第千七百六十五話 亡き王家のための葬送曲(十八)
「アシュトラ」
セツナは、その神が正体を現した瞬間、両手から激しい感情が伝わってくるのを認めた。両手が握る黒き矛から流れ込んでくるどす黒い感情は、これまでセツナが黒き矛から感じ取ったものの中でも特に強烈なものといえるだろう。
召喚武装は、意思を持つ。その意思を表すことなどほとんどない。あったとしても、夢と現の狭間に出てくるくらいのものであり、戦闘中に意思表示をしてくることなど極めて稀だった。特に黒き矛がこれほどまでに強烈な敵愾心をセツナに伝えてくるなど、いままでになかったことだった。しかし、驚くことではない。黒き矛について詳しくなったいま、“彼”がなにを考え、なにを感じ、なにを想い、なにを望んでいるのか、多少なりとも想像できるようになっていた。
少なくとも、以前のセツナにはわからなかったこと、見えなかったことが、理解できている。
たとえば、前方に降臨した神を名乗るものが黒き矛にとってどうするべき存在なのか。
(いまならわかる)
セツナは、矛の柄を強く握りしめると、光り輝く存在を凝視した。少年のような顔立ちをした神は、光の中でこちらを見て嘲笑しているようだった。
「それがあんたの名か」
そして。
(あれが、敵なんだな)
セツナは、黒き矛が憎むべき敵とはどのようなものなのか、わかりかけてきた。神と呼ばれるものに対し、黒き矛はこの上のない敵愾心を抱く。黒き矛。セツナがカオスブリンガーと名付けた召喚武装は、マユラ神やミヴューラ神によって魔王の杖と呼ばれた。その言葉がなにを意味するのか、いまのセツナになら、わかる。そしてその言葉の意味するところが神への敵意となって現れるのも納得のいくところだった。
《そう。それがわたしの名だ。よく覚えておくといい。わたしが現出した世界において、偉大なるものという意味を持つ言葉だ。わたしに相応しい言葉だろう?》
この世界の言葉ではない、ということだ。古代言語でも竜語でもない、異世界の言葉。聖皇によって異世界から召喚された神の一柱、つまり皇神の一柱だったということだ。
ベインが鼻で笑った。
「偉大なるもの? 笑わせやがる」
「同感だな。人間を弄んだだけで尊大ぶるなど、神が聞いて呆れる」
シドが剣を構えながら、言い放つ。
《神に頼りしおまえたちが神を愚弄するか》
「俺たちの神は、てめえとは格が違うんだよ」
「その通りだ。我らが神を貴様如きと一緒にするな」
ベインとシドにとっての神の基準はミヴューラなのだから、当然、そのような反応にもなろう。人間を愛し、救うことにすべての力を費やしていたミヴューラを基準にすれば、どのような神であれ格が落ちるのは仕方のないことだ。ミヴューラのことを詳しくは知らないセツナでさえ、アシュトラと比べるまでもなくミヴューラに軍配が上がってしまう。ミヴューラは、人間にとっての善神そのものだった。
《ははは。なにも知らぬものがなにをいったところで、わたしには届かない。おまえたちの神がどうなったのか、知らぬのか?》
「てめえ、ミヴューラがどうなったか知っているのか!」
《知っているさ。知らぬものもいまい。あれほどの騒ぎを起こしたのだ。まったく、余計なことをしてくれる。おかげでわたしやほかの神々も在るべき世界に還ることができなくなってしまった。五百年もかかった召喚儀式が水の泡だ。たったひとつの方法を失ってしまった》
(失ってしまった……?)
