第千七百二十八話 刻まれたもの
ベノア市内の状態というのは、決して良いといえるものではなかった。
騎士団本部からフィンライト邸への移動中、馬車の窓から覗く光景というのは、大災害に見舞われた被災地といっても通じるほどのものだったのだ。“大破壊”による爪痕が、そこかしこに残っていた。中でも強烈なのは、ベノア城のある中心区画からフィンライト邸のある上層の住宅街へと至る道筋に刻まれた巨大な亀裂だろう。地の底まで続くかのような亀裂がベノア中枢と住宅街を隔絶していたのだ。その上に架けられた橋をセツナたちを乗せた馬車が通過していく。もし風にでも煽られ、橋の下に堕ちたらどうなるのかという質問には、ルヴェリスは冷ややかにいったものだ。
『死ぬんじゃない?』
ただ、橋の縁には手摺りが設けられており、落下防止は徹底されているようだった。そもそも、橋の横幅はかなり広めに作られていて、馬車が数台、並走してもなんの問題もないくらいだ。よほどの強風でも、落下するようなことはないだろう、実際、この橋では落下事故は起きていないという。
このような亀裂がベノアの各所にあり、すべての亀裂の上に橋がかかりきったのは、つい一月ほど前のことだという話だ。底の見えないほどの亀裂の上に橋をかけるのは、簡単なことではない。人手も手間も時間もかかったことだろう。しかし、交通に関することだ。瓦礫の撤去などよりも優先しなければならないのは、間違いない。
ベノア城周辺こそ、団立大医術院や様々な新造建築物のおかげで見栄えが良いものの、ベノア城そのものを始めとするそれ以外の建物や道路など、補修程度で済まされるものもあれば、倒壊した状態で手付かずのまま放置されている建物も決して少なくはなかった。“大破壊”から二年、深刻な人手不足がベノアの復興速度を著しく低下させているという。
マルカールのサンストレア、イズフェール騎士隊とクリュースエンド、そしてハルベルト=ベノアガルドのネア・ベノアガルド――相次ぐ離反者は、ベノアガルドから人員を奪っていった。それぞれに賛同者が出るのは当然のことだと、ルヴェリスはいう。マルカールにも、イズフェール騎士隊にも、ハルベルトにも、それぞれに正義があり、信念があると信じられたからだ。
マルカールがまさか自我を保つ神人であるとは、神ならざるひとびとに想像できるわけもなかった。
「そういう点でも、あなたには感謝しなくちゃね」
「はい?」
「セツナ殿が運良くサンストレアを尋ね、マルカールと接触することができたから、彼が本性をさらけ出さざるを得なくなったんだもの。でなければ、マルカールはじっと本性を隠したまま、人間のように振る舞い、サンストレアを食い尽くし、ベノアガルド全土を食い尽くしたかもしれないわ」
騎士団も、マルカールを訝しんではいたのだが、尻尾を掴むことはなかなかできなかった。それだけマルカールが周到に行動していたということであり、彼がセツナ――というよりは黒き矛――に目が眩んで神人としての正体を明らかにしなければ、確かにマルカールの計画は進行し続けていたのかもしれない。
もっとも、騎士団が本腰を入れれば、マルカールを倒せないとは想えなかった。少なくとも、五人の十三騎士が真躯を総動員すれば、あの程度の神人など容易く撃破できるだろう。
セツナがそういうと、ルヴェリスは、どこか儚い笑顔を見せた。
「そうできれば、いいのだけれど」
真躯は、無制限に使えるわけではない。
ミヴューラの不在。
神の加護を失った以上、騎士団は以前のようには戦えないのだ。
フィンライト邸に辿り着くと、セツナは、屋敷の変わり様に呆然とするほかなかった。
