第百七十三話 静寂
川を挟んでの対峙は、予想以上に長引いていた。
敵軍発見時、登り始めていた太陽が、いまでは頭上で停滞している。昼だ。
ガンディア中央軍三千三百対ザルワーン軍約三千。
北東から流れ落ちていく川は、中天に昇った太陽の光をただひたすらに反射している。川は浅く、流れも緩やかだ。徒歩でも騎馬でも渡れるだろう。衝突するとすれば、川の上だ。
どちらも森を切り開いた街道を背後にして布陣しており、両軍の間に遮蔽物はなかった。行動はすべて筒抜けであり、少しでも隙を見せれば突っ込んでくるのは間違いない。
士気を維持するための弓兵による散発的な攻撃も、効果的ではなかった。川岸までは届くのだが、敵陣には到達しないのだ。届かない矢に脅威はなく、互いに矢を無駄にするだけに終わっている。かといって、弓兵の挑発行為がなければ、無為に時が過ぎていくだけだ。戦意は下がり、戦線を維持することも難しくなる。
傭兵集団《白き盾》は、双翼に展開した陣形の中央最前列を任されている。
いつもの制服の上に外套を羽織っているだけの団員が多い。軽装なのは、団長クオン=カミヤのシールドオブメサイアの性能を当てにしているからだろう。それは団長を含めた幹部たちも同様であり、彼らは、これから戦闘行動になるということを理解しているのかわからないほどにのほほんとしていた。
イリス、マナ=エクシリア、ウォルド=マスティア、グラハム。
だれもが、平時と変わらぬような表情で、敵陣に動きがあるのを待っている。
副長スウィール=ラナガウディは、マイラムに残り、吉報を待っていることだろう。彼は戦闘要員ではない。戦場に出ず、後方から支援するのが彼の役目だ。もっとも、今回の戦争では彼の出番はないだろう。ガンディアの後方は充実しており、クオンたちが心配する必要もなかった。
「敵軍の様子はぼくが見ていよう。みんなはいまのうちに食事を」
クオンは、幹部たちに命じると、《白き盾》団員をかき分けて川岸に歩み寄った。川の向こう側に双翼の陣を敷いた敵の数は、現在の中央軍とほぼ同等と見ていいだろう。こちらは、ミオン軍が戦線を離脱しており、兵数が大きく減少している。もっとも、奇襲のための戦線離脱である。ときが来れば、敵陣を衝き、合流する手筈となっている。
奇襲を使わずとも、四千八百なら三千少々の敵軍を飲み込むこともそう難しくはなかったかもしれない。だが、それにはそれなりの損害を覚悟しなければならない。このあと、ゼオルの制圧と、五方防護陣ヴリディアの突破、そして龍府への攻撃が残っている。戦力を無駄に消耗するわけにはいかないのは、クオンにも理解できた。
それに、ガンディア軍を慎重にさせたのは、敵武装召喚師の存在がある。先発部隊たる西進軍からは武装召喚師と戦闘に入ったという情報はなく、北進軍からもそのような報告はなかった。ザルワーンが武装召喚師を温存しているかもしれず、各地に派遣している最中かもしれない。
魔龍窟の武装召喚師。
クオンも、噂にだけは聞いたことがある。地獄のような場所だという話だが、実際にはどんなものなのかはわからない。その地獄のような場所から出てきた武装召喚師がどれほどの実力者なのかも、だ。弱くはあるまい。武装召喚師は、その身体能力だけで一流の戦士になりうる。それほどまでに鍛え上げなければ、召喚武装に振り回されてしまうからだ。肉体も精神も鍛え上げなければ、武装召喚師にはなりえない。逆を言うと、武装召喚師は、武装召喚術を使わずとも、普通に戦えるし、人並み以上の戦果を上げるだろう。
クオンは、そのような武装召喚師とは違う。この世界に来たことで開花した能力は、武装召喚術の呪文の結語だけで武器の召喚を可能にしてしまった。ウォルドやマナですら驚愕した能力だ。武装召喚術でありながら、武装召喚術ではないなにか。召喚した盾の能力は比類なく、クオン自身の感覚も数倍に引き上げてくれる。いまここで召喚すれば、戦場の隅々まで感覚の支配下に置くことができるだろう。が、いまはまだ使わない。盾を行使するのは、本格的な戦闘が始まってからだ。
敵陣から飛んできた矢が、金属音とともに目の前で弾かれ足元に落ちた。
