第千七百三十三話 嵐の夜
セツナたちがストラ要塞に入ったのは、年が開けた直後、一月一日だということには触れた。
年明けというのは、この世界においても重要な節目だ。新たな一年の幕開けを祝福し、一年間の無病息災を祈るというのは、どこの世界、どこの国でも同じなのだろう。ガンディアでもそうであったし、ベノアガルドでも、変わらない。
ただし、ベノアガルドは、国王と王妃が新年の挨拶を行い、国中に発布されたガンディアとは違い、騎士団長がなんらかの宣言を国民に向けて行うというようなことはなかった。騎士団は、ベノアガルドの政治を司っているとはいえ、国民の代理人として国家運営を行っているという理屈がある。国民のためにという立場こそが騎士団に絶対的な大義を与え、国民からの支持を集める要因となっているのだ。支配者の如き振る舞いは、憚られた。
ベノアガルドの年始というのは、国民主導によるお祭り騒ぎであり、ベノアではいまごろ大変な騒ぎになっているに違いない、とフロードがいった。ロウファ・ザン=セイヴァス配下の正騎士フロード・ザン=エステバンは、セツナとレムに付きっきりで面倒を見てくれている。フロードのおかげで、セツナたちはなんら不自由なく騎士団に溶け込めているのだ。
「騒ぎ、でございますか?」
「元々ベノアの人間というのは、お祭り騒ぎが大好物でしてな。革命以前から、なにかと天地をひっくり返すような大騒ぎをしていたものなのです。それが、年始恒例のものとなったのは、革命以降のこと。前団長閣下が、市民の声に耳を傾けられ、ベノア全体を巻き込むように仕向けられたのが始まりとされていますな」
「へえ」
「しかしながら、“大破壊”直後の一昨年、“大破壊”の傷痕も深い昨年の年明けには行われなかったのです。それが今年は開催されることとなり、騎士団も総出でお祭りに当たっていることでしょう。わたしとしても、家族と一緒に年明けを迎えたかったものですが」
「それは、残念ですね」
「なにを仰る」
フロードは、自分の胸に拳を当て、強い口調でいってきた。
「家族との団欒はベノアに帰ればいつでも取れます。しかし、ベノアガルドの防衛となればそうはなりませんでしょう。いましかない」
「フロード様」
「まあ、セツナ殿とレム殿の手前、わたしなど不要かもしれませんが」
「そんなこと、ありませんよ」
セツナは、お世辞ではなく、いった。
「フロードさんには、本当に助かってますから」
フロードが人好きのする笑顔になるのを見て、ほっとする。
フロードほどひとのいい人間もいないのではないか、と、ここのところ、よく考えるのだ。彼が常に目を光らせてくれているから、セツナたちは安心して騎士団の中にいることができている。彼のような仲介者がいなければ、もう少し居心地の悪い世界だったのは想像するに余りある。
騎士団に残った騎士たちは、救世の理念に心から賛同するものばかりだ。真に賛同できないものは、外部からの誘惑に負け、去っていった。となれば、自然、純粋な気高さだけをもったものばかりが集まり、さらに精錬されていく。端的にいうと、とっつきにくいのだ。
騎士のだれもが“大破壊”以降の現実に疲れ果てながら、それでも救世の騎士たろうとし、騎士団の理念を胸に気高くあろうともがいている。オズフェルト、シド、ルヴェリス、ベイン、ロウファたち十三騎士もそうだし、フロードのようなただの正騎士さえもそのような心意気を持っている。
ときに、眩しく見える。
セツナは、そういったひとたちの心の輝きを見るたびに、騎士団の協力要請に応じて良かったと想うのだ。彼らの魂が発する光を目の当たりにするたびに、自分のか弱く、脆く、愚かで救いがたい魂の有り様を見つめ直すことができる。地獄へ逃げ延びた己の、吐気がするほど脆弱な魂を直視する力を得ることができる。
そんな風にして、一月一日の夜を迎えた。
なにごともないまま夕食を終えたセツナたちは、シドたちとの会議のあと、割り当てられた部屋に入り、就寝した。それからどれくらいの時間が経過したのだろう。突如、なにかが崩壊するような轟音が響き渡り、要塞そのものが激しく震撼した。
セツナは、寝台から跳ね起きるなり、隣で眠っていたレムを叩き起こし、寝ぼけ眼の彼女を抱えて部屋を飛び出した。レムは本来、眠る必要はない。眠らずとも、体力さえあれば無制限に活動できるらしい。しかし、二年あまりの長い眠りが彼女に睡眠を癖付けてしまったらしく、再会以来、彼女は夜になれば眠った。セツナはそれを悪いこととは想わない。人間らしい生活習慣は、彼女を多少なりとも幸福にしてくれるに違いないと信じたし、体力回復のためにも睡眠は重要ではあったからだ。
「あれ? 御主人様?」
セツナの腕の中で、レムはきょとんとしていた。が、セツナは説明もせず、要塞内の通路を駆け抜け、階段を駆け上り、外に飛び出した。瞬間、凄まじいまでの風雨がセツナたちに襲いかかる。
セツナが飛び出たのは、要塞の中心棟の屋上であり、そこからは要塞の全景を見渡すことができた。
「これは……」
「なんでございますの?」
