第千七百七十三話 絆(一)
ストラ要塞での激戦を乗り越えたセツナたちがベノアガルド首都ベノアに戻ったのは、戦いのあった三日後のことだった。
ストラ要塞での戦いはまさに苦闘といっていいものであり、だれもかれも消耗し尽くすほどのものだったため、しばらくはストラ要塞に留まり、休養するのも悪くはなかったが、どうせ体を休めるのであればベノアに戻ってからのほうがいいのではないか、というシドの勧めもあり、シドとともにベノアに戻ることとなったのだ。
ベインは、ストラ要塞に残り、要塞の騎士たちの指示に当たった。ストラ要塞は、ネア・ベノアガルド軍との度重なる戦闘により半壊状態といってもいいような状況にあり、建て直すことから始めなければならいようだった。
『肉体労働ならお手の物だ』
セツナたちを見送る際、ベインがそんな風にいって笑ったのは忘れられない。騎士団幹部は、武のみならず、ベノアガルドの政治も司る。しかし、そんな政治家としての側面よりも、戦闘要員としての在り方のほうがベインとしては受け入れやすいのだろうし、要塞再建のための肉体労働のほうが政治よりも向いているのだろう。
ベインを含め、ストラ要塞の騎士たちや住人たちに見送られながら、セツナたちはベノアに向かった。
ベノアまでの道中、何事もなかった。皇魔に襲われるようなこともなければ、神化した動物に遭遇することもなく、安堵したものだった。戦いに次ぐ戦いは、セツナをとことん消耗させていたのだ。もう、しばらくは黒き矛を召喚するような場面に遭遇したくなかった。もちろん必要に迫られれば、一も二もなく召喚するが、できればそうしたくはなかった。
そういうこともあり、セツナは、馬車による移動の間、ずっと眠っていた。
ストラ要塞の戦いにおいて、セツナは、数多の神人、偽りのワールドガーディアン、強化型クラウンクラウン、そしてアシュトラ神という連戦を経ている。神人はともかくとして、ワールドガーディアン戦以降、セツナは常に全力だった。気を抜けば、その瞬間に殺されることがわかっている。余裕などあろうはずもない。後のことなど考えず、全力で戦うしかないのだ。その結果、見事撃破し、撃退できたのだから、なんの間違いもなかったということだ。
反動が、疲労となり、眠気となってセツナを襲ったが、戦いのない間くらい眠りこけていようとなんの問題もない。問題があるとすれば、レムに少しばかり心配をかけたことだけだ。レムは、アシュトラが叫んでいた“呪い”がセツナを眠りこけさせているのではないかと訝しんだようだが、セツナにはそうは思えなかった。
『疲れているせいだよ』
セツナの説明に、レムも少しは安心したようだった。
そうして、ベノアに辿り着いた。
セツナたちは、騎士団とベノア市民によって盛大に迎え入れられ、セツナはその歓迎ぶりに飛び起きなければならないほどだった。なぜそこまで歓迎されるのかについては、既にストラ要塞の戦いの結果が伝わっているからだというシドの説明で理解できた。ネア・ベノアガルド軍に大勝し、ネア・ベノアガルドがもう二度と立ち直れないくらいの痛撃を食らわせたという報せは、騎士団のみならず、ベノア市民にとっても喝采を上げるべき出来事だったのだ。
ネア・ベノアガルドの存在は、ベノア市民の不安を大いに煽っていた。ネア・ベノアガルドは、ベノアガルドを腐敗から立ち直らせた騎士団による革命を根本から否定するものだったからであり、ネア・ベノアガルドの主催者がベノアガルド王家唯一の生存者ハルベルト=ベノアガルドであったことも、ベノアのひとびとに暗い影を落としていた。十三騎士としてのハルベルトは、ベノア市民、ベノアガルド国民に広く親しまれていたのだ。それが突如として革命を否定するような行動を取り始めたものだから、ベノアガルド国民は混乱した。裏切られたという気持ちになったものも少なくはなかっただろうし、国が困難に直面しているときにするようなことではない、と叫びたいものもいただろう。
しかも、ネア・ベノアガルドの目的は、ベノアガルド王家の再興であり、ベノアガルド国土の奪還という一方的なものだった。独善といっていい。ベノア市民にとって、ベノアガルド国民の多くにとって到底受け入れがたいものであるということは、ネア・ベノアガルド賛同者が少なかったことからも窺い知れる。
それでも国民がネア・ベノアガルドに対して不安を抱いていたのは、騎士団への不信があったからでもある、とシドはいう。“大破壊”以降、ベノアガルド国民の騎士団への信頼は揺らぎに揺らいでいた。当然だろう。救済を掲げる騎士団だが、“大破壊”を防げず、二次災害とでもいうべき神人災害に対しても後手に回らず得ない状態が続いた。その上、離反に次ぐ離反が騎士団の印象を最悪なものとした。騎士団の人望が地に落ちるのも無理のない話だった。
それが持ち直し始めたのは、サンストレアの問題が片付いたからだ、とも彼はいった。
『セツナ殿のおかげですよ』