「クオン、出すぎだ」
いつの間にか隣に来ていたイリスが、声を鋭くしていってきた。彼女の剣技の冴えが、クオンを矢から守ってくれたのだ。彼女の超人的な力は、戦力として申し分ないだけでなく、このようにクオンの身を護ってくれた。クオンが突出して敵陣を視察できるのは、彼女が護衛してくれるだろうという確信があってのことだ。イリスはクオンのことを影に日向に護ろうとしてくれる。クオンは彼女に甘えているのだ。
無論、戦闘ともなればクオンの盾こそが彼女の命を護り、鬼神のような戦いぶりを加速させるのだが。
「ああ、下がろう。長い対峙になりそうだ」
「そうか」
クオンは、イリスを伴って《白き盾》の陣に戻った。マナやウォルドの出迎えを受ける。ふたりは、イリスが護衛についているという確信からか、クオンの行動についてとやかくいってくることはない。もちろん、心配していないわけではないのだろうが、不安があるわけでもないようだ。
クオンは、《白き盾》の団員たちが順番に昼食を終えるのを待ってから、兵糧を口に運んだ。
《蒼き風》が布陣したのは、双翼の中央前列であり、《白き盾》の背後である。
《白き盾》の鉄壁の防御で敵の攻撃を防ぎ、隙を見つけて《蒼き風》が迎撃する、というのがこの布陣の狙いだろう。中央後列にはご丁寧にも大将旗が掲げられ、敵軍が中央を狙いたがるように煽っている。実際、大将軍アルガザード・バロル=バルガザールは中央後列にいて、時には馬上から声を上げて周囲の士気を鼓舞していた。大将軍周囲が一番活気づいているのはそのせいだろう。
敵軍が中央に集中すれば、左翼と右翼の部隊が敵軍を包囲するように動くだろうが、敵も双翼。そううまくはいかないはずだ。翼同士がぶつかり合う形になるのが関の山だ。
期待できるのは、ミオン軍騎兵隊による敵陣背後からの急襲であろう。突如後背を衝かれるのだ。敵軍はあわてふためくに違いない。陣形は崩れる。その隙を逃さず、叩く。
「悪くはないな」
シグルドは、ガンディア軍大将軍の咄嗟の策に、小さくうなった。前方に敵軍を発見したとき、即座にミオン軍騎兵隊を動かしたという。さすがは歴戦の老将といったところか。
とはいえ、ミオンの騎兵隊にとっては見知らぬ地形を疾駆しなければならず、道に迷い、奇襲が遅れれば、それだけ勝機を逸することになりかねない。
対峙に焦れて敵軍が攻勢に出てくるなら、こちらにとっては好都合ではあるのだが。
「ですが、我々に旨味はないかと」
「《白き盾》が全部持っていきそうだしね」
ジン=クレールとルクス=ヴェインの発言も、もっともではある。シグルドたちに背を見せる不敗の傭兵団が強いのは、《白き盾》の幹部連中が強いからにほかならない。
団長を筆頭とする三人の武装召喚師。クオン=カミヤは言わずと知れた無敵の盾シールドオブメサイアの召喚者である。彼が盾を維持する限り、中央部隊の最前列が突破されることはない。
ウォルド=マスティアとマナ=エリクシアは、どちらも強力な武装召喚師だ。一対一に特化したウォルドと、一対一も一対多もこなすマナ。
そして、二剣使いのイリス。人並み外れた膂力の持ち主であり、凄まじい剣の使い手としても有名だ。
《白き盾》の幹部たちは、ひとりひとりが引く手あまたの実力者であり、有名人なのだ。
《蒼き風》の有名どころといえば、剣鬼ルクス=ヴェインくらいのものであり、シグルドがそこそこ知られているのは、彼の所属する集団の団長だからに過ぎない。
シグルドは、別にそれでいいと思っている。それなりの仕事にありつけて、必要なだけの金を手に入れることができている。必要以上の名声は要らないのだ。ときに名声は仕事の邪魔になる。傭兵などという因果な商売をやっていると、特に思うことだ。売れすぎた名が敵を呼び、苦戦を強いられる、なんてこともありうるのだ。くだらない嫉妬や恨みを買うことだってある。
なにごとも程々がいい。
仕事も、金も、女もだ。
「ま、それならそれでいいさ。俺たちゃおこぼれを頂けばいい」
「それもそうか」
