第百七十五話 看破
対陣が長引き、夕日が沈み、月が出てきた。
頭上には闇が横たわり、星々のきらめきが闇を引き裂いている。もっとも強烈なのが月の光だ。青白くも膨大な輝きは、ジナーヴィですらはっとさせられる。地獄の中で空想した光とは、このようなものかもしれない。
上天にあり、ただ意味もなく光を与えてくれるもの。
ジナーヴィは、膝の上にちょこんと座ったフェイの髪を撫でながら、夜空を睨んでいた。風の音が涼やかだ。そのくせ熱を帯びており、肌を乾かしていく。水のせせらぎ、虫の声、鳥のさえずり。そういった無数の音が、彼に生を実感させた。
地の獄にはなかったものが、ここにはあふれている。
目に映るものすべてが、眩しく感じられることがある。
十年間、夢見て、憧れた世界。
もう一度、もう一度と、何度となく叫び、渇望した世界。
フェイの華奢な体を優しく抱き抱えたまま、彼は、これまでの十年を思っていた。ライバーン家のために耐え抜いた九年と、ミレルバスへの憎悪を募らせた一年あまり。彼の青春は露と消え、戦闘と殺戮と鍛錬と修学だけに費やされていった。鍛錬と修学は、いい。そのおかげで、彼は強くなれたのだ。あの地獄の中ではだれよりも強くなった。あのランカインよりもだ。
ランカイン=ビューネル。彼はジナーヴィよりも先に地獄にいて、先に地上に上がった。ジナーヴィは彼に魔龍窟での生き方を学んだ。戦い方の基礎を、武装召喚師としての基本を、彼から学んだのだ。彼はいつかジナーヴィを殺すつもりだったのだろう。教わったことの大半は、数年のうちに使い物にならなくなった。
地上に出た後の彼の消息は、ゼオル滞在時に調べさせた。
ザルワーン軍の武装召喚師として働いた後、ログナーで工作活動を行ったという。が、その工作活動とはまったく別の方法でログナーはザルワーンのものとなり、彼の孤独な戦いは徒労に終わった。その後、ガンディアに潜入し、こちらでも何らかの活動はしていたようだ。だが、二月ほど前、ガンディアの小さな町を焼き払い、捕らえられた後、極刑に処されたらしい。無残な人生だ。
自分は、彼のようにはならない。
ジナーヴィは、こちらに近づいてくる足音に気づき、脳内の考えを消した。双翼陣中央最後列の本陣に、彼はいる。ゼオルから持ってきた椅子に腰掛け、膝の上にフェイを乗せ、敵陣が動くのをいまかいまかと待っていたのだ。膝の上のフェイは、ジナーヴィの腕の中でうとうととしている。眠気に勝てないのが、なんとも彼女らしい。が、戦闘になれば飛び起き、活躍してくれるのは疑いようがない。華奢な体は、筋肉の塊といっても過言ではなかった。
周囲に兵はいない。ふたりに気を利かせてくれているのか、恐ろしいのか。後者だろう。ジナーヴィは、配下の兵士たちに自分が慕われていないことを知っている。地獄から舞い戻ってきたと思ったら、突如支配者として君臨するような男を、だれが慕うというのか。しかも、支配に用いたのが暴圧と恐怖である。これでは、兵士たちの心が彼に靡くはずもないのだ。
だが、いまはそれでいいのだ。
彼らはまだ、寄せ集めの軍勢に過ぎない。第四龍牙軍と、第三、第六、第七龍鱗軍からなる混合軍。纏めるには、圧倒的な力による恐怖が手っ取り早く、ガンディア軍を追い払うという目前の任務を全うするにはそれが一番だろう。ケイオンも、その考えには賛同してくれていた。
一度恐怖を締め付けたのだ。あとで緩めるだけ緩めれば、彼らの心を掴みやすくもなる。もっとも、そんな日が来るのは当分先のことだ。まずは目先の勝利である。眼前の敵軍を倒し、潰走させるのだ。
足音は、ケイオン=オードのものだった。彼は、ジナーヴィのすぐ手前まで来ると、傅き、頭を垂れた。
「夜分、失礼します」
「戦陣だ。失礼もくそもあるか」
ジナーヴィはそう告げたが、笑みをこぼした。ケイオンは、ジナーヴィとフェイのことを気遣っているのだ。ほかの有象無象の兵士とは違うなにかを、彼は持っている。
ジナーヴィが彼をゼオルで見出したのは、配下の連中に軍師となれるような人材はいないのかと尋ね回っていたところ、彼の名が上がってきたことがきっかけだった。ケイオン=オード。神将セロスの一族のものだとすぐにわかったが、ジナーヴィは気にせず、彼との対面を果たした。涼やかな風貌、物怖じしない態度、ジナーヴィの目を見つめる胆力、どれもがジナーヴィに興味を持たせた。ジナーヴィからの参軍要請に対し、彼は二つ返事で応じ、聖龍軍の軍師となったのだ。もっとも、彼自身は軍師見習いであると言い張り、まだまだ学ぶべきことは多いといっているのだが。
