第千七百三十六話 風来雷臨(三)
シヴュラがシド=ルーファウスと出会ったのは、彼がまだ幼いころのことだった。
十年以上前のことになる。
ベノアガルドに革命が起きる前どころかシヴュラたちが正騎士ですらなかったころのことであり、だれもかれもが若く、あるいは、幼かった。
シドは、ルーファウス家の二男としてこの世に生を受けている。ルーファウス家は、代々騎士団幹部を輩出する家柄であり、ベノアガルドの貴族の中でも名門中の名門と呼ばれる一族だった。シドの父であり、当時のルーファウス家当主であったジグ・ザン=ルーファウスも、ルーファウス家当主の例に漏れず、騎士団幹部に名を連ねていた。彼の兄、シン=ルーファウスは、そろそろ騎士団に入るころだろうと噂されていた。
将来を嘱望されるルーファウス家の嫡男が騎士団に入れば、従騎士や准騎士、果ては正騎士たちがこぞってその取り巻きなりたがろうとするだろう。騎士団幹部となった暁には、その側近に指名してくれるかもしれないし、任務を優先的に回してくれるかもしれないからだ。騎士団内におけるそういう噂は、決して絶えることがなかった。
ベノアガルド自体が腐敗しきっていた。
国民は搾取される弱者であり、騎士は、搾取する強者の側に喜んで属した。王家に隷属し、貴族たちに取り入り、騎士のなんたるかを教育しながらも、それを実践しようとすらしなかった。だれひとり、というのは言い過ぎではない。世界そのものが腐敗しているのだ。腐敗しきった世界で浄化を促そうとするものなど、現れようはずもない。たとえその萌芽が芽生えたとしても、腐敗の中の住人たちに踏み潰され、根絶されるだけのことだ。だれもがそれを知っているから、たとえ理不尽を覚えたとしても、黙っているしかない。
そういう世界だった。
つまり、貴族であり、騎士団幹部という栄光に満ちた将来が約束されるルーファウス家の嫡男は、生まれた時点で勝者だった。自然、態度が尊大になり、傲慢にもなる。ジグ・ザン=ルーファウスも、シン=ルーファウスも、あまりいい噂を聞かなかった。さもありなん。栄光の人生を歩むということは、同時に数多の敵を抱えるということでもある。
そういった連中が叩く陰口に、ルーファウス家はなんの反応も示さない。それが勝者の勝者たる証なのかもしれなかった。
そんな家に二男として生まれたシドと従騎士に過ぎなかったシヴュラが出会ったのは、ただの偶然に過ぎなかった。そして、それ以来、長い付き合いになるとは、彼は想像してもいなかった。できるわけがない。
シドは、二男に過ぎない。騎士団幹部候補である嫡男とは異なり、二男には、なんの力もなかった。権力も発言力も将来性も。しかし、そんな彼でも、騎士団本部に顔を見せると、たちどころに人集りとなる。従騎士、准騎士に混じり、名のある正騎士までもが幼いシドのために腰を曲げ、骨を折るのは、いかにも滑稽だったがそれが当時のベノアガルドの現実だった。
たとえシドがルーファウス家の跡取りにならずとも、彼を無下に扱えば、彼から当主である父や次期当主の兄になにをいわれるかわかったものではない。それに、兄シンが不慮の事故や戦争で命を落とすことだってありうる。その場合、ルーファウス家を継ぐのはシドになる。そうならずとも、騎士団においてそれなりの発言力を持つ立場になる可能性は低くはないのだ。いずれにせよ、シドの心象を良くしておくことは無駄にはならないだろう。
騎士道精神を貫くことよりも騎士団政治に余念のない騎士たちの姿を見ては、シヴュラは、内心ため息をついたものだ。彼が騎士団に入ったのは、家柄ということもあるが、最大の理由はベノアガルドの現状を嘆いたからにほかならなかった。民を顧みず、王家貴族、騎士団、一部の商人のみが利権を貪り、国民がいくら困窮に喘ごうとも耳を貸さず、目を向けようともしない。そんな現実を変えるにはどうすればいいのか。
まず騎士団を変えることだ、と、彼の近しい友人はいった。フェイルリング=クリュースだ。有力貴族クリュース家の嫡男としてこの世に生を受けたフェイルリングは、ベノアガルドの政治腐敗の実態をシヴュラ以上に知っていた。彼は、正義感の塊のような人間だった。腐敗の象徴といっていいクリュース家からなぜ彼のような心根の人間が生まれたのか、まったく理解ができないほどに眩しく、烈日のように熱い男だった。