セツナは、アシュトラの言葉の中から、その一言に引っかかりを覚えた。無論、失ってしまったというのは聖皇復活の方法のことだろう。聖皇を復活させ、その力によって在るべき世界に還ることこそ神々の悲願であり、最終戦争を起こした目的だったのだ。それ以外には考えられない。しかし、召喚に失敗しただけならば、また、時間をかけてやり直せばいいだけなのではないのか。失ってしまったとは、いったいどういうことなのか。
《あんなものに支配されるくらいならばと抜け出したはいいものの、この世界はあまりにつまらぬ。故に人形遊びに興じていたが……しかし、おまえが現れた》
アシュトラの金色の目がセツナを見据えてきていた。
《おまえのことだ。セツナ=カミヤ。おまえとおまえの持つ魔王の杖さえあれば、あるいは……》
「この戦い、黒き矛が狙いだったというのか?」
《そうだよ。それがすべて。それ以外、なんの理由もない。ハルベルトのためにベノアを滅ぼす算段も立てたが、結果はどうでもいいことだ。重要なのは、おまえと魔王の杖だ》
「ハルベルトのためにベノアを滅ぼすだと……?」
「彼がそんなことを望むものか!」
ベインとシドが激昂する様を見て、アシュトラがその光輝く顔に笑みを浮かべた。酷薄な笑み。アシュトラとミヴューラの違いがその表情ひとつに現れている。慈悲深く、この世を救うことにのみ力を尽くそうとするミヴューラの表情というのは、見ているだけで心が洗われていくといっても過言ではなかった。ミヴューラの信徒ではなかったセツナですらそう感じたほどだし、アシュトラとの人間に対する対応の差異に目眩さえ覚える。
《彼は、人間にしては健やかな魂の持ち主だ。穢をしらない純粋な魂。そのような魂を持つものは、極めて少ない。おまえたちに比べても、いまもなお彼の魂のほうが美しい》
「なにをいってやがる、てめえ!」
《そういうのを見ると、つい穢したくなってしまう――という趣味趣向の話だよ》
「貴様!」
《そういきり立つことか? おまえたち人間もよくやることだろう。自分の好きなものを思い通りにしたくなることくらい、よくあること。違うかい》
アシュトラは、ベインとシドの神経を逆撫でるような言葉をわざと選択しているように思えた。その想像が正しければ、効果覿面といっていいだろう。ベインは怒りのあまり、いまにも飛びかかりそうになっていたし、シドも同じく感情の高ぶりを隠しきれていない。ふたりにとって、やはり、ハルベルトは大切な同僚だったのだろう。アシュトラさえいなければ、という想いが膨れ上がり始めている。
アシュトラさえいなければ、ハルベルトもシヴュラもこのような結末を迎えずに済んだ。
《彼の心は非常に綺麗でね、“大破壊”によってベノアガルドを守れなかったことに対し、だれよりも責任を感じていた。彼にはなんの責任もないのにね。むしろ被害者といってもいい。彼に力を与え、希望を与えたミヴューラこそ、責任を負うべきだ。ミヴューラがベノアにいれば、ベノアガルドの護ることはできたのだからね。だが、ミヴューラはベノアガルドよりも、イルス・ヴァレ全体のことを考えた。その最悪の選択がわたしたちの帰還を妨げた挙句、“大破壊”という惨事を引き起こしたのだが、そのことでおまえたち人間がミヴューラを責めることはありえないのが酷い話だ》
アシュトラの声は、ミヴューラへの怒りに震えていた。ただ、その怒りさえ、対峙するセツナたちを嬲るための演出に過ぎないように思えるのは、考えすぎなのだろうか。少なくともアシュトラは、ミヴューラに対する怒りに取り憑かれているようには見えない。むしろ、現状を心底愉しんでいるような印象さえある。
ハルベルトを操り、ベノアガルドに混乱をもたらしたことが楽しくて仕方がないのではないか。