「で、なんだ?」
「はい。ひとつ、お尋ねしたいことがございまして」
「ほう?」
「武装召喚師は、召喚武装を身につけると、五感が冴え渡るという話は本当なのでしょうか?」
「なんだ、そんなことか」
軍師の質問に少しだけがっかりしたのは、ジナーヴィにとっては当たり前のことだったからだ。ジナーヴィにしろ、フェイにしろ、魔龍窟出身の武装召喚師にとって、武装召喚術の話題ほど退屈極まりないものはない。それが、彼らの日常だったからだ。
「そうだが。それがどうかしたか?」
「具体的には、どのような感じなのでしょう。耳がよく聞こえるとか、遠くまで見えるようになるとか、そういうことですか?」
「貴様は、なにがいいたいんだ?」
ケイオンの質問が婉曲に聞こえて、ジナーヴィは苛立った。いいたいことがあるのなら単刀直入にいって欲しいのだ。そのほうがわかりやすく、判断もしやすい。わかりにくいのは嫌いだった。自分の愚かさが身に沁みるからだ。
ケイオンは、こちらのそういう反応も予測していたのだろう。表情ひとつ変えずに告げてきた。
「端的に申し上げますと、聖将様に武装召喚術を使っていただき、召喚武装の五感強化とやらを用い、周囲の警戒を行っていただきたいのです。なに分、我が方の武装召喚師は聖将様とフェイ様だけですので、ほかに頼みようもなく」
「なるほどな……召喚武装にそんな使い方があったか」
「それが効果的かはわからないのですが」
「やって見る価値はある、か」
「はい」
ケイオンの真剣なまなざしに面映いものを感じながら、ジナーヴィはうなずいて見せた。
「よかろう。俺が武装召喚術を使う。フェイ、おまえは馬車で寝てろ」
「う、うん……? どうしたの? 戦闘?」
半分寝ていたのだろう、フェイは、瞼を擦りながら寝惚けたようにいってきた。それでも、ジナーヴィの言葉通り膝の上から降りるのだから、意識はほとんど起きているようなものだ。寝込みを襲われ、殺されたくなければ、寝ていても意識のどこかは起きていなければならなかった。そんな地獄の日々が、彼女をそのような人間にしてしまっている。ジナーヴィも同じだ。
「暇つぶしだよ」
「ふーん……暇を潰し終わったら、来てね」
「ああ」
軽く手を振って荷馬車に向かっていったフェイの背中を見やってから、ジナーヴィは椅子から立ち上がった。ケイオンが、少しばかり後ろに下がる。邪魔になると思ったのだろう。
「アラク・ウルクラム・ウェステル……」
ジナーヴィは、久々に呪文を唱えていることに気づいて、胸中で苦笑した。魔龍窟では、召喚しない日はなかったのだ。戦うためだけではなく、自衛のためにも召喚しなければならなかったし、鍛錬のため、修学のためにも武装召喚術の行使は必要不可欠だった。毎日のように武装召喚術を行使し、精神を摩耗し、消耗していく。そのうち、限界が来て、意識を失うのだ。目が覚めたとき、殺されていないことを幸運に思うのか、不幸に思うのかは、ひとそれぞれだろう。
ジナーヴィは、地獄のような日々を、生きているとは思いもしなかったが。
武装召喚術の呪文には、大きく分けて四つの段階がある。解霊句、武形句、聖約句の三段階の呪文を唱えた後、結語たる武装召喚の一言が来るのだ。解霊句によって世界に干渉する権利を得、武形句によって召喚武装を指定する。聖約句は召喚武装との契約であり、契約の確認でもある。そして結語の一言が、召喚武装をこの世界へと転送させる。
気が狂うほどに学んできたことだ。
諳んじることも容易い。
「武装召喚」
ジナーヴィが呪文の結語を口にしたとき、彼の全身を光が包み込んだ。まばゆい光は、一瞬にして異世界の存在を呼び寄せ、彼の全身に固着させる。重量と、金属の冷ややかさが心地いい。光が消え、世界の繋がりが断たれた。残ったのは重量感であり、五感の冴えだ。
それと、召喚武装。
月光の中でも輝く、白金の胴鎧だ。厳しい装飾が、聖将という立場に似合っていなくもない。背には翼のような飾りがあり、それはドラゴンの翼を模しているようにも見える。肩当ては竜の鉤爪であり、首周りには牙があしらわれている。
「それが聖将様の……」
「天竜童。魔龍窟の武装召喚師ならだれでも使える代物だよ」
