第千七百七十八話 名誉騎士(二)
名誉騎士。
名誉騎士とは、ベノアガルドに多大なる貢献を為したものに対して、騎士団が発行する名誉の称号であり、騎士団発足以来、たった五名しか授与されていない称号である、と三年前に編纂された騎士団史は語る。
騎士団を創設したイストレル=サールン、改革を為し、善政を敷いた国王コーズウェル・レイ=ベノアガルド、一代で莫大な富を築き、私財を国に投資した大富豪バルクレイ=フォートルー、騎士団剣術の祖“剣聖”ミルドレア=アルシュ、騎士団を率い、大繁殖を起こした皇魔を一掃した騎士王エルベルド・レイ=ベノアガルドの五名のみが、騎士団史に残る名誉騎士だ。
「そこに御主人様の名前が並ぶのでございますね」
セツナが寝台に寝転がりながら書物を開いていると、レムが横から覗き込みながら嬉しそうにいってきた。フィンライト邸のセツナに割り当てられた部屋だ。レムは隣の部屋が充てがわれているのだが、下僕として、という理由から彼の部屋にいた。
「そうらしい。でも、変だよな」
「なにがでございます?」
「なんでフェイルリング閣下の名前がないんだ?」
「それは……わたくしにはわかりかねます」
「だよなあ」
もちろん、レムに回答を期待したわけではない。
名誉騎士が、騎士団所属のものにも与えられることは、騎士団創設者や騎士団剣術の祖が名を連ねていることからもわかっている。フェイルリングは、ベノアガルドを政治腐敗から解き放つべく革命を起こし、国と民を窮地から救った人物といっても過言ではない。
無論、革命の方法に問題がなかったとはいわない。夥しい血が流れたというし、王族の一掃のため、罪もない子供も殺されたという話だ。革命直後はフェイルリングを名指しで非難するものもいた。だが、だれかが手を汚さなければ、だえかが先頭に立ち、戦わなければベノアガルドを政治腐敗から救うことはできなかったのもまた事実であり、そのことはフェイルリングに否定的なものも認めるところだという。もちろん、腐敗の恩恵を受けていたものたちは決して認めようとはしないだろうが。
それほどの人物でありながら、フェイルリングが名誉騎士の称号を授与されたという話は載っていなかった。騎士団発行の書籍であり、発行年月日を見ても、革命以降のものであることがわかる。それなのに記載されていないということは、フェイルリングが名誉騎士になっていないということにほかならないだろう。
フェイルリングほどのものがなぜ、という疑問とともに、フェイルリングほどの人間だからこそなのではないか、という考えも浮かぶ。
セツナの知る限り、フェイルリングは、無私のひとだ。
言動の端々に至るまで私心がない。滅私奉公とはまさにこのことで、彼の言葉、行動に至るまで、すべて自分以外のだれかのためだった。利他的なのだ。そしてそれは革命以前と以降でも変わらないという。
王家を打倒し、革命を成したものたちは、ベノアガルドの主権を握った。支配者となることだって可能だったし、それを望む声も少なくなかった。国民の中からさえ、そのような声を上げるものがいたそうだ。腐敗しきった王家を打倒した騎士団ならば正義の名の下に善政を敷いてくれるものと信じたのだ。しかし、悪を討ったものが必ずしも善心を持ち続けるとは限らない。王家でさえそうだ。騎士団史に名を残す国王がふたりもいる。つまり、歴史上、ベノアガルド王家の中にも善政を敷いたものがいたわけであり、悪徳と邪心によって政治腐敗を招き、国を蝕むようになっていたのは、最後の王家に至るまでの数世代前からであるという。そのように、どれだけ善を成したものであっても、時が立てば腐り、汚れ、悪の道に堕ちることもありうるという話だ。
フェイルリングが、騎士団がベノアガルドの支配者として君臨することを望まなかったのは、そのような理由もあっただろうが、公式の見解ではない。彼は、革命を民の自立を促すものであるといい、騎士団による支配、統治を望まなかった。国の将来のため、民の安寧のためにこそ起こしたのが革命であり、なればこそ、自分が名誉騎士として表彰されることを拒んだのかもしれない。
そんなことを、想像する。
