第千七百三十四話 風来雷臨(一)
「スオール卿が……ネア・ベノアガルドについたというのですか!?」
「ああ」
フロードの信じられないといった叫びも、シドは冷ややかに肯定したのみだ。彼にとっては、別段驚くべきことではないのかもしれない。オズフェルトもその可能性について言及していたのだ。覚悟していたことではあったのだろう。ただ、それでもシドは、信じたくないといった表情を浮かべていたが。
確信を持って、告げてくる。
「あれは彼の真躯エクステンペストだ」
「エクステンペスト……」
セツナは、目を凝らし、嵐の中心に意識を集中させた。荒れ狂い、大地も木々も要塞も、なにもかもを飲み込み、打ち砕き、巻き上げる暴風の彼方。吹き荒ぶ滝のような雨の中。それは存在した。人間とは比べ物にならないほどの巨躯を誇る、甲冑を纏うもの。セツナは確かに見覚えがあった。十三騎士の真躯はすべて、一度は見たことがあり、記憶しているのだ。
曲線が多様された甲冑は翡翠色の輝きを発しており、光背から伸びた白銀の翅が生えているようだった。ロウファ・ザン=セイヴァスの真躯ヘブンズアイよりは厚みがあるものの、他の真躯と比べると華奢な部類に入るはずだ。丸みを帯びた肩当ては巨大で、そのせいで全身が大きく見えている。流線型の兜は頭部全体を覆い隠しており、目の当たりから金色の光が漏れていた。真躯なのは間違いない。神人とはまるで違った。真躯は、救世神ミヴューラの力なのだ。神々しくて当たり前だった。神人とは、根本的に異なる。
その真躯が暴風をどうやって起こしているのかは不明だが、シドのいうとおり、エクステンペストの能力なのだろう。
シヴュラ・ザン=スオール。
(異名は確か……“疾風”)
疾風というよりは暴風、嵐といったほうが正しく思えるのだが、シヴュラが風に関する能力の使い手であることはセツナも知っていることだ。真躯は、十三騎士固有の能力を強化拡大している可能性がある。雷光を操るシドが雷神の如くなり、天弓のロウファがまさに天から光の矢を放つ存在となっていたのと同じように、風使いのシヴュラがこれほどの暴風雨を起こすことができたとしてもなんら不思議ではない。
「セツナ殿は後方を頼みます」
返事をする暇もなかった。
「シヴュラは、わたしが討つ」
シドがストラ要塞中心棟の屋上から、嵐に向かって跳躍した。空高く飛び上がったかと思うと、剣を抜く。刀身に雷光が奔る。
「轟けオールラウンド」
シドが告げた瞬間、剣が帯びた雷光が彼自身を包み込み、つぎの瞬間爆発的に膨張した。肉体の変容と巨大化。シドが真躯を顕現したのだ。
シドの真躯オールラウンドが纏うのは、鋭角的な白銀の甲冑だ。稲妻を象徴するかの如き形状は、彼の能力や異名に相応しい姿といえる。頭部を覆い隠す兜も、肩当ても、籠手も胸甲から背甲、腰回り、脚具に至るまで、雷撃のような鋭さが余すところなく表現されている。シヴュラやロウファの真躯に比べると肉付きのあるほうだ。光背はさながら昔ながらの雷神が背負う太鼓のようであり、二重の輪環に付属する円盤のようなものが雷光を発している。やはり、間近で見る真躯は、震えるほどに神々しく、頼もしい。
真躯の顕現は、そうして一瞬で終わった。
セツナは、久々に見るシドの真躯から受ける迫力に息を呑み、雷光を帯びた真躯が暴風の中へと突っ込んでいく様を見届けた。雷光そのものたるオールラウンドを雷神と見なせば、暴風を操るエクステンペストは風神と呼ぶべきだろうか。
つまりこれは、雷神対風神の戦い、ということになるのかもしれない。
「あれがルーファウス卿の……真躯とやらでございますか」
「そうだぜ。あれがシドの真躯オールラウンドだ。シヴュラのこたぁ、シドに任せておけばいい。俺たちゃ後ろの奴らを撃滅して、少しでもシドを安心させんとな」
ベインが後方――ストラ要塞北西方向に目線を向けて、告げた。
「頼りにしてるぜ、セツナ殿!」
「あ、ああ、はい。任せてくださいよ」
セツナは、安請け合いにうなずきながら、シドを一瞥した。雷光そのものとなって暴風の渦の中に飛び込んでいったオールラウンドに竜巻が襲いかかるのが見えた。嵐の中にさらなる渦が発生したのだ。風神と呼ぶに相応しい風使いの戦い方だが、シドはその程度予想していたのだろう。軽々とかわし、エクステンペストに肉薄する。雷光の剣と暴風の剣が激突し、暴風圏の中心に閃光が走った。
(御主人様?)