セツナは、言い様のない怒りを感じていた。ベノアガルドは、セツナにとって縁深い国とはいえない。しかし、縁もゆかりもない土地とはいえ、知り合いがいて、慕ってくれるひともいる場所だ。それになにより、“大破壊”以降、苦しみ、あえぎながらも日々を生きているひとびとがいて、そういう生活の様を目にしている。だれもが日々を生きるのに精一杯だというのに、そういった現状を破壊し、混乱させることに喜びを見出している。そのようなものをたとえ神であっても認めるわけにはいかない。
《ミヴューラがみずからの使徒やあの裏切り者のクオンとともに命を捨てたからこそ、イルス・ヴァレは原形を保っている。もし、ミヴューラがベノアガルドの守護に執着していれば、ベノアガルドを除くほとんどすべてが消滅していたはずだ。無論、わたしたちの帰還とともにね》
アシュトラがその細い手を自分の胸に当てた。光を放ち、不可思議な紋様が浮かぶ体は、人間の肉体とよく似ているものの、決して同質のものではあるまい。
《どちらのほうがおまえたちにとって良かったかは、考えずともわかるだろう? それがわたしにはどうしようもなく苛立たしい》
「ハルベルトにその苛立ちをぶつけたってのか!?」
《そうではないよ。そういうことではない。起きてしまったことは、仕方のないことだ。もう取り戻すことはできない。だから、そんなことはどうでもいい。わたしはただ、人間を使って遊ぶのが好きなだけなんだよ。それ以上でもそれ以下でもない》
涼しい顔で言い放たれたアシュトラの言葉は、セツナの想像を肯定するものだった。アシュトラは、ミヴューラへの怒りなどどうでもいいのだ。現状を愉しむことに全霊を注いでいる。それがアシュトラという神の在り様なのだろう。人間を人形の如く弄び、混乱をもたらすもの。
《中でも綺麗な魂を持つ人間を見るとね、どうしようもなく穢したくなってしまうんだ。純粋な魂を持つ人間が絶望的な現実を前にして、穢れ、壊れ、狂い、堕ちていく様を見るのがこの上なく好きなんだよ。それがわたしの力の源だからね》
「……よーくわかったぜ」
ベインが握った拳を目線の高さに掲げる。彼の体から湧き上がった神秘的な光が、右腕の籠手に絡みつき、変質させる。幻装化というやつだろう。救力による武器防具の強化。それにより、騎士団騎士は武装召喚師に匹敵する力を得ることができる。
「てめえは神様でもなんでもねえ! ただの化け物だ!」
《自分たちにとって都合のいい存在でなければ否定する――それが人間の限界。人間の救いを求める心によって現出したミヴューラも神であれば、人間の中のどす黒い欲望によって現出したわたしもまた、神なのだよ》
アシュトラは、ベインの魂からの雄叫びなどどこ吹く風といった様子だった。実際、ベインやシドがなにをいったところで、いや、セツナの言葉でさえ、アシュトラには響くまい。神なのだ。次元の異なる存在。人間と同じ価値観を持っているわけもなければ、人間の尺度で測ることなどできない存在なのだ。もちろん、だからといってアシュトラに対し、怒りを感じていけない理由はない。
《まあ、おまえたちに認められようが否定されようが、わたしには関係のないことだし、ハルベルトの話とも関係がない》
「あるさ」
シドが告げ、ベインが呼応する。
「ああ」
《ん?》
アシュトラには、覚悟を決めたふたりの想いなどわかるはずもなかっただろう。シドが雷光剣を掲げ、ベインが鉄甲拳を構えた。ふたりは、死を覚悟している。それくらいの覚悟がなければ神と戦うことなどできないということくらい、ふたりも理解しているのだろう。シドが、告げた。
「貴様の存在を否定してやる」
「おうよ!」
《わたしと戦おうというのか? おまえたちが? 愚かにも程がある》
アシュトラは、一笑に付しただけだ。強大な力が、アシュトラの周囲に渦巻き、余波がセツナたちの元に届いた。圧倒的な力の奔流。ただの威圧だというのに、セツナは矛を地面に突き刺さなければ立っていられなかったし、シドもベインも膝をつかざるを得なかった。レムはハルベルトが巻き込まれないよう、彼を後方に運んでくれている。
《身の程をわきまえたまえ。おまえたちは、ミヴューラの加護のおかげで神に近い力を振るえていたにほかならない。ミヴューラが不在のいま、加護には限度があり、おまえたちはともに限界を迎えているのだ。わたしには到底、届かない》