シヴュラは、フェイルリングの夢を叶えるべく、彼とともに騎士団に入り、ともに学んだ。そうして従騎士から准騎士へと昇格してしばらくしてからのことだ。
まだ十歳にもなっていなかった当時のシドが、騎士団本部に訪れた。シド少年は、やはり、増長の気配のある可愛げのない子供だった。やはり、というのは、彼の兄シンの幼いころそのままだったからだ。ジグ・ザン=ルーファウスの育て方がシンの性格を作り上げたのなら、シドもまた、そのように成長せざるを得まい。
だれも、騎士団幹部という権力者たるジグのやり方に口出しなどできないのだ。
シドは、自分をちやほやと持て囃すものたちですら、ひどく醒めた目で見ていた。物心付く前から見慣れた光景だったのだろう。そういった愚物をこれでもかと見てきたに違いない。ルーファウス家に取り入ろうとするものは限りなく多い。
内心、蔑んでいたとしてもなんら不思議ではない。特に当時の彼は年端もいかぬ子供だったのだ。思わず表情に出てしまったのも、彼の幼稚さ故だったのだろう。そんな子供にさえ媚びへつらわなければならない騎士たちが哀れでならなかった。
木剣を用いた訓練において、厳しい訓練を乗り越えてきた騎士たちを相手にまともに戦えるはずもない子供に対し、手酷い敗北を演じる同僚たちの姿は、悲劇を通り越して喜劇になっていた。まるで王族に対する接待の様相を呈していたが、さもありなん。当時、騎士団における幹部の立場は、ベノアガルドにおける王族と同じだったのだ。騎士団という国における王が団長であり、その側近たちはいうなれば王の一族といってもよかった。騎士たちが幹部の子息に対し、徹底して媚びを売るのは、騎士団そのものが腐敗しきっていたからに過ぎない。
子供の木剣をまともに喰らい、大袈裟に転げ回る彼らもまた、被害者なのだ――などと思うわけもない。みずから喜んで腐りきった世界に飛び込んでいくものたちにかける情けなど、シヴュラにはあろうはずもなかった。
そして、シヴュラには、シドのような子供に対し、わざと負けてやるほどの心の広さも持ち合わせていなかった。
シヴュラは、同僚たちがシド少年の剣才に恐れをなし、平伏する中、最後の訓練相手に志願した。シドは鷹揚にうなずくと、木剣を構えたものだ。筋は良かった。子供とはいえ、既に剣の使い方をしっかりと見に付けている。構えもしっかりしていたし、なにより面構えが良かった。そこで初めて、シヴュラはシド少年を見直した。ただの傲慢なだけの子供ではないかもしれない。
しかし、だからといってシヴュラが手を抜いてやる道理はなく、彼は、シド少年を一撃の元に昏倒させた。シドには、なにが起こったのかわからなかったかもしれない。
無論、シドが気を失って倒れた瞬間、大騒ぎとなった。シヴュラは責任を問われ、即座に謹慎処分を言い渡された。騎士団幹部の子息を気絶させたのだ。騎士団王国の王子のひとりを殴り倒したと言い換えてもいい。シドが本気で来いといった、などといったところで、だれも取り合うまい。騎士たちにしてみれば、シヴュラの暴挙のせいで、自分たちまで巻き込まれることを極端に恐れた。ジグの耳に伝われば、彼は激怒し、その怒りの矛先を現場にいたすべての騎士に向けるだろう。故に騎士たちはシヴュラを瞬間的に処分するという荒業に出たのだ。シヴュラだけの責任とすることで、自分たちがとばっちりを食らうことを防いだ。さすがは処世術においては天才的といってもいい騎士たちだ。その判断の巧みさで、ジグの激怒を交わすことに成功した。
シヴュラは、それから半年間、蟄居しなければならなかったが、彼はなんとも思わなかった。大人げない、などとも想わない。シド少年には、向上心が垣間見えた。しかし、増長し、伸び続ける鼻をそのまま放置していれば、その向上心も無駄となる。いまのうちに、一度へし折っておくべきだ。もっとも、それでシドがへそを曲げればそれまでのことであり、成長もなにもないのだが。
半年後、謹慎処分を解かれたシヴュラは、騎士団本部で騎士たちを相手に訓練に打ち込むシド少年の姿を目の当たりにする。そこに、シド少年に阿り、大袈裟にのたうち回る騎士の姿はなかった。シドに対し、一切の手加減なく指導する騎士とそれに食らいつく少年の姿は、見違えるようだった。
シド少年は変わった、と同僚が囁いてきた