自嘲するでもなく告げて、彼は、視野の拡大を確認した。月と星だけでも十分なほどの光量だった。闇はもはや闇ではなく、障害ですらない。自陣内の動きは手に取るようにわかり、雑音の排除を意識しなければ、脳の処理は大変なことになっていただろう。視覚、聴覚、嗅覚……様々な感覚が肥大し、先鋭化している。
敵陣の動きも、多少は察知できた。ジナーヴィは最後列にいるにもかかわらずだ。強烈過ぎる感覚の拡張に、ジナーヴィは我を忘れかける。召喚武装に酔って自滅する武装召喚師が多々いるという話も、わからないではなかった。久々の召喚は、ジナーヴィをしてもそう感じさせるのだ。
「どうでしょうか?」
「そうだな……敵軍にも武装召喚師がいるようだ」
「召喚していると?」
「敵は、貴様の案を既に実行していたようだな」
「つまり、監視しているということですね。うかつに夜襲を仕掛けていればと思うと、ぞっとしませんね」
ケイオンの顔が少しばかり青ざめたのは、夜襲を計画していた、ということなのだろう。彼はそのための部隊を編成しつつあったようだ。自軍左翼部隊に動きがある。ジナーヴィに召喚武装を使わせたのは、その夜襲が成功するかどうかを確認するためだったのかもしれない。
ジナーヴィは、軍師の勝手な行動にも、怒りはしなかった。むしろ、褒め称えたい気分だった。彼の意を汲んで、動き回ってくれているのだ。ジナーヴィは、なんとしてもこの戦いに勝たなければならない。そのためならば、どんな策だって構わないのだ。無論、今後のことを思えば、損害は少ないに越したことはないが。
「ん……?」
ジナーヴィは、聴覚がなにかを捉え、鼓膜が微かに振動していることに気づいた。余計な音の受信は遮断している以上、それはなんらかの危険信号たり得た。振り向く。
森の中を走る街道が、自陣の後方に続いている。ゼオルからナグラシアへと至る街道のひとつであり、旧街道と呼ばれているほうの道だ。ロンギ川に架かっていた橋が皇魔に破壊されて以来、後難を恐れて使われなくなった街道であり、通常、ゼオルからナグラシアに向かうのなら北側の新街道を進むのだ。聖龍軍が旧街道を進んでいたのは、道幅の広さと、ナグラシアまでの距離を考えてのことだった。皇魔が潜んでいるかもしれない森を避けた新街道のほうが、少しばかり遠回りになる。
「どうされました?」
ケイオンの訝しげな声にも、即座には答えなかった。聴覚が捉えた音が一体何なのか、特定し、解明しなければならない。危険信号。胸がざわめいた。なにかが来る。迫ってきている。地を揺らすような音。馬蹄。軍勢。
「弓兵を集めろ、迎え撃つ」
ジナーヴィは、ケイオンを振り返り、にやりと笑った。
ギルバート=ハーディ率いる騎兵隊は、夜道であろうと構わず疾駆していた。
隊列を維持し、整然と馬を走らせる。一糸乱れぬ騎馬の行列は、さながら激流のようであったかもしれない。森を抜け、街道に出た。その頃、日が落ちた。月が出て、星々とともに夜影を払うようだった。月影の鮮やかさは、彼らの騎行を限りなく順調なものにした。
熱気が、逆巻いている。
それは夏の空気であり、騎兵隊の持つ熱そのものでもある。ほとんど休みなく駆け通してきたのだ。馬も息が上がりはじめ、疲れが見えてきている。鼻息も荒い。長距離騎行のために特別に鍛えぬいた馬たちだ。潰れるようなことはあるまいが、この戦いが終われば、しっかりと休ませなければならないだろう。
しかし、もう少し頑張ってもらわなければならない。
街道に出たのだ。これにそって進めば、敵陣の後背を衝くことができる。
ギルバートは、逸る気持ちを抑えながら馬を走らせていた。彼の愛馬リトルダークは、騎兵隊の中でもとりわけ持久力に優れた馬であり、彼が寵愛しているのは、その並外れた体力と度胸によるところが大きい。戦陣のまっただ中であろうと恐れることなく突き進む彼の姿は、騎兵隊の他の馬にとっても大きな力になるだろう。
彼は、リトルダークとともに戦野を駆け抜けるのが好きだった。駆けているうちに、彼とひとつになっていくような感覚に襲われることがある。その感覚に身を委ね、意識が融け合ったとき、彼は人馬一体という言葉を体現することができた。そのとき、彼は無敵になった。なにものも彼を捉えることはできず、彼は戦場を蹂躙する戦神となる。
いまこそ、そのときだろう。
前方、街道が開け、川辺が見えた。
白金の鎧が月光にきらめき、無数の反射光がギルバートの視界を彩った。彼は、散開を命じようとした。が、騎兵隊の勢いを留めることは、もはやできなかったのだ。
「射てえっ!」
無数の矢が、騎兵隊に殺到した。