というシドだったが、別に自分がいなくともマルカール=タルバーの問題はいずれ片付いただろうとセツナは想っていた。ロウファが定期的にサンストレアを監視していたのだ。超長距離からの監視だ。マルカールは当然、ロウファの視線など感じてさえいなかっただろう。いずれ尻尾を掴めたはずだし、そうとなれば、ロウファがマルカールを追い詰め、倒したはずだ。ロウファがマルカールに負けるわけがなかった。マルカールは他の神人に比べると強かったが、真躯ほどではない。ロウファのヘブンズアイならば一方的に攻撃し、倒しきれるだろう。
そんなことをいうと、シドは微笑んだものだ。
『謙遜は美徳ですが、他人の評価は素直に受け入れたほうがいいですよ』
セツナは、シドの忠告に感謝した。
ベノア市民の歓迎ぶりに浮かれていたセツナたちだったが、騎士団騎士たちに先導され、辿り着いた先に広がっていた衝撃的な光景には絶句する他なかった。
「これは……いったい……」
「なにがあったのでございましょう?」
「ベノアでも戦闘があったとは聞いていたが……これは……」
馬車を降りたセツナたちの目の前に広がっているのは、一面の廃墟だった。一行が向かっていたのは、騎士団本部であるベノア城であり、立地としてもそこ以外ありえないのだが、眼前には、完膚なきまでに破壊され尽くした建物の瓦礫が積み上がっているだけだったのだ。つまり、ベノア城がなんらかの理由で崩壊したということにほかならない。
「想像以上だろう」
そういって話しかけてきたのは、騎士団長オズフェルト・ザン=ウォードだった。ルヴェリス・ザン=フィンライトを伴い、廃墟の中を歩いてくる。騎士団の制服を身に纏う長身のふたりが廃墟を歩く様は見るからに絵になったが、感心している場合ではなかった。
「まずは副団長、御苦労だったな」
「当然のことをしたまでです。それにわたしよりもこちらのお二方の働きのほうが凄まじく」
「ああ、わかっている」
オズフェルトは、シドの返事に満足したように微笑んだ。それから、セツナとレムのふたりに視線を向けてくる。
「セツナ殿、レム殿、おふたりの協力に感謝の言葉を述べさせていただきたい。ネア・ベノアガルド軍との戦いの詳細は聞いています。おふたりがいなければ、我々は敗北していたこと間違いないでしょう。特にセツナ殿がいなければ、いまごろどうなっていたことか……」
アシュトラのことだろう。
神であるアシュトラを撃退することができたのは、ひとえに黒き矛があったからにほかならない。そしてそのうえで、セツナが黒き矛の力をある程度引き出せるようにまで成長していたからだ。もしセツナが地獄での修練を乗り越えていなければ、アシュトラに手傷を負わせることさえできなかっただろうことは、想像に難くない。その場合どうなっていたかというと、セツナたちは全滅を避けられず、後はアシュトラの思うままになっていたことだろう。ハルベルトの純粋な魂を穢すことに喜びを覚えていた邪神が考えることなど、想像しようもないが。
「ともかく、セツナ殿がベノアに残ってくださり、その上騎士団に協力してくださり、助かりました」
「俺の方こそ、騎士団に感謝しなければならない立場ですから」
「テリウスに感謝しなければならない、ということですね」
オズフェルトが柔らかな表情をしたことが、セツナには嬉しかった。セツナの意を汲んでくれたのだ。セツナが騎士団への協力を惜しまなかった理由のひとつは、テリウス・ザン=ケイルーンがレムを守り続けてくれていたからだ。彼が魂だけの存在となってなおレムとの一方的な約束を果たしたからこそ、セツナはレムと再会することができた。レムを失っていれば、セツナは心に深い傷を負っていたことだろう。もうひとつは、マリアを尊重してくれたこと。それだけでも騎士団に恩返しをする理由になっている。
「ところで、これは……?」
「ああ、この現状についても説明しなければなりませんね。フィンライト卿、説明を」
「お任せあれ、閣下」
ルヴェリスは、オズフェルトに恭しく頭を下げると、セツナに向かって片目を瞑ってきた。
「あなたたちがストラ要塞でネア・ベノアガルト軍と戦っていたちょうどそのころにね、こっちもこっちで大変だったのよ」
ルヴェリスが、あの夜、ベノアで起きたことの詳細について説明してくれた。
ストラ要塞がネア・ベノアガルド軍との戦いに明け暮れていたころ、ベノアも、戦闘の真っ只中だったというのだ。
その詳細が明かされるに連れ、セツナは、アシュトラへの怒りを膨れ上がらせざるを得ず、そしてその行き場のない怒りに呆然とするほかなかった。
死者を操ったのは、無論、ハルベルトではない。ハルベルトを操っていたアシュトラこそが、この亡者騒ぎ、死者騒動の首謀者であり、白化症患者の一斉神人化騒ぎも、アシュトラが鍵を握っていたに違いない。ハルベルトにそんな能力があるわけもないのだ。
神人は、白化症患者の末路だ。そして、白化症とは、神威を浴びた生物に発症するものであり、神威とは神の力そのものだ。つまり、神ならば、白化症患者を神人化させることも不可能ではないのではないか、ということだ。
もしかすると、マルカール=タルバーさえ、裏でアシュトラが操っていたのではないか。
それならば、マルカールが神人ながらも自我を保つことができていたという問題にも、マルカールが白化症患者を神人化させることができていたという問題にも、納得のいく答えとなる。
もっとも、その憶測が真実ならば、なにもかもアシュトラの手のひらの上だったということになるのだが。