彼はルーファウス家の権力を投げ捨て、立派な騎士になるにはどうすればいいのか教授して欲しいと騎士たちに頼み込んだ。シヴュラに一瞬にして敗北してしまったことで、自分の弱さを痛感したらしい。子供なのだ。負けて当然なのだが、自尊心の強い彼にはそれがたまらなかったに違いない。
シドのそういう負けず嫌いなところを叩いていけば、彼は素晴らしい騎士へと成長するだろう。
シヴュラは、確信し、シドとの再会を果たした。
シド少年は、自分を打ち負かしたシヴュラに対しても、臆することなく教授を願い出、シヴュラはそれを請け負った。
十年以上も昔の話。
シヴュラとシドの長い付き合いの始まりの話――。
(なにを……いまさら)
荒れ狂う雷光の中、脳裏を過ぎ去っていった懐かしい光景に彼は苦笑を禁じ得なかった。シドの全力がエクステンペストの装甲を粉砕し、シヴュラの精神に直接的な痛みを与えてきている。それがあまりにも致命的であるが故に走馬灯を見たのかもしれない。
馬鹿げたことだ。
彼は想う。
いまさら栄光に満ちた過去を振り返って、どうなるというのか。失われたものは失われたままだ。どれだけ懐かしがろうと、どれだけ欲そうと、もはや取り戻すことはできない。手から零れ落ちた水を広い直せないのと同じように、過ぎ去ってしまった時間を巻いて戻すことなどできないのだ。
“大破壊”によってすべてが打ち砕かれ、なにもかもが変わってしまった。
騎士団はあるべき形を失い、瓦解した。ベノアガルドそのものが瓦解したといっていい。シヴュラが愛し、守ろうとした国は“大破壊”という未曾有の大災害によって破壊され尽くした。結ばれた絆も、繋がれた想いも、結ばれた約束も、なにもかもがばらばらになってしまった。
もう二度と、元には戻らない。
(ハルベルト……)
シヴュラは、エクステンペストの力を振り絞った。魂に刻まれ、いまも灼けるように輝く救世神ミヴューラの力、救力の最大顕現たる真躯。その残された力のすべてを使い、オールラウンドを駆るシドを打倒しなければならない。シドを斃し、ベインを斃し、セツナを斃す。そしてストラ要塞を滅ぼし、ベノアへの道筋を作る。
それが彼の最後の役割であり、あの日、救いきれなかった少年へのせめてもの償いだ。
「こんなものか! シド・ザン=ルーファウス!」
吹き荒ぶ翡翠の竜巻が雷の嵐を消し飛ばし、オールラウンドの外装を削りながら吹き飛ばした。
距離が開く。
地上へと落下するオールラウンドに向かって、追撃の竜巻を放つ。両方の肩当てから発射する竜巻は対象を自動的に追尾し、破壊する。爆発的な暴風に吹き飛ばされたシドはすぐには態勢を立て直せない。思った通り、ふたつの竜巻はオールラウンドに直撃し、左腕を吹き飛ばし、右足の爪先を抉り取った。オールラウンドの巨躯が、そのまま地面に激突し、土砂が舞い上がる。
シヴュラは、すぐさま右手に風を集めて三叉槍を具象化すると、大きく振りかぶった。そして、起き上がろうとするシドに向かって投げ放つ。手を離れた三叉槍は、その瞬間、黒い竜巻となってオールランドの腹を貫いていた。
オールラウンドの金色に輝く双眸がこちらを見た。
「シド。君は強くなった」
強く、雄々しく、立派になった。
あのとき、ただの傲慢な子供に過ぎなかった少年は見る影もない。騎士団の副団長を務められるほどの男になったのだ。素直に喜ぶべきことだ。自分の元で育った少年が、自分以上に優れた人間になれたこと。そのことを喜ばずしてなにを喜ぶのか。
いや。
喜ばしいことであるはずなのになぜ、こんなにも虚しく、悲しいのか。
「だが、それでは、その程度では、な」
「この程度……か」
オールラウンドが右手で腹の穴に触れる。凄まじい痛みが発生しているはずだ。真躯は、肉体ではない。救力による武装の変容である幻装、その究極系が真躯なのだ。全身に幻装を纏っているようなものであり、多少の損傷では痛みが生じることはない。しかし、真躯同士の戦いでは、痛みが発生する。互いに救力をぶつけ合うからだ。救力は真躯を纏う人体に直接叩き込まれる。真躯が救力によって損壊すれば、それだけ痛みも大きい。
シヴュラ自身、多大な痛みを感じている。先程の雷撃の嵐は、強大な救力の奔流だったのだ。エクステンペストの外装を焼き尽くし、その電熱によってシヴュラ自身にも激痛を与えた。
シドも今、激痛の中でのたうち回りたい気分だろう。腕を吹き飛ばされ、足の爪先を削られ、腹を貫かれている。
「これで終わりにしよう」
シヴュラは、またしても手の内に風を集め、三叉槍を具象化した。