ルクスは納得したようなことをいってきたものの、その眼には別の感情が浮かんでいるのがわかる。彼は剣鬼と呼ばれるほどの剣士だ。召喚武装を用いずとも、純粋に強い人間だった。そんな彼が、商売敵のおこぼれで満足するとは思えない。彼に関しては、シグルドも放任するつもりでいる。突撃隊長という名ばかりの役職を押し付けてはいるものの、彼に部下を指揮するような才能はない。
「前金だけで十分に潤っていますからね、今回は」
ジンの一言で、彼がガンディア軍の羽振りの良さに驚いていたのを思い出す。それだけ戦力を欲していたということでもあるのだが、もうひとつの理由は、ルクスがセツナの師匠をやっているということもある。もちろん、無償ではない。ガンディアから授業料として多額の金が振り込まれており、それもあって、ルクスには師としてやる気になってもらわなければならないのだ。
「敵が動き出すまでは暇だが、気を抜くなよ」
シグルドは、幹部以外の部下たちに向かって怒鳴るようにいった。
「挑発に乗るな。応射のみにせよ。矢を無駄にするなよ!」
ジナーヴィは、騎馬で自陣内を巡りながら、声を張り上げていた。翼将ゴードンに声をかけ、左翼から右翼へと移動する。再び大声を発して兵士たちの気を引き締め、翼将ケルルと言葉をかわす。ゴードンにせよ、ケルルにせよ、実戦にはなれていないのだろう。憐れなほど緊張していた。ジナーヴィが声をかけるとぎょっとするほどだ。余程、恐怖に支配されている。
ジナーヴィはむしろ、戦場のこの緊迫した空気のほうが肌に合った。ゼオル待機中の怠惰な空気に比べると、なんと刺激的なことか。意識が冴え渡り、生き返るような感覚さえある。
それも魔龍窟での十年に起因するのだろう。常に死と隣り合わせの毎日は、緊張の連続であり、張り詰めた糸が途切れるようなことはほとんどなかった。フェイとの会瀬すら、そうだ。いつ裏切られ、殺されるのかもわからないのにも関わらず、肌を重ねた。
平穏が退屈に感じるような価値観を植え付けられたのだ。
だからこそ、ジナーヴィには、ゴードンやケルルのような凡庸な人間が必要だった。彼らのような人間との触れ合いは、忘れ去ったなにかを、少しでも呼び覚まそうとしてくれる。
それが大事なのだ、と、彼は川向こうの敵陣を眺めながら考えていた。
正午。
糧食を口にしているものも多い。いま突っ込めば、多少は有利に戦えるのか、どうか。
彼はかぶりを振った。戦闘には多大な体力を使う。自軍の兵士たちにも、食事を取らさなければならない。でなければ、一時は優勢に立つことができても、空腹によって自壊するかもしれない。
中央陣地に戻ると、彼はケイオンを探した。口髭の青年は、フェイと会話していたようだが、困惑気味の表情を浮かべていた。
ケイオンはジナーヴィを見つけると、フェイとの会話を打ちきって駆けつけてきた。ジナーヴィにはその様子がおかしかったが、なにもいわなかった。別のことを口にする。
「あれでいいのか?」
ジナーヴィが尋ねたのは、自軍陣営内を周り、声をかけてくるように進言してきたのがケイオンだからだ。一言一句、すべてケイオンが考えた言葉であり、ジナーヴィは、覚えたての赤子のようにその言葉だけを繰り返した。
「上出来です。全軍の空気が変わりました。あなたには将器が備わっているようだ」
ケイオンの賞賛を、ジナーヴィは取るに足らないものだと判断した。そんな言葉は不要なのだ。必要なのは彼の知識であり、知恵であり、戦術であり、策略である。
「で、なにを話していた?」
「それがですね……」
「暇だから、わたしが敵陣にいって暴れてこようか? って提案したのに、無視するのよ。酷いでしょ?」
ケイオンの台詞を遮ってまで主張してきたフェイの上目遣いに、ジナーヴィは、笑うしかなかった。
フェイの考えもわからなくはない。彼女もジナーヴィと同じで、戦場というのは初めて経験するのだ。ただ肉体を動かし、召喚武装を振り回せばいいだけの戦い方しか知らずに過ごしてきた。武装召喚師の在り方としてはそれで正しい。最前線で戦うのが武装召喚師というものであり、指揮や采配は別のものが振るえばいい。ただでさえ、武装召喚術の修得には時間がかかるのだ。その時間を戦術や戦略の修得に費やしたもののほうが、指揮官としては余程役に立つだろう。