「わかってる」
レムの囁きに声を出してうなずくと、セツナは、シドに向けていた意識を自分の敵に向けた。北西方向から迫りくる敵軍に対し、ストラ要塞の騎士たちはすでに迎撃のため、要塞を出撃していた。要塞を盾に迎撃することは残念ながら、できない。要塞の堅牢さなど無意味に飲み込む暴風が背後から迫ってきているのだ。もちろん、要塞のすべてが飲み込まれるまでにシドが決着をつけてくれるものと信じてはいるが、だからといって、飲み込まれる可能性を考慮しない訳にはいかない。要塞ともども暴風に飲まれれば、運良くとも落下死は免れえない。いや要塞を根こそぎ巻き上げるほどの風速。巻き込まれたら、落下する以前に体が寸断され、死ぬかもしれない。
いずれにせよ、暴風から逃れるためには要塞を北西に抜け出す以外にはなく、それがネア・ベノアガルド軍の戦術であることは百も承知だった。
セツナは、レム、ベイン、フロードとともに屋上から飛び降りると、騎士たちと合流しながら要塞の北門を出た。轟く雷音と逆巻く暴風の二重奏が、雷神と風神の激突の苛烈さを伝えてくる。
真躯がとんでもない力を持っていることくらいは知っている。セツナは一度真躯に完全に敗北した上、真躯の絶大な力を前にして、ラグナが命を捨てる覚悟をしなければならなかった。それほどの力を持ったもの同士がぶつかりあえばどうなるのか。想像できないわけもない。激突する強大な力の余波が、さながら天変地異の如く周囲に吹き荒れ、嵐が起き、雷が雨の如く降り注ぐ。もちろん、戦場から少し離れたセツナたちの元にまで影響が出ることはなかったものの、セツナは、改めて真躯の恐ろしさ、凄まじさを理解した。同時に、シドのことが不安だった。
シドは、シヴュラに向かうとき、どこか思い詰めたような顔をしていた。十三騎士としての責任感がそうさせたのか、それとも、シトとシヴュラの間になんらかの想いがあるのか。どちらにしても、シドが本領を発揮できずに敗れる、などということがないことを祈るしかない。
(それに引き換え)
セツナたちの前方では、既に戦闘が始まっていた。
ストラ要塞北西部の荒れ地には、雨は降っていない。風雨は、エクステンペストが起こしたものであり、自然現象ではないのだろう。範囲以外には、雨さえ降らないようだ。だが、空は黒黒とした雨雲に覆われており、星ひとつ見当たらない。暗い空の下には荒れ果てた大地が広がり、その荒野で騎士団とネア・ベノアガルド軍がぶつかり合っていた。激しい戦闘だ。互いに負傷者が続出している。
ネア・ベノアガルド軍の兵も、元を正せば騎士団に所属していた騎士がほとんどであるはずだ。ネア・ベノアガルドを打ち立てたハルベルト=ベノアガルドに付き従った騎士が、その軍勢の主力であろうし、シクラヒムを制圧し、マルディア人を配下に加えたからといって、主戦力が変わるはずもない。
(こっちは、普通か?)
