第千七百四十四話 虚空(二)
シヴュラの命が燃え尽き、この世からいなくなってしまったという事実をシギルエルにいるハルベルトが知ることができたのは、ハルベルトとシヴュラが十三騎士であり、特別な繋がりがあったからにほかならない。
命と命、魂と魂を繋ぐ絆が、ミヴューラによって十三騎士の間に結ばれた。半ば強制的なものだったが、ミヴューラの洗礼を受け、救世神の騎士になることを受け入れたものたちが拒絶するわけもなかった。洗礼を受け入れたということは、ミヴューラの考えのすべてを認め、受け入れるということでもある。ミヴューラを受け入れられないのであれば、洗礼を拒絶するべきだった。神の力だけを欲するなどという罰当たりな行いが許されるわけもないのだ。
神の力によって紡がれた絆は、十三騎士の関係をより深いものにした。ハルベルトは、その絆のおかげでシヴュラをより深く知ることができたし、より強く信頼することができるようになったのは疑うべくもない。魂の絆をもってしても険悪な関係が改善されるということはないが、互いに理解者であれば、相互理解はさらに深まるものなのだ。
そうして、年月が過ぎていけば、理解度はさらに一層深まるものだった。
ハルベルトがシヴュラを心の底から信頼し、なにからなにまで彼のいうことに従ったのも、絆を通してみるシヴュラの心がうっとりするほど綺麗だったからというのもある。
シヴュラは、理想的な騎士だった。
救世のためにすべてを投げ打つというだけでなく、人間としても立派で、正々堂々とし、不正を憎み、弱者には手を差し伸べる――騎士に必要なものをすべて高次元で備えている。シヴュラ・ザン=スオールが騎士の鏡として、騎士団の中でも特に評判が良かったのも当然といえた。
騎士団に入ったばかりのハルベルトに教育係としてシヴュラが手配されたのも、そういう理由からなのだろう。シヴュラに学べばまず間違いないという考えが、当時の騎士団長フェイルリングの中にあったようだ。そして、それが正しかったことは、騎士団時代のハルベルトやシヴュラに学んだ多くの騎士が証明している。
そのシヴュラが騎士団を裏切り、ハルベルトの側についてくれたことに関しては、彼自身、複雑な想いを抱かざるを得なかった。
騎士団騎士としての目で見れば、残念極まりない判断といわざるをえない。しかし、ハルベルト個人としては、これ以上ないくらいの喜びがあった。
シヴュラは、騎士団を離反し、王家復興、王国再誕を謳うハルベルトに騎士団からの追手として、彼の前に現れた。そして、彼はハルベルトを説得しようとした。彼にしてみれば、弟子であり、相棒であったハルベルトが騎士団を離反したのはなにかの間違いか、気の迷いに過ぎないと想いたかったらしい。無論、なんの間違いでもなければ、迷走の果てにたどり着いた境地でもない。
ハルベルトはシヴュラの説得に耳を貸さなかったものの、彼が追手として差し向けられたことそのものは嬉しかった。シヴュラにならば、討たれても構わない。
その程度の覚悟。
だが、シヴュラは、ハルベルトを討たなかった。討てなかったのだろう。そんなことをすれば、みずからの騎士道の否定になりかねない。ハルベルトの騎士道は、シヴュラの騎士道なのだ。騎士道の否定は、人生の否定。騎士としての自分の有り様の否定なのだ。シヴュラのような人間でさえ、それは難しいことだったようだ。
しかし、騎士団任務はまっとうしなければ、騎士とはいえない。騎士道と騎士団任務との板挟みになった彼は、悩み抜いた末、ハルベルトに降った。
シヴュラがネア・ベノアガルドに来てくれたことは、ハルベルトにとっては歓喜というほかなかった。彼がネア・ベノアガルドにきてくれた以上、ネア・ベノアガルドの勝利は約束されたものだと想った。無論、過大な評価だ。十三騎士がひとり加わったところで、騎士団に勝てるわけもない。しかし、ハルベルトにとってシヴュラはそれほどに価値のある存在だった。百人力、千人力どころではなかった。
なにより、シヴュラと敵対せずに済むという事実が、ハルベルトには嬉しくてたまらなかった。
騎士団の中でただひとり、ハルベルトが真に信頼し、心を許したのがシヴュラだったからだ。
それ以来、ハルベルトは、ネア・ベノアガルドの勢力拡大に向けて全身全霊を注ぐようになった。シヴュラの存在は、それほどまでに大きい。
そのシヴュラが、死んだ。
シヴュラは、ストラ要塞制圧のためにみずから出撃しただろうし、騎士団が要塞防衛のために幹部を派遣していただろうことは疑うまでもない。シヴュラと騎士団幹部。戦いとなれば、いずれも真躯を用いただろう。真躯同士の戦いは、苛烈なものになる。それこそ、天変地異が起きかねないほどの戦いの果て、シヴュラは、死んだ。ただ命を落としただけではない。魂までも破壊され、跡形もなく消え失せたとしても不思議ではなかった。
真躯とは、魂を武装するものだという。
魂の力の顕現である、と。