ジナーヴィにもそれくらいのことはわかった。
彼は馬を降りると、手綱を手近の兵に渡した。フェイの頭にぽんと手を置く。
「作戦は軍師殿に任せておけ」
「でもぉ」
不満に頬を膨らませるフェイの様子が堪らないのだが、ジナーヴィは、ケイオンの手前もあり、なにもしなかった。ふたりきりなら抱きすくめていたかもしれない。
「なあに、暴れる機会はいくらでもある。そうだろう?」
ジナーヴィがケイオンに話を振ると、彼は涼やかに微笑して告げてきた。
「もちろんです。聖龍軍の主力はお二方なのですから、当然、そういう機会はあります」
「頼りにしているそうだ。いまは休めるだけ休んでおけ」
「む……わかった。馬車で休んでるよ」
ジナーヴィが強く言うと、彼女は素直に従って後ろに下がった。糧食や備品の積んだ荷馬車以外にも、彼女専用の馬車が用意してあるのだ。ジナーヴィは、フェイのためにならなんだってしてあげようと考えている。その考えている最中こそが、いまの彼にとってもっとも幸福な時間とも言えるだろう。
ジナーヴィは、フェイの後ろ姿をしばらく眺めていたが、思い出したようにケイオンに視線を戻した。彼は、フェイから解放されて、ほっとしたような表情をしていたが、ジナーヴィの視線に気づくと、慌てて元の顔つきに戻した。
「どれくらい待つことになると思う?」
「夜には、動きがあるかと」
「長いな……だが、ここで動き出せば敵の思う壺か」
「はい。迎撃の準備は万全でしょう」
「ならば、貴様の言うとおりに待つとするか」
ジナーヴィが告げると、神妙な顔をしていたケイオンが、おずおずと口を開いた。
「聖将様は、随分とわたしを信頼されているようですが……」
「なにか問題でもあるのか?」
「いえ……」
「俺はただの武装召喚師だ。難しいことはわからん。考える頭は壊れたからな。貴様のような人間がいるのさ」
ジナーヴィは皮肉でもなく笑うと、フェイの馬車に足を向けた。ああいう風に素直に従ったときこそ、要注意なのだ。機嫌を損ねている可能性がある。彼女は一度機嫌を損ねると、長引くことが多く、それがジナーヴィにはたまらなく辛いのだ。
機嫌を取るのは、苦痛ではないのだが。
ギルバート=ハーディは、麾下の騎兵隊とともに森の中を疾駆していた。
ガンディアの大将軍アルガザード・バロル=バルガザールが、敵軍を発見直後に提案してきた作戦は、彼の趣味に実にあっていた。騎兵隊による長駆からの奇襲攻撃。戦陣を大きく迂回して敵陣の背後に出、突撃するのだ。敵陣はさぞ混乱するだろう。突如、背後に敵が出現するのだ。その混乱に乗じて本隊が突出することで、敵軍を挟撃することができる。敵軍は見事壊乱し、中央軍はわずかな損害で目的地への進軍を再開できるだろう。
本隊と敵軍が対峙するよりも早く戦線を離脱した彼らの存在を、敵軍は知る由もないだろう。同時に、ギルバートたちも、敵軍の詳細な情報を得ることはできていない。敵軍がどこに布陣したのか、その程度のことだけを頭に入れて、彼は走りだしていた。
本隊と敵軍は、川を挟んで対峙していることだろう。戦闘は即座には始まらない。まずは互いの動向を伺うところから始まり、動きがなければ、対峙は長引く。どちらかが仕掛け、どちらかが引っかかるまで、対峙の時間は続くはずだ。そして、アルガザードは自らは決して動こうとはすまい。
ギルバートたちの奇襲を当てにしているのだ。
混乱した軍勢を潰すのは、戦闘状態に移行したばかりの軍勢と戦うよりも、ずっと簡単なことだ。被害は最小限に抑えられ、戦果は最大限に上げられる。
アルガザードの期待を、裏切る訳にはいかない。
騎兵隊の運用の巧みさこそ、ギルバートが突撃将軍と呼ばれる所以なのだ。騎馬による長距離移動による奇襲と離脱。そうやって敵陣を刺激することこそ、彼のもっとも得意とする戦い方だった。麾下の兵士には徹底的に馬術を叩き込んでおり、彼の一声で隊列はいかようにも変化した。彼の騎兵隊は、彼の肉体そのものといっても過言ではない。
ギルバートは、進軍速度を上げた。
日は、既に落ちようとしていた。