第千七百八十八話 だいじょうぶ
風が窓の外を通り抜ける音が聞こえていた。
真夜中。
一月半ばのことだ。夜の寒さを考え、窓は閉ざされている。その上、彼の寝台は窓から離れた場所に位置しているのだ。それなのにここまで大きく風の音が聞こえているというのは、単純に強風が吹いているからだろう。
ベノアガルド首都ベノアは、北方の都市と呼ばれている。
かつて大陸小国家群が常態として存在していた時代、三大勢力の領土を度外視した場合の最北端がベノアガルドやアルマドールといった国々であり、それら国々を指して北方の諸国と呼ぶことも少なくなかった。レマニフラなどを南方の国と呼ぶのと同じ理由だ。三大勢力は、小国家群を成立させていた弱小国家にとっては、考慮に入れることさえ憚られる存在だった。規模が違うのだ。三大勢力それぞれが小国家群と同程度の国土を持っていた。小国家群のひとびとが三大勢力を話題に出すことさえ忌避するのもわからなくはない。
そうしたひとびとの想いは、ベノアガルドやアルマドールを北国と呼び、それら国々の住人をして北方人と呼ぶことに現れた。レマニフラ人を南方人と呼ぶのも、それと同じことだろう。要するに小国家群のひとびとは、三大勢力のことを思考に入れることを極端に恐れていたのだ。故にベノアガルドの首都ベノアは北の都、などと呼ばれたりした。
北の都ベノアは、風が都と謳われることも少なくなかった。
ベノアを取り巻く環境、地形が都市部に風を呼び込むように出来ていたようであり、ベノアは歴史上、風に纏わる天災と縁深く、その風害はベノアの統治者であるベノアガルド王家、騎士団の頭を悩ませ続けたという。
しかしそれも“大破壊”以前の話であり、“大破壊”以降、ベノアが風害で悩まされるようなことはなくなったらしい。
“大破壊”は、大陸をばらばらにしただけでなく、大規模な地殻変動を伴うものだったようであり、ベノアは、かつて存在していた位置とはまったく異なる場所に移動していた。それによって、風害が起きなくなったのだという。いま吹き荒れている風は、ベノアが長年苦闘を続けてきた風害によるものではないということだ。
本来あるべき場所より移動したのは、なにもベノアだけではない。
ベノア島とベノアガルドが呼称しているこの島に存在するすべての国が、本来在るべきはずだった場所から移動していた。島となって海を漂い、流れ着いた先が現在地なのだ。その現在地がイルズ・ヴァレのどこに当たるのかはまったくの不明であり、海の外の状況もわかっていない。
もしかしたら“大破壊”によって生き残ったのがベノア島だけかもしれないという不安がこの国に生きているひとびとを不安に駆り立て、終末思想が蔓延していったのは、想像に難くない。大陸をでたらめに引き裂き、世界そのものを大きく変容させた“大破壊”は、終末思想に傾倒する人間が現れても不思議ではない出来事だったのだ。
そんな未曾有の天災からおよそ二年が経過しながらも混乱の只中にあったベノアガルドは、ようやく落ち着きを取り戻し始めた。
それもこれもセツナのおかげだと騎士団長オズフェルト・ザン=ウォードを始め、騎士団幹部たちや正騎士たち、騎士団とは関係のないひとびとが口を揃えて、いう。ベノア市民、ベノアガルド国民がセツナをそのように賞賛するのは、すべて、騎士団がそのように発表し、大々的に喧伝したからにほかならない。セツナの戦いを目の当たりにしたのは、騎士団騎士くらいであり、多くの一般市民はセツナがベノアガルドの存亡をかけた戦いに挑んだことを知る由もないのだ。そして、それでいいと想っていた。
他人の評価など、どうでもいいことだ。
だれがどう思おうと知ったことではない。
セツナはセツナの、自分の戦いをしているだけに過ぎない。
その自分の戦いの場所がたまたまベノアガルドにあっただけのことであり、なければないでこの場に留まらずに流離っただけのことだ。
(よくいう……)
彼は、妙に冴えた目で闇の彼方に浮かぶ天井を見遣りながら、目を細めた。夜の闇が圧倒的な世界で、窓から入り込む月の光だけが光源となって暗黒を切り裂いている。セツナの寝室。だが、寝息を立てているものがいる。レムだ。彼女は、ここのところ、セツナの寝床に潜り込んでくることが多くなった。従者として、下僕としては不合格としか言いようのない彼女の行動だが、彼はなにもいわなかった。そもそもレムが従僕として振る舞っているのは、彼女の勝手なのだ。セツナはレムに下僕になれといったことはない。彼女が望むまま行動すればいい。そう、考えている。
彼女がなぜ、セツナの寝床に潜り込んでくるのか、理由は想像するしかないが、おそらくは二年間の孤独が原因なのではないだろうか。二年間、セツナは彼女を放置していた。連絡を取ることもできなければ、側にいてやることもできなかったのだから仕方がないのだが、仕方がないといって済む問題ではない。レムは眠り続けながら、ずっと寂しい想いをしていたのではないか。
そう想ってしまうから、レムが隣で寝息を立てているということに安堵する。安心して眠れることが人間にとってどれだけ喜ばしいことか、セツナにもわかるからだ。
目が冴えている理由は、なんとなくわかっていた。
ルヴェリスとシャノアのことを見届けたからに違いなかった。
ふたりの問題だとルヴェリスはいった。だが、彼は騎士団幹部であり、彼の命に関わるかも問題だった。万が一のことがあってはならない。セツナは、彼がなんといおうと介入しようと想っていた。ルヴェリスを死なせる訳にはいかない。どんな理由があっても、彼がそれを望んでいたのだとしても、殺させるわけにはいかなかった。
