第千七百五十一話 亡き王家のための葬送曲(四)
マリアは、自分の身に起きていることとそれを取り巻く状況に絶望さえしかけていた。
十数分前のことだ。
仮眠中の彼女の元へ、療養中の患者たちが突如として暴れだしたという報告が入ったのだ。彼女はすぐさま跳ね起き、寝ぼけ眼のアマラを研究室に残したまま、患者たちの元へ向かった。その途中で、護衛の騎士たちと合流するも、すぐさま別館が半壊する瞬間を目の当たりにしている。前方の通路の壁が突如ひしゃげ、吹き飛んだかと思うと、天地が逆さまになったかのような衝撃が彼女を襲った。どれくらいの間意識を失っていたのだろう。気がつくと、破壊された別館の通路にいた。壁も天井も失われ、満天の星空がことさら空々しく輝いているのが腹立たしく感じるほどに、彼女は目の前の光景に衝撃を受けていた。神人と化した白化症患者たちが、その肥大し、巨大化した体でもってマリアを見下ろしていたのだ。ひどく虚ろな眼差し。なにかを訴えようという気配はなかった。ただ、漠然とこちらと見ている。ただそれだけのことだったのだろう。ほかの医師や、騎士たちの声が聞こえた。が、マリアは彼らの元へ向かうこともできなかった。神人のひとりがマリアに向かって両手を伸ばしてくると、丁重に、掬い上げるようにして確保したからだ。
そのまま持ち上げられると、巨人といってもいい神人の手の中から抜け出すのは不可能だった。たとえ抜け出すことができたとして、落下死は免れ得ない。神人は、患者だったころの身長からは考えられないほどに巨大化しているのだ。
神人は、物理法則を無視して巨大化しうる。
そして、巨大化すればするほど、質量が増大すればするほど、強度が増すという。人間と変わらない大きさならば並の武装召喚師でも対処できるが、巨人ほどになるとそうはいかなくなるという。武装召喚師が複数人力を合わせてようやく斃すことができるのだ。
彼女は、自分を落とすまいとしているらしい神人の手のひらの上で、そのろくでもない考えに頭を振った。斃すなど、考えたくもなかった。彼らは、彼女の患者なのだ。白化症という未知の病と戦いながら、明日への希望を胸に抱いていた。マリアは彼らひとりひとりに毎日のように声をかけ、励ましながら、自分を鼓舞した。彼らを白化症から救い、元の生活に戻してやることがマリアの使命だった。そう想った。それだけに残りの人生を費やしても構わない。そう想うからこそ、日夜寝る間も惜しんで研究に研究を重ね、新薬の開発に熱を入れた。
最近開発した新薬は、白化症患者を苛む慢性的な痛みを少しでも和らげることができた。ただそれだけのことで、患者たちは喜び、涙さえ流した。それほどまでに白化症の痛みというのは辛いものだったのだろう。彼らは、マリアを女神と呼び、救い主とは騎士様ではなく、マリアであるとさえいった。マリアはそんな評価を嬉しく思いながらも、そういってもらえるのは、白化症の治療法が確立してからのことだと言い返したものだ。そして、必ずそうしてみせると誓った。
痛みを和らげることができた。
初めて、白化症に変化をもたらすことができたのだ。研究を続ければ、いずれはもっと踏み込んでいけると信じた。患者をひとり残らず回復してやるのだと、興奮した。
なのに、患者たちはひとり残らず、神人となってベノアの街を破壊し始めていた。
こんな虚しいことはない。こんな悲しいことはない。こんな、悪夢はない。
そう、悪い夢だ。
悪夢としか言い様がなかった。光明がわずかに見えたと想った直後、奈落の底に突き落とされた想いがした。
眼下に広がる町並みが神人が歩くだけで破壊され、炎や雷によって燃え上がり、火災が広がっていく。逃げ惑う市民を誘導する騎士たちや、神人そのものを一定方向に誘導する騎士たちの姿は頼もしかったものの、それでマリアの心が満たされるわけもない。マリアは、神人たちに話しかけた。白化症患者の人間であったころの名で呼びかけたが、彼らは、まったく聞く耳を持たなかった。いや、違う。正しくは、マリアの声など一切聞こえていないのだ。
神人化したものは、人間の意思を持たない。自我は失われ、ただ周囲に破壊と殺戮を撒き散らす存在になる。神人とは、神威を浴びた人間の成れの果てであり、そうなったものは、もはや人間とは別種の生物に生まれ変わっているのだという。神人を支配しうるのは、上位の存在である神くらいのものであるといい、人間であるマリアの声が彼らに届かないのも当然の帰結だった。
ではなぜ、マリアは神人に確保され、後生大事に抱えられているのか。