騎士団史に詳細が記載されているわけでもない以上、妄想で補うしかないのだが、フェイルリングのあの実直かつ公明正大な性格からは、それ以外に考えられそうもなかった。国民や騎士団が名誉騎士に推薦したとしても、フェイルリングならば受けようとはしないだろう。彼は、革命直後、ミヴューラと邂逅を果たし、その意志は世界救済へと向かっていた。自分個人が名誉騎士として表彰されることになんの意味も見出していなかったはずだ。騎士団の評価そのものが高まり、騎士団の求心力が強まることこそ考慮していただろう。
セツナは、違う。
フェイルリングではないし、彼の真似をする必要もない。別段、表彰されたいわけではなかったが、セツナを名誉騎士にと推挙してくれたひとたちの気持ちを蔑ろにしたいわけでもない。素直に受け取るつもりだった。故にフィンライト家の執事に頼み、名誉騎士の由来や内容を知ることのできる書物を用意してもらったのだ。それが騎士団史の詳細にも及ぶものであり、騎士団による革命についても詳しく言及されているものだった。
セツナは、革命の概要こそ知っているものの、深くまでは知らない。そのため、この書物に記載された革命の前後について興味を持ったが、いまはそこよりも名誉騎士の実態についての記述のほうが重要だった。
名誉騎士は、ルヴェリスがいったような名前だけのものではなかった。
名誉騎士の称号を与えられたものには、ベノアガルドに於ける身分を騎士団が保証し、騎士団本部への自由な出入りも約束される。そのほか、騎士団保有の馬が一頭と、騎士団の紋章が刻印された剣と盾、外套の一式が与えられる。さらに騎士団から年金が支払われるとのことであり、それらを考慮すると、どう考えてもただの名誉称号などではないことが窺い知れる。
ルヴェリスがそういったのは、単純にそれだけではセツナが満足しないかもしれないから、という配慮なのかもしれず、彼はそんなルヴェリスの配慮に苦笑を漏らさざるを得なかった。セツナの以前の立場を考えれば、確かに大したものではないかもしれないが、現状、なにもかも失い、裸一貫といってもいいような身分からすれば、天地がひっくり返るほどのものであるのは言うまでもない。
セツナは、なにもかもを失った。
所属した国、国での役職、地位、金、名誉――なにもかも、失ってしまった。いまや最終戦争と呼ばれる大陸全土を巻き込んだ大戦がガンディアを滅ぼし、“大破壊”が止めを刺した。セツナはその最後を見届けもせず現世から地獄へと逃げた。その結果だ。甘んじて受け入れるしかない。だれが悪いかといえば、自分が悪いというほかない。
もっとも、あのとき、地獄に逃げなければなにができたわけもないのだが。
“大破壊”を見届けた挙句、アズマリアによって強制的に地獄に送り届けられていただろう。アズマリアがそうしないわけもない。彼女は、セツナに黒き矛の使い手としての成長を望んだ。黒き矛が希望になりうると想っていたからだ。
地獄での日々を乗り越え、現世に帰還したセツナを待っていたのは変わり果てた世界だった。かつて手に入れたものすべてを失ってしまっていた。もう二度と取り戻すことはできない。失ったものは失ったままであり、拾い集めることなどできやしない。
再び、繋ぎ合わせられるかどうかさえ、定かではなかった。
いま、セツナとレムがこうして衣食住に困らずに済んでいるのは、騎士団が提供してくれているからだ。
それは、騎士団がセツナとレムに利用価値を見出したからであり、つまるところ、過去からの連続であるということの証明だ。失ったものばかりではない。残っているものもある。
たとえば、ひととひとの繋がりがそれだ。
黒き矛のセツナという名は、いまの世でも知らぬものはいないという。
かつてガンディアの隆盛の象徴として轟いた雷名だ。“大破壊”によってばらばらに引き裂かれたからといって、記憶が失われるわけもない。
黒き矛のセツナとして築き上げてきた評価が消え去ることはなく、シドやルヴェリス、オズフェルトたち騎士団幹部がセツナのことを忘れるわけもなかった。テリウス・ザン=ケイルーンは二年近くもの間、レムを守り続けてくれていた。それもまた、ひとの繋がりだ。テリウスがレムと一方的に交わした約束を忘れなかったが故の出来事なのだ。