後方から聞こえてくる雷鳴と風鳴りに、つい振り返りたくなるが、ここはシドに任せるほうがいいだろう。十三騎士同士、なにか思うところがあるのだ。だから、彼が飛び、ベインがそれを受け入れた。でなければ、セツナに任せたはずだ。
セツナは、後背を任された。ネア・ベノアガルドの軍勢を蹴散らすことに全霊を注ぐべきだった。だから彼は意識を前方の戦場に向け、ベインの後に続いた。ベインは巨漢に似合わぬ速度でセツナの先を行く。その後ろをセツナ、レム、フロードが並走していた。ストラ要塞の騎士の大半は、既に戦闘状態にあり、セツナたちとともに戦場に向かっているのは少数だった。
「敵はおよそ二千。その大半が従騎士で、准騎士は百人かそこらだろうよ。正騎士となりゃあもっと少なく見積もっていい」
「階級の違いで戦力の差があると?」
「あるに決まってんだろ。准騎士は救力を、正騎士となれば幻装を用いることができる」
「なるほど」
それならば、戦場の激しさも納得が行く。そして、これまでの騎士団との戦いが凄まじかった理由にも合点がいった。准騎士以上は、救力が標準装備なのだ。救力とは、救世神ミヴューラの与えた力の一種であり、身体能力を向上させるほか、治癒力を高めたり、高速移動を行うといったことができるという。ある程度の召喚武装を手にしている状態で、なおかつなんらかの能力が使えると考えていいのだろう。
正騎士以上が使うことのできる幻装は、さらにその上を行く能力といっていい。かつて、セツナはシドたちの幻装に苦汁をなめさせられた記憶がある。シドの雷光剣も、ロウファの光弓も、召喚武装ではなく、幻装なのだ。幻装とは武器に救力を纏わせ、性質を著しく変容させたもののことをいう。元となる武器の質そのものは重要ではなく、どのような武器であっても同じだけの救力を注げば、同じ性質の幻装へと変化するという。つまり、シドの場合は、木剣であっても鉄の剣であっても、雷光剣へと変容させることができるということだ。
セツナはベインの説明で驚いたのは、救力はともかく、幻装を正騎士ならば使えるという話だった。十三騎士特有の技能だとばかり想っていたのだが、どうやらそうではなく、正騎士ならば必須の技能であり、正騎士以上ならばだれもが使えるものであるらしい。正騎士と十三騎士とでは精度も練度も違うと想いたいが、それはわからない。
それに、騎士団を脱退したはずのネア・ベノアガルド軍の元騎士たちが救力や幻装を使えるのも、なにか理不尽に思えてならなかった。救世神ミヴューラから与えられた力ならば、ミヴューラの理念に反するものたちが使えるのは、おかしい。が、ミヴューラがいない以上、取り上げることもできないのではないか、と考えると納得するしかない。
「ってことは」
セツナは、フロードを横目に見た。彼は、正騎士なのだ。
「もちろん、この不肖フロード・ザン=エステバン、我が幻装を以て、我が騎士団に勝利をもたらす所存ですぞ!」
フロードは、手にした槍を掲げながら、意気軒昂といった風情でいってきた。ベインが苦笑混じりに忠告する。
「こっちにゃあセツナ殿とレム殿がいる。無茶だけはするなよ」
「はっ!」
フロードの威勢の良さに、つい笑みが溢れる。すると、レムがこっそりと話しかけてくる。
「御主人様、ひとつお伺いしたいことがあるのですが」
「なんだ?」
「ネア・ベノアガルドの方々は元々騎士団の騎士様なのでございましょう?」
「そうだな」
セツナは、レムがなにをいいたいのかを理解した。元騎士を殺すことに対し、騎士団は
「でしたら――」
「気遣いは無用に頼むぜ、レム殿。奴らは、騎士団の理念には従えないといったんだ。騎士団そのものを否定しやがった。ベノアガルド王家なんていう腐敗の象徴に縋り、再興を望んだ。愚かにもな」
ベインが胸の前で両拳をぶつけながら、前方を睨んだ。彼の全身から立ち上る熱気は、彼の腹の底から湧き上がる怒りそのもののなのかもしれない。
「いかにベノアの市民が騎士団に失望したからといって、ハルベルトの王家再興を支持するものはほとんどいなかった。腐敗した政府で甘い汁を啜っていた連中だけが、ネア・ベノアガルドに流れた。どういうことかわかるかい? ベノアガルドの国民は、革命以前の腐敗しきった世界になんざ戻りたくないと考えているのが大半なんだよ。そんな国民の想いを無視した過去への回帰を強引に推し進めようとする連中に情けなどくれてやるものか。容赦などしてやるものか」
ベインもまた、救済を掲げる騎士団の一員にして、幹部であることを思い知らされる。彼の中には、紛れもなく弱者を救わんとする想いが渦巻いていたし、強者が弱者を搾取していた時代への怒りは憎悪とすらいえるほどに研ぎ澄まされていた。
ネア・ベノアガルドに賛同するような連中に手加減は不要ということだ。
「ラナコート卿、あれを」
「なんだ?」
「あれは……」
フロードの指差す先、戦場のど真ん中、騎士団騎士たちが空高く打ち上げられているのが見えた。敵軍元正騎士の幻装によるものかと一瞬想ったものの、そうではなかった。山のように巨大な化け物が出現していた。全身が白く奇妙に膨張した怪物。背中の突起がさながら恐竜の背びれのようであり、岩塊のように大きな拳が地面に叩きつけられるだけで大地が割れ、振動した。
考えるまでもなく、神人だった。それも一体ではない。敵兵の中から次々と神人が出現し、戦場は阿鼻叫喚地獄絵図へと変わっていく。
「はっ、神人が混じってやがっただと? 悪い冗談だな」
ベインは、吐き捨てるように告げると、地面を蹴るようにして飛んだ。
「ハルベルトの野郎、どこまで堕ちやがった!」
ベインの絶叫は、慟哭のようですらあった。