もっとも、セツナが覚悟したような事態にはならなかった。
シャノアは、ルヴェリスを殺そうとして、殺せなかった。本当に殺すつもりだったのか、ただ、感情の昂ぶりを抑えきれなかっただけなのか、無関係な他人に過ぎないセツナには、想像することしかできない。
無関係な他人。
されど、セツナは、ふたりの幸せを願っていた。
ルヴェリスとシャノア。
互いに互いを思い遣り、慈しみ合っていたふたり。そのふたりがなぜこのような目に遭わなければならないのか。なぜ、運命はふたりに対してこうまで厳しくするのか。ふたりがなにをしたというのか。ただ愛し合っていただけではないか。
行き場のない怒りを処理する方法も思いつかないまま、ルヴェリスに促され、寝室に戻った。それから二時間ほど、レムと話し合ううち、真夜中になったのだ。レムは眠り、セツナは眠れなかった。眠れないまま、時間ばかりが過ぎていった。弱かった風の勢いが徐々に増していく音を聞きながら、胸の奥の深いところで渦巻く感情を処理しきれないまま、考え込む。すると、寝息ではなく、身動ぎする音が聞こえた。
「眠れないのでございますか?」
「起きたのか」
「はい。わたくし、眠る必要がございませんもので、これくらい朝飯前なのでございます」
レムがにこりともせずにいってくる。寝ぼけ眼ではないところを見ると、彼女の発言は真実なのかもしれない。
「確かに朝飯には早いな」
「茶化さないでくださいまし」
「おまえがいうことかよ」
セツナが噴き出すと、レムが至極真面目な顔をしてきた。
「御主人様」
「……わかったよ」
セツナは、レムの反応の鋭さに肩を竦め、なにもかも諦めるようにして天井を仰いだ。
「眠れねえっての」
「ルヴェリス様とシャノア様のこと、でございますね?」
「ああ」
うなずき、肯定する。つい数時間前に見た光景と、何年も前に見た光景が一致しないことがただひたすらに辛かった。
「俺にとっては恩人――っていったらちょっと違うけど、似たようなものだからな。監視していたとはいえ、あのふたりが俺とラグナの面倒を見てくれていた事実に変わりはない」
ベノア拘留時のことだ。三年近くも前のことになる。ルヴェリスとシャノアが面倒を見てくれたからこそ、セツナもラグナも健康を維持し続けることができたのは間違いなかった。ほかの騎士が監視役であったとしても最低限の保証はされただろうが、あそこまでの高待遇ではなかったのは想像するまでもない。
「なんであのふたりが……」
「考えても仕方のないことでございます」
「冷たいやつだな」
「冷たいもなにも、事実でございましょう?」
レムがセツナの顔を覗き込んでくる。黒かった瞳は、いつからかセツナと同じ血のような紅に染まっている。その瞳にはきっとセツナだけが映り込んでいるのだろう。
「御主人様が考えたところで、なにが解決できるのでございます? いますぐシャノア様を元通りにしてさしあげることができるのです?」
「……できねえだろうよ」
セツナは、レムのまなざしから逃れるようにして、目を逸らした。彼女のいうことは正論以外のなにものでもない。どれだけ考えても、どれだけ心配しても、解決策を用意できないのであれば、それは無駄なことだ。仕方のないことだ。
セツナには、絶大な力を持つ召喚武装がある。黒き矛。カオスブリンガーと名付けたそれは、絶大な攻撃力を誇る召喚武装であり、その比類なき破壊力は他の追随を許さず、神にさえ傷をつけることができた。だがそれは、万能の力でもなんでもない。ただ破壊をもたらす力でしかないのだ。他者を、対象を破壊することにおいては他を圧倒する黒き矛も、傷や心を癒やすような力を持ち合わせてはいなかった。眷属の中には生命を司るものもある。マスクオブディスペアは、レムに仮初の生命を与え、この世に留め置いている。だが、それは死者を操る力であって、生者に作用するものではない。また、それ以外の眷属の力で持ってしても、ひとの精神――魂の領域に踏み込み、治療を施すことなどできはしなかった。
黒き矛とその眷属は、破壊においては圧倒的な力と存在感を発揮するが、それ以外のことには無頓着とさえいってよかった。
「だからってさ」
「御主人様が仰りたいこともわからなくはございませぬ。御主人様は、困ったひとを見過ごせない方。ルヴェリス様の助けとなりたいのでしょうが……」
「わかってるよ。俺には、どうすることもできないことがあるってことくらい、知っているさ」
それでも考えてしまうのは、悪いことなのだろうか。
あのふたりが再び笑い合い、将来を語り合えるときが来ることを祈ってはいけないことなのか。
もちろん、レムがそういうことを禁じたわけではないことは、理解している。彼女は彼女なりにセツナを気遣っただけのことだ。セツナがシャノアのことで思い悩み、今後に支障がでないようにと考えてくれただけのことなのだ。
そう思い至ったとき、セツナはレムを横目に見た。隣で顔を俯ける少女は、セツナの反応を受けて自責の念にかられているというような様子であり、彼は無意識に彼女を抱きしめていた。
「ありがとう」
「え、あの、御主人様……?」
「俺はだいじょうぶだよ」
「は、はい……」
「だいじょうぶ」
なにがだいじょうぶなのか、などと野暮なことはいわなかった。
いったところで詮無きことだ。
自分でもなにをいっているのか、理解さえしていないのだから。