第千七百四十三話 虚空(一)
彼はひとり、玉座の間にいた。
飾り気もなにもあったものではない空虚極まりないこの空間こそが、彼があるべき場所であると本能が告げていた。自分以外だれもいない。自分以外、なにもない。故にこそ、相応しい。
決して広くはなかった。それもそうだろう。玉座の間などと呼んではいるが、実際にはただの広間にすぎない。家臣たちは、玉座の間に相応しい空間に改装するべきだと主張してきたが、彼の一存で却下した。そのことに不満を漏らすものが少なからずいたが、黙殺した。彼にしてみれば当然の結論だったのだ。たかが屋敷を改装するだけとはいえ、そのために金や人手が必要であり、手間もかかる。そのために資金をつぎ込むのであれば、別のことに費やしたほうが遥かにました。
彼は、このシギルエルにいつまでも留まるつもりはなかった。シギルエルは、手始めに占領しただけに過ぎず、本拠地というにはあまりにも頼りない都市の有り様に気づき、すぐさまシクラヒムへの侵攻を企てたのもそのためだった。根拠地にもなりえない。だが、当時はそれで我慢するしかなかった。いずれベノアを王家の手に取り戻すにしても、当時の戦力では、とてもではないがベノアを制することはできないというのが常識的な判断だ。
たとえ制圧できたとして、二年前の段階では、ベノアの都市機能はほとんど不全に陥っており、ネア・ベノアガルド政府の力では再建もままならないだろうという考えもあった。まずは、騎士団政府にでもベノアの再建を進めさせ、頃合いを見計らって奪還する心積もりだった。
そのために戦力を集めるべく、勢力の拡大を図っていたのがこの約二年あまりの期間だ。シギルエルを拠点とし、まず南方に勢力を伸ばそうとした。マルディア領シクラヒムの制圧がその始まりとなるはずだった。そのまま、マルディア全土を支配し、さらにシルビナやエノンといったベノア島に存在する国々を支配し、十分な戦力を確保したあとにベノアに攻め込み、ベノアを取り戻すつもりだったのだ。
それが、彼、ハルベルト・レイ=ベノアガルドの戦略だった。
そのため、シギルエルの彼の屋敷を改装するなど、後回しでよかった。シギルエルは、騎士団との最前線となるはずの都市でもある。最前線に王宮を築き上げるなど、暴挙も暴挙だ。“大破壊”からこっち、資源も人材も不足しているというのに、そんなことにつぎ込んでいる場合でもない。
やがて、ハルベルトの考えが家臣たちに伝わると、彼らはハルベルトに対する見識を変えたようだった。
ベノアガルド王家最後の王子だからその離反に付き従った騎士や元貴族、富豪といったベノアガルド人たちは、ハルベルトを内心、侮っていたに違いない。ハルベルトが十三騎士に選ばれたのも、実力ではなく、王家の血筋故であると見ているものがいても不思議ではなかったし、実際、そういう陰口があったことも彼は知っている。そういった評判を実力で覆してきたという自負もあった。師の教えでもあった。
言葉ではなく、結果で示すものである、と。
その教えを実践し続けた結果、ネア・ベノアガルド軍は、徐々に戦力が増大してきていた。シクラヒム制圧からこっち、マルディアやエノンからの参加するものが跡を絶たない。マルディアは内乱状態であり、エノンにいたっては各都市が自治権を主張し、無政府状態に陥っているという。隆盛の勢いのネア・ベノアガルドに流れてくるのは道理だった。
そういったものたちの期待にも応えなければならない。
だからといって焦るべきではない。じっくりと腰を据えて、準備を整え、時を待つのだ。いずれ騎士団に対抗しうる戦力が整う。そうするだけの力が、彼にはあった。
だが、事態は急転する。
サンストレアのマルカール=タルバーが倒れたという報せがシギルエルのハルベルトの元に届いたのは、昨年十二月後半のことだ。同時にマルカールが白化症によって神人化していたことも伝えられており、騎士団は、神人となって暴走するマルカールを討伐後、サンストレアを保護下に置いたということを表明している。
問題は、サンストレアが騎士団の保護下に入ったことではない。
サンストレアはシギルエルと目と鼻の先にある都市であり、サンストレアを騎士団の拠点にされる可能性は大いにあったが、騎士団はその性質上、みずからの意思でシギルエルに攻め込んでくることは絶対になかった。理念に反することをオズフェルト・ザン=ウォードが許すわけもなかったし、シド・ザン=ルーファウスを始めとする騎士団幹部もそのような提案をするはずがなかった。その点は、元騎士団幹部である彼が最もよく知ることであり、信頼の置けることだ。
