第千七百七十六話 絆(四)
「なんにせよ、マリア先生が無事で良かったよ」
「御主人様のおっしゃられるとおりにございます!」
「それはこちらの台詞さね」
マリア=スコールが苦笑まじりに返したのは、レムの態度が大袈裟すぎたからだろう。全身を使っていまにも抱きつきそうなほどの勢いだった。もっとも、マリアに邪険に払われることを危惧したレムは、結局彼女に抱きつくのを諦めたようだが。
セツナとレムがマリアとの再会を果たしたのは、騎士団立大医術院本館の応接室だ。
新・騎士団本部での会議により、渡海手段が手に入るまではベノアに滞在することが決まったセツナたちは、その日の内にマリアの元を訪ねた。マリアが戦いに巻き込まれたという話をルヴェリスから聞いて、いてもたってもいられなかったのだ。ルヴェリスからはマリアは無傷であり、なんの心配もいらないと聞いていたが、実際にこの目で確かめるまでは安心できなかった。ルヴェリスを信頼していないわけではない。ただ、マリアが心配だっただけのことだ。たとえ怪我をしても心配させまいと黙っているようなところが、彼女にはある。気丈なひとだ。二年近くもの間、痩せ我慢をし続けてきたのだ。ようやく疲れきった心情を吐露できたのは、セツナ相手だからだったようなのだ。ルヴェリスに対して、負傷したと報告するものかどうか。
実際に無傷な彼女と再会を果たしたことで、セツナはようやく安堵した。大柄な体のどこにも傷は見えなかったし、手当をしている様子もなかった。髪の先から足の爪先に至るまで――とはいかないものの、見えている範囲に傷はない。そして彼女がセツナに対して隠し事をするわけもない。そう、信じている。
「うちのことは心配せんのか?」
と、不貞腐れた顔をしたのは、アマラだ。草花の冠を頭に乗せた童女は、マリアの足元でこちらを見上げていた。セツナはその場にしゃがみ込み、目線の高さを合わせた。
「もちろん、心配していたさ」
「そうでございます!」
「そうかそうか! 心配じゃったか!」
アマラは、手放しで喜んだ。その表情の急変ぶりがいかにも愛らしく、セツナはレムと顔を見合わせて、笑った。アマラは精霊だというが、外見や言動をみる限り、ませた子供としか思えなかった。もちろん、アマラの言葉を疑っているのではない。そう見えてしまう、そう受け取ってしまいがちということだ。
ませた子供とはいえ、小憎たらしさはない。むしろ可憐であり、愛嬌の固まりといって差し支えない。マリアが骨抜きにされている理由もわからなくはなかった。
アマラはその小さな腕を胸の前で組むと、なにやら小難しそうな顔をした。まるで子供が大人の真似をするかのような仕草に、レムも笑顔を絶やさない。
「じゃがのう、うちのことは心配無用なのじゃ。うちを捕まえることはだれにもできんからのう」
「よくいうよ。あたしに捕まってばかりのくせに」
マリアがおかしそうにいうと、アマラは慌てふためいた。図星をつかれたからに違いない。
「そ、それはマリアだからなのじゃ!」
「なんだいその言い訳は」
「マリアには捕まって上げなければならないのじゃー」
「まったく、よくわかんない理屈だねえ」
そんなマリアだが、まんざらでもなさそうな表情だった。目に入れても痛くないとはよくいうものだが、まさにマリアにとってのアマラがそのような存在なのではないか。セツナはふたりの関係の親密さを知るとともに、アマラの存在がマリアの心の支えになっているという事実を認識する。
「ふふ……アマラ様は、マリア様のことが大好きなのでございますね」
「うむ!」
「おやまあ……」
からかい半分のレムの言葉に威勢のいい返事をしたアマラを見て、マリアは感動さえしたようだった。
「可愛いこと、たまにはいうじゃないさ」
「たまにではないのじゃ。いつでも可愛いのじゃ」
「ま、それは認めるよ」
「ならばほめたたえよ」
「あーはいはい、すてきでかわいいアマラさま」
「心が篭っておらぬぞ!」
「あはは」
「笑い事ではないのじゃ!」
地団太を踏んで憤慨するアマラに対し、決して真剣に取り合おうとしないマリア。
そんなふたりのやり取りを眺めながら、セツナは、安堵を覚えずにはいられなかった。
アマラは、マリアにとっての精神安定剤のような役割を果たしているように見えたからだ。無邪気なアマラの存在は、医療に対して真剣かつ苦悩しがちなマリアの心を解きほぐすことに繋がっているに違いない。それでも疲れきったときには、心情を吐露できる相手が必要なのだろうし、セツナも出来る限り協力してあげたいのだが、ここを離れるとなるとそうもいかなくなる。
