるのだ。だからこそ、こうして集まれる。
「そんな偶然があるものなのか」
「さあ?」
「現実にそうなったのです。受け入れましょう」
「それは別に構わないが……」
シドは、ロウファの言い様がなんだかおかしくて、夜空を仰いだ。
強風が運ぶ雲が月を隠したかと想うと、すぐさま顔を出した月の光は、妙に眩しく、妙に優しく思えた。