失ったものは失ったままだが、なにもかもすべてが喪失したわけではない。
現在は、過去から繋がり、未来へと伸びていく。
過去にあった出来事を消し去ることなどできない。
過去に結んだ想いは、いまもこの世に残り続けているのだ。
その事実をいまさらのように実感しながら、セツナは書物を閉じた。装丁も質素な騎士団史の分厚い本を枕の隣に置き、仰向けに寝転がる。すると、レムが面白がってセツナの上に覆い被さってきた。下僕らしからぬ行動にセツナは少しばかり驚いたが、なにもいわなかった。
レムを二年もの間放置していたことがいまも気になっている。
彼女は、なにもいわない。
寂しかったとも、待っていたとも、恨み言も、なにもいわず、ただ甘えてくる。
言葉よりも態度で示されているのだと想うと、なおさら心に来るのだ。だから、セツナもなにもいわず、彼女のなすがまま、されるがままにする。彼女が望んでいるのであれば髪を撫でてやったり、抱擁してあげる。それがセツナにできる数少ない罪滅ぼしだ。
罪。
セツナの胸に顔を埋めるようにして目を閉じる少女の様子を見つめながら、セツナの脳裏にそんな言葉が過ぎった。罪。
(俺の罪)
過去は、消せない。
かつて限りない数の命を奪ったという事実もまた、消えない過去としてこの世に残り続けている。
それがたとえ国のためであり、命令に従った結果だとしても、この手が奪ってきた命がだれよりも多いのは事実であり、それが罪の意識としてセツナの胸に木霊するのもまた、事実だった。
だからこそ、出来る限り、命を奪いたくないという想いがあるのだ。
ハルベルトを見失った直後のネア・ベノアガルド軍との戦いで神人のみを撃破したのも、そのためだった。ネア・ベノアガルド軍がセツナを攻撃してきたのであれば話は別だが、神人の出現は、彼らの統率をも乱していた。
アシュトラは、神人を制御さえしていなかった。ネア・ベノアガルド軍の将兵がどうなろうと知ったことではなかったのだろう。たとえ神人によって滅ぼされようと、どうでもよかったのだ。むしろ、そのほうが彼にとっては都合が良かったに違いない。
ハルベルトの魂を壊すことが目的だったのだから。
もっとも、その目的は達せられなかった。
ハルベルトの魂は、最後、シドたちに看取られることで救われたはずだ。そう信じたかった。でなければ、悲しすぎる。それでは、ハルベルトにとっても、騎士団にとっても、ベノアガルドにとっても、なんの救いもない。だれひとり得をしない、だれひとり救われない戦い。そんなものにいったいなんの意味があるのか。
不意に、寝息が聞こえ始めた。レムだ。見ると、彼女がめずらしく寝顔を見せていた。レムは、眠る必要がない。彼女が夜眠るのは人間のころの習慣に過ぎず、死神としての彼女は、一切その必要がなかった。体力が続く限り、精神力が続く限り起き続けることができる。そしてその体力、精神力も、休むことで回復しうる。睡眠を取る必要がないのだ。故にこうしてセツナに寝顔を見せることはほとんどなく、そのことが彼にも新鮮な驚きを与えた。
安心しきった寝顔を見ると、あどけない少女のようだった。
レムの外見は、彼女が最初に死神になったころのまま、変わらない。十三歳だったか。そのときのまま、十年以上のときを過ごしている。
それは呪いだ。
彼女の命と時間を縛り付ける呪い。
(呪い……か)
セツナは、ぼんやりと天井を見遣った。魔晶灯はついていない。昼間だ。窓の外から差し込む冬の日差しのおかげで、照明は不要だった。
呪い。
アシュトラは、セツナを呪った、という。
しかし、セツナはいまのところ、アシュトラによる呪いの影響を微塵も感じていなかった。肉体に作用する類の呪いではないのか、気づかない程度のものだったのか、それとも、呪われなかったのか。
三番目はありえないことのように思えた。
相手は神だ。
人間如き、呪い殺せないとは想えない。
ならばセツナが何事もなく生きているのはなぜか。
呪いは遅効性で、いますぐには影響が現れないだけなのかもしれない。
だとすれば――。
(せめて、終わるまでは待ってくれよ)
セツナは、天に祈るような気持ちで願った。
この終わりの見えない戦いが終わるまでは、と。