だからせめて、航海手段が手に入るまでの滞在期間中は、度々マリアの元を訪れ、彼女の力になってやろうと考えていた。
マリアの元を訪れたのは、そういう理由もある。
ネア・ベノアガルドとの最終決戦ともいうべき戦いがストラ要塞のみならず、ベノアをも巻き込んだものだったことをセツナたちが知ったのは、戦後、ストラ要塞からベノアにたどり着いてからのことだ。もちろん、ベノアの様子を知る方法がないわけではなかった。ストラ要塞でベノアからの報告を待てばいいだけのことだ。しかし、ベノアからの報告を待つよりも、ベノアに直接で向いた方が効率的であろうというシドの考えの元、セツナたちは戦後、急速もそこそこにベノアに急いだのだ。
そして、ベノアにたどり着き、ベノア城が廃墟と化したことや、騎士団立大医術院の別館が壊滅したことを知った。廃墟と化した騎士団本部に驚いたのは当然のことだが、医術院別館の壊滅を聞いたときには、いてもたってもいられなくなったのは、セツナにしてみれば当たり前のことだった。
マリアが巻き込まれた可能性を瞬時に想像したし、実際に巻き込まれ、神人に捕獲されたという話を聞けば、すぐにでも無事を確認したくなるのが普通だろう。もちろん、ルヴェリスによって即座に無事であることが明言されていたとはいえ、だ。
マリアが勤務していた大医術院別館は、白化症患者のための療養施設であると同時に、隔離施設といっても過言ではなかった。白化症患者だけを一箇所に集めておくことで管理しやすくするという意味もあったに違いない。無論、マリアにそのような考えはないだろうが、医術院や騎士団としてはそう認識していたとしても不思議ではなかった。
そんな大医術院別館がネア・ベノアガルド軍との戦いで壊滅したのは、別館で療養中だったすべての白化症患者がほぼ同時に神人化したからだ。それもただの神人化ではなく、強度の高いものであるということがわかっている。神人の強度は、その質量の差で一目瞭然だという。強力な個体であればあるほど白化部位が多くなり、全身が白化した神人は、つぎに肥大するというのだ。
別館で療養中だった患者の成れの果てである神人は皆、巨人といってもいいほどに巨大化し、ベノア中枢を蹂躙したという。
そのとき、マリアは、神人化した白化症患者に囚われていたものの、危害を加えられることは一切なかったそうだ。むしろ丁重に護られていたといい、神人たちの意識のどこかに人間のころの記憶があったのではないか、とマリアは語った。もっとも、それはただの推論であり、記憶が残っているからといって、人間としての意識が残っているかどうかはまた別の話だ。神人たちは、ただベノアを蹂躙したというのだ。人間の意識が残っていたのであれば、生まれ育ったベノアを踏み荒らして回ることなど考えにくい。
そして、神人たちは、ベノアの安全を護るため、ルヴェリス・ザン=フィンライトの真躯フルカラーズによって処理された。
マリアは、ただ嘆き悲しんでいた。
当然だろう。
彼女は、白化症患者を治療し、救うために別館を立ち上げ、日夜研究に勤しんでいたのだ。事実、寝る間を惜しむ研究の日々が、彼女に様々な新薬を開発させ、ベノアの医術の進歩に大いに貢献しているという。しかし、どれもこれも白化症患者の治療には効果を発揮せず、痛みを遠ざけることくらいしかできないでいた。それでもマリアは諦めたりしなかったし、必ず治療薬を開発してみせると奮起する毎日だったのだ。
別館の白化症患者たちがそんなマリアを女神の如く敬慕するのは、必然だったのだろう。
無論、マリアは、だれかに賞賛されたり、敬意を持たれたいがために医者をやっているのではなかったし、白化症の研究に勤しんでいるわけではなかった。承認欲求だけでできるような作業量ではないということは、彼女の仕事量を見れば明らかだ。医療への情熱がなければ、不可能だろう。
そんな彼女の想いを受けて作られた別館は、一瞬にして灰燼と帰した。
彼女が助けてみせると息巻いていた患者たちも、神人として、人類の敵として、処理された。そのときのマリアの心情は、察するに余りある。呆然としただろうし、失望もしただろう。絶望したとしても、おかしくはない。
それもこれも、アシュトラのせいであることは明白だ。