フィンライト邸といえば、とにかく目を引く奇抜な外観が特徴的な屋敷であり、敷地内全体を芸術作品に見立てたような、そんな場所だったはずだ。セツナの中の昔話のような記憶においても、フィンライト邸の景観は鮮烈な光を放っているくらいだ。ひと目見ただけで記憶に残るくらい印象的かつ特徴的でほかに真似のできない空間だった。異彩を放つどころではない。ルヴェリスの“極彩”という異名の由来がフィンライト邸にあるといわれても、素直に受け入れられるほどだ。
そんな屋敷に一月近く滞在していたのだ。忘れたくても忘れられないし、忘れられるはずもないと思わせるくらいの威力があった。
それが、鳴りを潜めていた。
まず、門からして質素なものになっていた。敷地を囲う塀の作りも、塀の中に広がっていた庭園も、簡素といっていいほどのものに変わり果てていた。あれだけ目立っていた芸術品のような木々も、ただの樹木と成り果て、剪定さえされていないような有り様だった。凝った作りだったはずの庭も、ごく普通のありふれた花壇と池が目立つ程度だ。屋敷そのものの規模も、一回りも二回りも小さくなっているように見えた。
目の錯覚かと想うほどで、セツナは瞼をこすり、もう一度確かめてみたが、なんら変わらなかった。むしろ昔の記憶が間違いなのではないかと疑ってしまうくらいに、ごくごく平凡な屋敷が前方に聳えていた。二階建てくらいだろう。部屋数もそれほど多そうには見えない。記憶の中のフィンライト邸とは、比べるべくもないほどに小じんまりとしていた。
「驚いた?」
「え、えーと……」
「素直な感想でいいのよ」
「御主人様? このお屋敷がどうかされたのでございます?」
レムには、セツナの反応が奇妙に映るのだろう。きょとんとした表情で、セツナを見上げてきている。彼女は、フィンライト邸の実際を目の当たりにしていないから、セツナの驚きが理解できないのだ。
セツナがフィンライト邸に囚われていたころのことは、報告書という形で国に提出し、レムたちも目を通している。フィンライト邸の外観についても言及していたはずだが、文字で読むのと目で見るのとでは、印象が異なるのは仕方のないことだ。セツナがどれだけ筆を折ろうとも、あの当時のフィンライト邸を表現することは難しく、余すところなく伝えきれたとはいえなかった。レムがセツナを不思議がるのも当然だ。
「セツナ殿は、以前の我が家を知っているからね」
「以前の? いまと違うのでございます?」
「ええ。ね? セツナ殿」
ルヴェリスが片目を閉じて、笑いかけてくる。
「そ、そうですね。なんというか、随分と思い切った変化ですね」
「庭も屋敷もなにもかも、“大破壊”に巻き込まれてね。全部失ってしまったから、仕方がないことなのよ」
屋敷を再建するのも、本当は反対だったのだ、とルヴェリスは続けた。しかし、十三騎士たるものの屋敷が倒壊したまま放置されているのは、決して良いことではない、ということで周囲に押し切られる形で、いまの屋敷に立て直したのだ、と。
「そうだったんですか!?」
「ルヴェリス様は、ご無事だったのですか?」
いまでこそ元気そうなルヴェリスだが、“大破壊”当時はどうだったのか。レムが心配したのは、そこだ。
「わたしは、本部にいたもの。ただ、シャノアは家を護っていてくれたから」
ルヴェリスが一瞬、暗い顔をした。その表情がたまらなく、辛い。
「シャノアさん、無事なんですよね!?」
「ええ。生きてはいるわ。でも……」
「でも……?」
「……とにかく、逢ってあげて。話は、それからよ」
ルヴェリスが話を打ち切ると、それ以上問い詰めることは憚られた。
屋敷に入ると、フィンライト家の執事や使用人たちが出迎えてくれた。かつてセツナとラグナの世話をしてくれていた使用人たちもいて、セツナの無事を喜んでくれたものだ。フィンライト邸のひとびとは、ルヴェリスの影響を強く受けているのか、執事長から使用人に至るまで、気持ちのいいひとばかりだった。