騎士団は、救済のためであれば些細な犠牲も厭わないが、そうでないのであればみずから軍を動かすことは決してなかった。救世神ミヴューラの教えを盲信する騎士団の目には、善と愛で溢れた素晴らしい世界が見えているのかもしれない。だからこそ、自分たちから動くことはないのだろう。
故に騎士団の拠点がひとつやふたつ増えたところで、何の問題もなかった。むしろ、騎士団が戦力を分散させなければならなくなるのだから、好都合といえた。来るべき決戦のとき、騎士団幹部全員を同時に相手にするのは、いささか無謀だ。各個撃破こそ望ましく、そのためにも入念な準備をしなければならない。
しかし、その準備をかける時間がなくなったのが、サンストレアの事件の真相にある。
神人と化したマルカール=タルバーを斃したのは、騎士団幹部ロウファ・ザン=セイヴァスではなく、セツナ=カミヤだったというのだ。あの黒き矛のセツナだ。竜殺し、万魔不当などと呼ばれたガンディアの英雄であり、全力ではなかったとはいえシドの真躯オールラウンドを圧倒した上、撃破したほどの実力の持ち主だ。その事実をシド自身が頼もしげに披露してきたことをつい先日の出来事のように覚えている。シドは、自分が騎士団の同胞に推挙したセツナの実力を証明できると喜んでいたし、その当時は、ハルベルトも一緒になって喜んだものだが、いまとなってはそうはいかない。
騎士団幹部だけでも面倒だというのに、そこにセツナが加わったとあっては戦略を考え直さなければならなくなる。
セツナが従者である死神レムとともに騎士団の戦力に加わったという情報が耳に飛び込んできたとき、彼は、戦略の根本的な変更を余儀なくされた。セツナだけでなく、死神レムまで加わってしまったのだ。悠長に戦力を集めている場合ではないかもしれない。
騎士団は、その理念上、シギルエルに攻め込んでくることはない。
だが、騎士団がセツナとレムを差し向けてくる可能性は、皆無ではなかった。セツナたちが勝手にやったということにできなくもないからだ。無論、現騎士団長はそのような考えは持たないだろうが、幹部の中には、そういう風に暴走してもおかしくはない連中がいる。ベインやロウファ辺りならば、セツナを煽り、シギルエルへの攻撃を仕掛けさせたとしても不思議ではなかった。
ハルベルトは、その知らせを聞いてすぐに戦略の変更のため軍議を開いたが、名案は出なかった。あろうはずもない。現状、戦力差は歴然としている。圧倒的に騎士団側が優勢であり、この状況を打開することは現在の戦力では無理難題というほかなかった。
そんな軍議の沈黙を破ったのは、いつも沈黙を保っていたシヴュラだった。
『速攻を――』
彼は、厳かに口を開くなり、軍議に出ている騎士や将校たちの度肝を抜いた。
『決めるほかないでしょうな』
シヴュラは、ストラ要塞を速攻で落とし、その余勢を駆ってベノアに攻め込むべきだと主張した。騎士団には理念がある。ベノアに攻め込み、市民を盾に戦えば、騎士たちを為す術もなく葬り去ることは決して難しいことではない――という元騎士団幹部とは思えない、いや、騎士団幹部だったからこその発想には、だれもが口をあんぐりと開けたまま、絶句したものだ。
ハルベルト自身、シヴュラがなにをいっているのか、考えたくもなかった。
ベノアの市民を盾にするなど、騎士の風上にも置けぬ発言だった。そのことを強くいい、シヴュラに詰め寄った元騎士に向かって、彼は涼しい顔でこういった。
『ベノアを王家の手に取り戻したいのであれば、これ以外にはありえぬ。騎士団は、セツナ殿、その死神までも味方に加えた。これ以上時間をかければ、騎士団側の戦力が増すばかりでしょう。そして戦力の増大した騎士団がいつまでも我々を放置してくれるものか、どうか』
シヴュラの理知的な容貌は、いつになく透き通っていた。
『騎士団そのものは動かずとも、外部戦力を動かすことに問題はないと考える輩はおりましょう』
シヴュラの考えは、ハルベルトの考えと一致した。
ハルベルトはシヴュラに総兵力の半分である二千を与え、ストラ要塞制圧作戦に関する全権を与えた。すべて、シヴュラに任せることにしたのだ。シヴュラならば成功させてくれるに違いなかった。シヴュラはいつだって、彼の期待を裏切らなかった。彼にすべてを与え、彼にすべてを教えてくれたのがシヴュラだ。ハルベルトがのうのうと王をやっていられるのも、シヴュラのおかげといってよかった。シヴュラがついてきてくれなければ、ネア・ベノアガルドは空中崩壊していたかもしれない。
それほどまでにハルベルトの中で、シヴュラの存在というのは大きい。
だからこそ彼は、とてつもない喪失感と虚脱感の中にいた。
ただひとり、玉座に腰掛けているのも、心に空いた大きな穴を埋めるには、他人の存在が不要だったからだ。
シヴュラが、死んだ。