アシュトラが、ハルベルトの心を、彼の純粋な魂を、穢し、徹底的に痛めつけるというただそれだけのためにベノアに混乱を引き起こさんとしたに違いなかった。もちろん、ベノアを奪還するというネア・ベノアガルド軍の軍事目的もあるが、そのためにベノア城を吹き飛ばし、さらに亡者を蔓延させるなど、通常取りうる戦術とは思えない。そもそも、ネア・ベノアガルドが欲したのは、無傷のベノアであるはずであり、無傷のベノア城であるはずだ。ベノア城こそ、ベノアガルド王家の象徴であり、ベノアガルド王家を継ぐハルベルトが正当性を主張するのであれば、必ず手に入れなければならなかったものだろう。それを軽々と消し飛ばし、さらにベノア中を混乱のどん底に突き落としたのだ。
それもこれも、アシュトラがハルベルトを絶望させるためだったと考えれば、辻褄があう。
やっとの想いで手に入れたベノアが壊滅状態だったとき、ハルベルトは、ただただ絶望したに違いなかった。
そんなことのために、そんなことだけのために、ベノアを滅ぼそうとする神とは一体何なのか。
人間の尺度では到底計り知れないものがあるからこその神なのだろうし、人間の倫理観や道徳、価値観で見てはならない存在なのは疑いようもなかった。それは、マユラ神でさえそうだったし、ミヴューラ神もまた、そうだった。ミヴューラ神のいう救済も、人間の尺度では到底考えようのないものだ。
セツナは、そんな神々を召喚したという聖皇のことがますますわからなくなったし、混乱の元凶は、結局のところそこに行き着くのだと想った。
神。皇神という。聖皇に召喚された異世界の神々のことであり、神々に引きずられるようにして現出した魔物は、聖皇の魔性――皇魔と名付けられた。神と魔。まるで相反する存在のように考えられる命名だが、実際は、そのような間柄ではないという。皇神と皇魔は、根本的に異なる存在だ。
皇神、つまり神々は、人間やその他の生物と次元を異にするといっても過言ではない存在だ。生き物といっていいのかさえわからない。寿命などはなく、不老不滅。時の流れから隔絶された存在であるといわれている。
一方、皇魔は、姿形こそ人間と異なるものの、生物であることに違いはなかった。リュウディースやリュウフブスのように人間に酷似した姿のものもいる。生態系こそイルズ・ヴァレの生物と大きく乖離しているとはいえ、次元の違いはない。生老病死があるのだ。
皇神と皇魔の違いは、明らかだ。
皇魔は人間と同じ生物であり、皇神は別種の存在だということ。
そんなものを召喚して、聖皇はなにをなさんとしたのか。
そして、聖皇六将はなぜ、聖皇を討ったのか。
聖皇は六将に討たれたがために世界を呪った。
それこそ、再臨の約束であり、世界に滅びを約束するものだった。
聖皇の死によって元の世界に還る手立てを失った皇神たちは、聖皇再臨の約束を信じ、そのときのためだけに身を潜め、人間にもわからぬよう活動していた。ヴァシュタリア共同体の神ヴァシュタラや、ザイオン帝国、神聖ディール王国の神も、聖皇の復活によって、自分たちが在るべき世界に還ることだけを考えていたのだ。聖皇復活の結果、イルス・ヴァレがどうなろうと知ったことではなかったに違いない。
でなければ、あのような大陸全土を巻き込む最終戦争を起こすことなどありえない。
聖皇は、復活とともに世界を滅ぼすと約束した。
世界は、滅びなかった。
“大破壊”という未曾有の天変地異によってばらばらになってしまったとはいえ、ひとは生き残り、世界は存続している。
つまり、聖皇復活は果たされなかったのだ。
アシュトラは、裏切り者といった。
クオンのことだ。
クオンは、至高神ヴァシュタラを裏切り、世界を存続させるため、聖皇復活を阻止したのだ。そのために救世神ミヴューラに協力を要請し、騎士団長フェイルリング・ザン=クリュース以下六名がそれに同行したという話を、セツナはオズフェルトたちから聞いている。クオンは、命をとしてでもこの世界を守ろうとしたのだ。
『君を護る』
セツナの脳裏には、いつもその言葉が過ぎった。
クオンは、おそらく死んだだろう。
彼は、“大破壊”の中心にいたのだ。フェイルリングたちが死んだ以上、クオンが生き延びているとは考えにくい。生き延びていたのであれば、彼は必ず世界のために活動しているはずであり、その名が世界中に轟いているはずだ。
たとえ世界が海によって隔てられ、なにもかもが遠ざかってしまったとしても、きっと。
セツナは、そう信じていた。