「……構わないさ」
「てめえの存在を認めるくらいなら、死んだほうがましだってな!」
シドとベインが同時に立ち上がり、吼えた。ふたりの救力が限りなく高まっていくのがセツナの目に見える。魂が燃えている。まるであのときのようだ。死を賭してセツナを護ったドラゴンがいた。ラグナシア=エルム・ドラース。彼女の最期に見た光景を思い出すのは、彼女もまた、魂を燃やすことで限界を越えた魔力を生み出したからだ。
《愚かな。死ぬより生きていたほうがこの国のためだぞ?》
アシュトラが嘲るように言い放ったが、彼のいうことはもっともだった。
シドとベインは、この国の根幹をなす騎士団の幹部なのだ。なんとしてでも生き残らなければならないという役割にある。彼らが死ねば、その分他の騎士団幹部の負担が大きくなる。オズフェルト、ルヴェリス、ロウファの三人だけでは、いかにベノアガルドの国土が狭まったとはいえ、政務に差し支えが出てくるのは目に見えているのだ。ただでさえ、騎士団には行政機関としての顔と武力組織としての顔というふたつの面があり、多忙を極めるのだ。これ以上騎士団幹部の負担が増えれば、どうなるものかわかったものではない。
《もっとも、おまえたちが生き残ったところで、わたしがこの国を滅ぼすだけのことだが》
アシュトラは、皮肉に笑った。神たる彼にとっては造作もないことなのだろうが、そんなことを受け入れる道理はない。
セツナは、地に刺していた矛を抜き、アシュトラを見据えた。
「させないさ」
「セツナ殿」
「ここは――」
自分たちに任せて欲しい――とでもシドとベインはいうつもりだったのだろうが、セツナは、そんなふたりの覚悟を受け入れなかった。
「シドさん、ベインさん、ここは俺に任せてください。奴が、アシュトラが神なのは疑いようのない事実。おふたりが死力を尽くしても、傷ひとつつけられないでしょう」
クルセルクにおけるマユラとの戦闘ともいえない戦いを思い出しながら、告げる。当時の黒き矛でさえ、シドたちの幻装程度の力はあったはずだ。それでもマユラを傷つけることさえできなかった。そのとき、マユラによって見せつけられた力には圧倒されるしかなかったことも記憶に焼き付いている。次元が違うのだ。
神がいかにして神であり、人間がどうしようもなく人間であるという事実を受け入れる他ない。それを受け入れた上で対抗手段を用意するしかないのだが、それには並大抵の召喚武装では駄目だ。最低でも真躯以上の力を発揮できなければ、神に敵うはずもないのだ。いまのシドたちでは、為す術もなく返り討ちに遭うだけだろう。彼らはそれでも構わないという覚悟と気概を見せているが、それでは駄目なのだ。シドたちを死なせる道理はない。
「それは……しかし!」
「そうだぜ、セツナ殿。いかに無力だろうと、ここで引くわけにはいかねえ」
「いえ、引いて頂きます」
セツナは、あっさりと告げると、背後を一瞥した。ハルベルトを遠方で待機するフロードに預けたらしいレムが控えている。“死神”たちと指示を待つ様が、いかにも頼もしい。
「レム、ふたりを頼んだ」
「承知いたしました」
レムは、一も二もなく了承すると、“死神”たちでもってシドとベインの制圧に動いた。
「なにを……!?」
「セツナ殿、おい!?」
シドもベインも味方である“死神”相手には為す術もなく、あっという間に制圧された。ふたりとも、アシュトラに対する命がけの覚悟はあっても、レムと“死神”を撃破しようという考えはなかったのだろう。そこが彼ら騎士団騎士のひとの良さだ。
《賢い判断だな。役にも立たぬ弱者など、おまえの足を引っ張るしかないものな》
「んなこたあどうだっていい」
セツナは、アシュトラの戯言を一蹴すると、地を蹴った。
「あんたは、敵だ」
一瞬にしてアシュトラを間合いに捉え、矛を振り抜く。
漆黒の一閃がアシュトラの胸に当てた手の指を三本、切り落とした。