第千七百三十話 生き恥
「“大破壊”……」
レムが、小さくつぶやいたのは、セツナと彼女のために用意された一室に入り、ふたりきりになってからのことだった。
フィンライト邸に到着してから既に数時間が経過している。シャノアの容態を見、話を聞いたあと、夕食を取ることになったのだ。既に窓の外は夜の闇に覆われている時刻となっていた。夕食の場には、ルヴェリスは現れず、セツナとレムにフィンライト家の使用人たちが世話係としてついてくれているだけのなんとも寂しい空間だったが、それは致し方のないことだ。ルヴェリスは、屋敷で食事をするときは、シャノアと一緒だというのが原則だということだった。一瞬一秒でも長くシャノアの側にいてやりたいというルヴェリスの気持ちは、痛いほどわかる。話によれば、シャノアはルヴェリス以外のだれにも心を許していないのだという。長年シャノアに仕えてきた使用人たちですら、彼女には認識さえしてもらえていないのだ、と。それだけを聞くと、シャノアにとっていかにルヴェリスが大切な存在だったかわかろうというものだが、使用人たちにとっては辛いことではあるだろう。
食事の後は風呂に入り、汗を流した。レムがセツナに入浴も手伝って欲しい、などといってきたが、それは女性の使用人たちに任せた。さすがに風呂まで付き合う道理もない。レムはそのことに不満そうだったが、セツナは気にしなかった。
それから、部屋に通された。セツナとレム、それぞれ個室が用意されていたものの、レムはセツナの従者であると、同じ部屋で過ごすといって聞かなかった。セツナもそれくらいならいいかと認めている。
セツナもレムも荷物らしい荷物もなかった。着替えひとつ持っていない。当然だ。セツナは、あの拘束衣のような黒衣だけを身に着け、この世界に戻ってきて以来、着替えたのは、サンストレア滞在中だけだった。サンストレアを出る際、黒衣に着替え、それから同じ格好でベノアまで来た。
レムは、相変わらずのメイド服という格好で休息所で眠っていたのであり、それから着替える暇もなかったし、着替えもなかった。ルヴェリスはその点抜かりなく、セツナたちの着替えも色々と用意してくれていた。
セツナもレムも、ルヴェリスが用意してくれた花柄の寝間着に袖を通している。
レムがメイド服以外の衣服に袖を通している姿を見るのは、実に久々だった。そもそも、彼女の姿をまじまじと見ること自体久々だったのだが、それ以上に、レムがメイド服を脱ぐこと自体が稀であり、奇跡的といっても過言ではないような、そんな感覚さえあった。
レムが寝台に腰を下ろしているところを見ると、いつでも眠れるような態勢に入っているように想えなくはない。
ひとり用の客室。決して狭くはない。ひとりで過ごす分には十分過ぎるくらいの空間はあった。調度品の数々は質素なものだが、そんなことで不満を漏らすこともない。しかし、妙な感覚はある。ルヴェリスの屋敷といえば豪華絢爛という印象があるからだ。なにもかもが派手過ぎるといっても過言ではなかったはずだ。だが、そういった派手さは、立て直された屋敷では鳴りを潜めていた。質素倹約が徹底されているというべきか。魔晶灯の飾りでさえ、そうだ。ルヴェリスの屋敷にいるという感覚がしなかった。
「わたくしが眠っている間、世界は大変なことになっていたのでございますね」
「……俺がいない間でもある」
「そういえば御主人様は、どこでなにをしていらしたのでございます?」
「いっただろう。地獄に堕ちてた」
「それがわからないのでございます。地獄とは、いったいなんなのでございます? 教えて下さいまし」
「地獄は地獄だよ。それ以上でもそれ以下でもない」
「またそうやってはぐらかすのでございますか?」
「はぐらかしちゃいねえよ」
セツナは、頭を振ると寝台に近づき、レムのいる反対側に腰を下ろした。寝台も当然、一人用のものだが、小柄なレムならば問題なく利用できるだろう。
「地獄は、地獄さ」
セツナのそんな解答に、レムが納得できないといった表情を見せるのは当然だった。布団に潜り込み、天井を見やる。吊り下げられた魔晶灯の冷ややかな光が、思考に冷静さをもたらしてくれるかのようだ。
「ま、この世も、地獄のようなものか」
「この世の地獄……でございますか」
レムもまた、布団の中に体を滑り込ませてくる。二年もの間眠り続けていた彼女の肉体的な衰えに関しては、明日から鍛えていくことで対処するしかない。でなければ、足手まといになりかねない。平時は構わない。車椅子で移動しようと、セツナが抱えて移動しようと、それが問題になるようなことはない。しかし、戦時となるとそういうわけにもいかなくなる。戦闘に連れて行かなければいいだけのことだが、それだと彼女自身が納得できまい。
もっとも、レムには“死神”がある。影の中から現出し、魔晶灯の切替機構に触れる“死神”少女を見る限り、レム自身が動き回れずともある程度は戦えるのはわかる。それでも彼女が納得しないということも、理解できる。魔晶灯から光が消えた。ということは、レムの“死神”でも魔晶石が反応するということであり、“死神”が生命力を有した存在であるということがわかる。
不思議な存在だと改めて想う。
レムの存在が、だ。