白化症患者であったころの記憶が、神人たちを突き動かしたのではないか。ほかに考えられる理由がなかった。神人は、人間を襲う。人間だけではない。手当たり次第、破壊する。殺戮する。神の毒に冒された怪物は、制御不能の殺戮兵器と化すのだ。ならば、マリアも殺されてしかるべきだ。だが、現実にはそうはならなかった。
マリアは生かされ続けている。
しかし、こんな生ならばいっそ殺されたほうがましだと想わないではない。
マリアの眼下では、ベノアの街並みがつぎつぎと破壊され、炎に飲まれていくという惨状が広がっていた。騎士たちが避難誘導の傍ら、神人の攻撃を防いだり、神人に攻撃したりと対応に追われている。正騎士たちの人知を超えた攻撃が神人の一体に集中し、その一体が倒れた。そこへ嵐のような攻撃が浴びせられると、神人は動かなくなった。核が破壊され、生命活動が停止したのだろう。
マリアは、その様を見ながら、ただ、言葉を失った。
神人となったものを元に戻す方法はない。
マリクの冷酷非情な宣告を思い出し、震える。では、白化症の段階では、どうか。それも不可能だろう、とマリクはいった。白化症が発症した時点で手遅れなのだという。そして、白化症が発症する可能性は、この世のすべての生物にあるのだ、と。
それがこの世界に突きつけられた絶望的な現実であり、この世界が死に向かっているというマリクの話に繋がることだ。
神人となったものは、斃す以外にはない。
そんなこと、彼女に認められるわけがなかった。だが、別の生物、別の存在へと変わり果てたものを元の人間に戻すこともまた、人間の医師にできるわけがないという事実も理解している。医術は魔法ではない。なんでもかんでも治せるものではないのだ。痛みは誤魔化すしかなく、傷も回復を早めるのがやっとだ。骨折も、結局は自己治癒力に委ねるしかない。病に効く薬を煎じることくらいか。神人を人間に戻す特効薬など、ありうるはずもない。
マリアが悲嘆にくれているときだった。
突如として、まばゆい閃光が視界を灼いた。マリアはまた、騎士たちの攻撃が激化したのかと想ったが、違った。視界が正常化すると、派手できらびやかな極彩色の甲冑を纏い、花弁の如き光背を負う巨躯が、前方に立っていた。巨大な神人と化したものたちと遜色のない巨体を誇るそれは、神々しい輝きを放ち、魂を揺さぶるような力強さを感じさせた。巨人が甲冑を纏っているようにも見えるそれがなんであるか、マリアは知っている。
騎士団幹部のみが使えるという能力であるはずだった。
何ヶ月も前、大医術院とは別の医術院で療養していた白化症患者が神人となり、市街に被害を撒き散らさんとしたことがある。その被害を最小限に抑えたのが、いま彼女の目の前に出現したそれだった。薔薇の花弁のような光背の美しさに目を奪われた記憶がある。
その巨大な騎士の出現とともに、神人たちが唸りだした。騎士たちに対してはそのような態度さえ取らなかったことから、巨大な騎士は、ただの騎士よりも余程手強いのだということがわかる。マリア自身、その騎士の出現によって、頼もしさを感じずにはいられなかったのだ。神人たちが警戒するのも当然だったのかもしれない。
マリアを抱える神人が後退すると、ほかの神人たちが前に進んだ。巨人たちが歩くだけで大地が揺れ、局地的な地震が起きている。地上の騎士たちが状況の変化についていけず、悲鳴やら罵声やら発していた。前に出た神人たちが巨腕を掲げた。かと想うと、その腕が一斉に伸びた。まさに飛ぶような速度で伸びていった無数の腕は、しかし、極彩色の騎士に触れることさえかなわなかった。騎士の前方に閃光が奔ったつぎの瞬間、神人たちの腕が同時に切り落とされていた。だが、それで神人の攻撃は終わらない。腕の切断面が変形し、火を吹いたのだ。猛烈な炎の渦に対して、極彩色の騎士は上空に飛び上がって回避することで対処した。神人の腕が追撃する。上空、騎士の光背が輝いていた。見惚れてしまいかねないほどの美しい光。騎士の剣が閃くのを見逃したのは、そのせいだろう。直後、衝撃が、彼女を確保する神人からマリア自身に伝わってきたかと思うと、寒気がした。そして気づく。上空に逃れた騎士を追って伸ばされた神人たちの腕が白く凍りつき、動かなくなっていたのだ。
マリアは、ただただ唖然としながら、巨大な騎士が地上に降り立ち、無造作な斬撃で凍りついた無数の腕を粉砕する様を見ていた。そして、騎士が何事もなかったかのようにマリアを抱える神人に向かって歩み寄ってくる。神人たちは迎え撃とうとさえしない。見ると、すべての神人が、全身を氷漬けにされていた。
「だいじょうぶ? 怪我はない?」
突如の呼びかけは、極彩の騎士からだった。
「マリア先生」
聞き知った声に呆然とする。
その極彩色の巨人は、ルヴェリス・ザン=フィンライトだったのだ。