戸惑うばかりのレムを解放し、呪文を唱える。
「武装召喚」
爆発的な閃光が全身から噴き出す感覚の中で、セツナは、暗雲渦巻く夜空を目の当たりにしていた。星ひとつ見当たらない空模様。黒黒とした分厚い雲が天を覆い隠し、渦を巻いている。渦巻くのはなにも雲だけではない。
凄まじいばかりの暴風がストラ要塞を根こそぎ吹き飛ばすかの勢いで吹き荒れ、滝の如く降り注ぐ豪雨が全身に突き刺さって痛いほどだった。
まさに嵐が巻き起こっている。
セツナを叩き起こしたのは、その暴風雨がストラ要塞の城壁を吹き飛ばしたときの爆音であることは、黒き矛を手にしたことで把握した。異常なほど強化された視力が、大地を掘削し、土砂を巻き上げんばかりの勢いで旋回する暴風によって、徐々に要塞が侵蝕され始めているのを捉えていた。悲鳴も聞こえる。警戒にあたっていた兵士たちが暴風に吹き飛ばされ、そのまま空高く舞い上げられたまま旋回し続けているようだった。断末魔が聞こえた。空中で瓦礫と激突し、即死したようだった。
暴風圏は、みるみるうちに拡大しており、掘削範囲の拡大に従って、つぎつぎと城壁が吹き飛ばされ、瓦礫となって天に舞い上げられていく。兵士たちが要塞内に逃げ込むが、このままでは要塞そのものが暴風に飲まれるのではないか。そしてそうなれば、だれもが身動きも取れないまま死を待つしかなくなるだろう。暴風の中、自由に動き回れるものなどそういるものではない。
「御主人様、これはなにものかの仕業のようでございますね」
「見りゃあわかる」
どう見ても自然災害の類ではない。
これほどの暴風が発生することが仮にあるのだとしても、移動せず、暴風圏を拡大し続けるだけ、などということがあろうはずもなかった。台風でもなんでもない。なにものかの意思が介在しているとしか想えない。
セツナは、黒き矛を握りしめながら、目を凝らした。闇の彼方、暴風圏の中心になにかがいるのは明らかだった。力を感じる。とてつもなく強大な力のうねり、意志の奔流。怒り、荒れ狂い、唸りを上げ、逆巻いている。まるで叫び声だ。まるで、魂がなにかを訴えているような、そんな暴風。
「せっかく御主人様の夢を見ておりましたのに、無粋な輩もいるものでございます」
などとくだらないことをいいながら、レムが“死神”壱号を呼び出す。闇の衣を纏う少女は、レムの背後に立つと、己の影の中から巨大な鎌を取り出した。曲線を描く大きな刃が黒くも禍々しい。
「どんな夢だ?」
「いえませぬ」
「どうせろくでもない夢なんだろ」
「はい」
「認めるのかよ」
セツナはレムの軽口に呆れながら、暴風が止むことなく勢力圏を拡大し続けていることを確認した。ストラ要塞の騎士たちが対応するべく動き回っていることがわかるものの、これでは、どうすることもできないだろう。要塞を侵蝕する暴風がなにものかの攻撃であることは明らかだが、それを止めるためには攻撃者を見つけ、打倒する以外にはない。それは、騎士たちでは不可能に想えた。
シドとベインならば話は別だろうが。
「セツナ殿! ここにおられたか!」
階段を駆け上がってきたフロードが、セツナの左に飛び出してくる。セツナは、鎧を着込んだ彼の姿を確認して、警告した。
「フロードさん、下がってください。危険です」
「なにを仰る! 斯様なときこそ、我らが騎士道精神を示すときですぞ」
「しかし」
セツナはフロードを死なせたくなかったため、食い下がろうとしたが、できなかった。なぜなら、別の騎士がセツナたちのいる屋上に姿を見せたからだ。
「セツナ殿、フロードのいうとおりです。あなたひとりに任せては、ベノアガルドの騎士の名折れ」
シドがベインを伴って、屋上に姿を見せたのだ。ふたりとも鎧を着込んでいる。対して、セツナは、アズマリア製の戦闘服であり、レムはメイド服だ。寝間着ではないのは、夜襲の可能性を考慮してのことだった。
「そうだぜ、セツナ殿。ここは力を合わせて事に当たるべきだ。敵はひとりやふたりじゃない」
ベインが、嵐とは正反対の方角に視線を向けた。つられて見やると、ストラ要塞の北西方向からネア・ベノアガルドの旗印を掲げた軍勢が迫ってきていた。どうやら数日前、ベインが撃退した軍勢のようだ。迎撃され、撤退するふりをしてストラ要塞の北側に回り込んでいたのだろう。無論、この南東から来る嵐と挟み撃ちにするために、だ。兵数は二千ほど。通常戦力ならば物の数にもならない。セツナひとりでも、十三騎士のいずれかでも、たやすく対応できるだろう。
問題は、迫り来る嵐のほうだ。このままなにもせず放置していれば、ストラ要塞全体が飲み込まれ、破壊され尽くす。ストラ要塞を失えば、ベノアが裸になるのだ。ネア・ベノアガルドの本格的な侵攻を許すことになりかねない。
「それにあれは……」
シドは、嵐の彼方を睨み据えていた。土砂や瓦礫を巻き上げ、天災そのものとして逆巻く暴風の彼方。
「あれは? 心当たりがあるんですか?」
「きっと、彼だろう」
シドは、腰に帯びた剣の柄に手を置いた。
「シヴュラ・ザン=スオール」
シドの一言にフロードがぎょっとするのが気配だけでわかった。