シヴュラと戦ったであろう騎士団幹部が容赦するわけもない。騎士団が裏切り者に寛容でないのはいまに始まったことではない。騎士団は、その崇高な理念を全うするに当たり一枚岩にならなければならないのだ。そうである以上、裏切り者を許すことなどできるわけもない。ベノアガルド最後の王子であるハルベルトの存在を容認していた事自体、特別扱いというほかなかった。
情け容赦のない死闘の末、シヴュラは敗れた。その魂は粉々に破壊され、塵も残らなかったかもしれない。
残されたのは、ハルベルトだ。
ハルベルトの心にただひとつ、大きな穴が空いた。
いや、大きくなったというべきか。
最初は、小さな穴だった。
心の隙間が生まれたのは、その穴が空いたのは、“大破壊”による惨状を目の当たりにしたときだった。
“大破壊”。
およそ二年前、世界を震撼させた未曾有の大災害によって、大陸は引き裂かれ、ばらばらになった。ベノアガルドとて、その被害から逃れることはできなかった。ベノアを任された七騎士では、結界を構築することはできない。ベノアを覆う結界は、救世神がいて初めてできることなのだ。逆をいえば、救世神が赴いた先では結界が作られたはずであり、その結界のおかげで“大破壊”があの程度で済んだといえる。だが、だからどうだというのか。現実になにもかもが破壊され、数え切れないほどのひとが為す術もなく死んでいった光景を目の当たりにすれば、そのようなことはどうでもよくなる。
なにもできなかった。
だれも救えなかった。
だれひとり、守れなかった。
ハルベルトの心に空いた穴は、ゆっくりとしかし確実に、彼の精神を蝕んでいった。
(蝕む?)
彼は、玉座の上で、苦笑する。
(違うな。目が覚めたんだ)
長い、本当に長い夢を見ていた。
騎士団という世界に生きる夢。救済という崇高な理念を胸に抱き、大義のために生きて果てる夢。美しく、熱く、素敵な夢。だが、その夢はまぼろしとなって消え失せた。
騎士団の理念だけでは、だれも守れないという現実が、彼の目を覚まさせた。
所詮、理想は理想に過ぎない。現実化できない理想など、ただのまやかしも同じだ。そんなものを信じたのが愚かだったのだ。愚かな自分を許せず、責め立てた。これでは、なんのために父や母が死んだのか、わからなくなる。なんのために王家が自分を残して皆殺しにされたのか、わからなくなる。
ベノアを、ベノアガルドのひとびとを救うためではないのか。
それができずして、なんのための騎士団か。
なんのための革命だったのか。
気がつくと、騎士団への憎悪ばかりが膨れ上がっていた。希望が絶望に変わるとは、そういうことなのだろう。ハルベルトに残された道は、ひとつしかなかった。騎士団を離れるということだ。
『どうしたの? 浮かない顔をして』
『そうだぞ、ハルベルト。なにがあったのだ』
不意に聞こえてきたのは、母と父の声だった。ふたりとも、我が子のことをなによりも心配しているような声色だった。親が子を心配する、そんな当たり前のことが素直に嬉しい。
「シヴュラさんが、死んだんです」
『まあ』
『そなたの師であったあの男がか』
「はい」
小さく、うなずく。
父も母も、シヴュラのことはよく知らなかった。当然だ。王家と騎士団の関わりというのは、深いようで浅かった。騎士団幹部以上は王家とも深く交わり、政治にまで口を出すことが許されるほどの権力と発言力を持っていたが、正騎士以下が国王夫妻に目通りすることなど、奇跡に近い出来事だった。シヴュラが騎士団幹部になったのは革命以降のことであり、革命によって命を落とした国王夫妻がシヴュラのことを認識しているはずもない。ハルベルトの話の中でしか、知らないのだ。
「わたくしはまた、ひとりになってしまった」
シヴュラ以外の部下がまったく頼りにならない、とはいわない。彼についてきた正騎士も少なくなかったし、王家復興に熱心なものたちの中には優秀な人材も豊富だ。しかし、そういったものたちがハルベルトの心を支えてくれるかというと、まったく別の話だ。シヴュラ以外のだれにもその役を担うことはできない。
『ひとり?』
『それは違うぞ、ハルベルト』
『わたくしたちがいるじゃない』
『そうですよ、ハルベルト』
『いつだって一緒です、兄上』
「……ああ、そうでしたね」
ハルベルトは、床に注いでいた視線を上げた。広間がいつの間にかハルベルトひとりの空間ではなくなっていたことに気づく。ベノアガルド王家に名を連ねるものたちが、こちらを見ていた。どこかぼんやりとしているように見えるのは、ハルベルト自身の目が潤んでいるからだろう。シヴュラを失った痛みが涙を呼んだのだ。
彼は、玉座の間に集った家族のためにも歩みを止めるわけにはいかない、と想い直した。シヴュラは死んでしまったが、だからといって諦める訳にはいかない。
いや、彼を失ってしまったからこそ、やり遂げ無くてはならない。
彼の無念に応えるためにも、だ。