セツナと命を共有する不老不滅の存在。それがレムだ。彼女はどれだけ傷ついても、どれだけ肉体を損壊されても、セツナが死なない限り何度でも復元し、何度でも蘇る。セツナから供給される生命力が、彼女の存在そのものを変質化させているのかもしれない。レムの“死神”のようなものなのかもしれない。セツナの“死神”がレムなのだ。ただ、レムの“死神”と大きく違う点が一点ある。レムには自我があり、セツナでは御しきれないという一点。
「わたくしにとっては、“大破壊”以前も以降も大差ないように感じます。もちろん、白化症と呼ばれる症状が“大破壊”以前には存在しなかったのは事実でございますが、だからといって、わたくしの世界に大きな変化があるわけではございませんので」
レムのどこか冷ややかな言葉は、セツナに理解できない類のものではなかった。彼女ならばそういうだろうという想像通りのものでもある。ルヴェリスやシャノアのことを無視しているわけでもないだろうし、彼らのことで悲しんでいないわけもない。しかし、それはそれとして、レムはレムなのだ。
「わたくしにとっては、御主人様と、御主人様を取り巻く皆様方がすべてでございます故。世界がどうなろうと知ったことではありませぬ」
「……それでいいんじゃねえかな」
セツナは、目が闇に慣れ始めるのを認めながら、彼女の考えを肯定した。
「俺も、そんなもんだよ」
「御主人様?」
「結局は、俺もただの人間なんだよ。ただの人間ができることなんて、たかがしれているんだ。自分とその周囲のひとびとのことを気遣うだけで精一杯でさ。世界のことなんて、いちいち考えてられねえっての」
それが、以前の自分だった。
聖皇復活の儀式を目前に控えたあのときでさえ、世界のことよりも自分のことで精一杯だった。自分の中に渦巻く、理不尽な世界への怒りをぶつけることにばかり執念を燃やしていた。当たり散らしただけのことだ。そうしなければならなかった。そうすることでしか、世界と対峙することができなかったのだ。
そんな矮小な自分を思い出すたびに苦い想いが過る。どれだけ小さくて、どれだけなにもわかっていなかったのか。
なんの意味もない、くだらない戦いに命を費やし、戦いの果てに死のうとさえしていた。
だが、しかし、あのときはああする以外には道はなかったのだ。セツナ自身の感情を、想いを表現するには、あの圧倒的な物量で押し寄せてくる敵を蹴散らし、血祭りにあげるしかなかった。それが狭量だということなのだが、あの当時のセツナには、それが限界だった。
世界と相対できるほどの度量もなにもなかった。
「そういう意味じゃ、騎士団は本当に凄いと想うよ」
「はい」
「自分たちのことじゃなく、世界のことばかり考えているんだからな」
無論、騎士団が最初からそんな高尚な組織ではなかったことは知っている。革命以前の騎士団が腐敗の極みにあったことは、ルヴェリス自身が認めるところなのだ。それでも、自浄作用が革命を起こし、救世神ミヴューラとの邂逅を果たさせたという事実がある。フェイルリング・ザン=クリュースとミヴューラの邂逅。それによって、騎士団は生まれ変わった。救済を掲げ、見返りを求めぬ戦いに身を投じ続ける組織へと変貌したのだ。それは、この世を来るべき破滅から救うためだけであり、私心はなく、無私無欲の志だった。
そして、聖皇復活を阻止するべくガンディオンに赴き、命を落とした十三騎士たちは、まさに騎士団の理念を体現したのだ。世界が滅び去ることなく存続しているのは、ひとえに彼らの尊い犠牲があったればこそであり、もし彼らがクオンに協力せず、ベノアガルドの存続のみに身を砕いていれば、世界が“大破壊”によってばらばらになった現状よりも酷い有様になっていたのは疑うまでもない。クオンひとりでは、滅びを免れ得たのかさえ定かではないのだ。
「騎士団に協力している間は、俺たちもそんな風になれるといいな」
「はい」
レムは、セツナの意見を否定しなかった。彼女にとっても、理念に専心すす騎士団は眩しく見えるものなのかもしれない。
ふと隣を見ると、レムの顔が間近にあった。微笑を浮かべる少女の顔は、凄絶なまでの色気を放っていて、セツナは息を呑んだ。まさかレムがここまで艶やかな表情を見せるとは想像もしていなかったからだ。
「な、なんだよ……」
「御主人様とこうして再び巡り会えたこと――」
レムは、布団の中でセツナの手を握りしめた。
「その事実がこの上なく嬉しいのでございます」
「……俺も」
セツナは、彼女の手を握り返した。
「おまえが生きていて、嬉しかった」
それは、まぎれもない本音だった。本心からの言葉だ。レムが生きていた。その事実がどれほど励みになったのかわからない。
地獄より舞い戻ったとき、セツナの眼前に広がったのは変わり果てた世界の有り様だった。“大破壊”によって世界が壊され尽くしたという事実を知ったとき、なにもかも失われてしまった可能性さえ考えた。もう二度と、触れることさえできなくなってしまったのではないか。
考えるだけで恐ろしいことだ。
だから、できるだけ考えないようにしてきた。目を背け、耳を塞いだ。いつか受け入れなければならない現実なのだとしても、すぐには受け入れがたかった。
だが、レムは生きていた。
レムだけではない。
マリアも、ファリア、ルウファ、ミリュウたちも、生きていた。
これほど嬉しいことはなかった。
また、逢えるのだ。
それだけで、生き恥を晒す甲斐があるというものだ。