だから余計にセツナは苛立ちをぶつける相手が見つからず、悶々とした日々を過ごさなければならなかったのだろう。悪人揃いならば、怒りを吐き出す口実も見つかろうというものだが、全員が善人ではいかんともしがたい。ただ、そのおかげで、このような無事の再会を心から喜ぶことができるのだから、それはそれで良かったのだろう。少しでもわだかまりがあれば、このようにはいかない。
ルヴェリスによるとシャノアの寝室は二階にあり、車椅子を押してあがることができないため、レムはセツナが抱きかかえて移動させる羽目になった。使用人たちが車椅子を二階まで運んでくれたため、レムを抱えるのは階段を登る間だけでよかった。レムはもはやお姫様抱っこになれたのか、恥ずかしそうな表情ひとつ見せなかった。むしろ、車椅子に戻されるのを不服そうにしていたくらいだ。徐々にレムらしさを取り戻しつつあるということだろう。それは悪いことではない。良い兆候だ。
“大破壊”後に立て直されたというフィンライト邸の内装は、質素な外観から想像した通りといっていいくらいに取り立てて目立つところのないありふれたものだった。平凡といっていいだろう。木造建築と石造建築の融合という点はほかの人家には見当たらないところではあるが、それくらいのもので、壁も床も天井も、なにもかも特筆するべきようなものはなかった。
白塗りの壁に架けられた魔晶灯が淡い光と投射し、夕闇に覆われつつある廊下を明るく照らしている。
シャノアの部屋は、階段を昇りきったすぐ傍にあるということで、ルヴェリスがセツナたちを先導し、その木製の扉に近づいた。
「シャノア、入るわよ」
ルヴェリスは、室内からの返答も待たず、扉を開き部屋に入っていった。そういう気兼ねのなさは、ルヴェリスとシャノアの関係性を伺わせるものであり、セツナはレムを顔を見合わせた。
「なにしてるの、早くいらっしゃい」
「あ、は、はい」
扉の向こうから顔を覗かせたルヴェリスに急かされ、セツナは慌てて車椅子を押した。扉は使用人が支え、開いたままにしてくれており、すんなりと室内に入ることができた。室内に入ると、甘い花の薫りが鼻腔を満たし、つい足を止めかけたが、ルヴェリスの視線に気づき、なんとか止まらずに済んだ。セツナの踵までが室内に入ると、扉がひとりでに締まった。もちろん、使用人が閉じたのだが。
シャノアの寝室に入ってすぐに目に飛び込んできたのは、寝台の上のシャノアだ。赤みがかった髪を腰辺りまで伸ばした北方美人は、上体を起こしてこちらを見ている。彼女の青い目は、どこか茫洋としているように見える。長身痩躯に纏うのは寝間着のような衣服だ。実際、寝間着なのかもしれない。
セツナは、車椅子ごと彼女に近づきながら、ルヴェリスを一瞥した。ルヴェリスは、寝台の横に置かれた椅子に腰掛け、極めて優しげな眼差しをシャノアに投げかけていた。布団の上に置かれたシャノアの手に、ルヴェリスの手が重ねられている。
「シャノア、セツナ殿と、その従者のレム殿よ。よく聞いたわよね、覚えてる?」
ルヴェリスが囁くと、シャノアは彼を見て、それからセツナとレムを順番に見た。そのどこを見ているのかわからない目には、意思の光というものを感じ取ることができず、セツナは呆然とした。まるで、心ここにあらずとでもいうような状態に見える。
「二年半くらい前、よく一緒に遊んでくれた彼よ」
ルヴェリスは、シャノアの手を両手で包み込み、そう続けた。しかし、シャノアは一言も発さず、ルヴェリスに向かって小首を傾げるのみだった。
「シャノアさん……?」
「ルヴェリス様……これは……?」
セツナとレムが疑問符を浮かべると、ルヴェリスは観念したようにシャノアの手から両手を離した。そして、椅子から腰を浮かせようとすると、シャノアが動いた。シャノアの細長い腕がルヴェリスの腕に絡みつく。
ルヴェリスは、シャノアに視線を戻し、彼女の無表情を見て、椅子に座り直した。
その間、シャノアは一言も発さなかった。
言葉を失ったかのような彼女の反応の数々は、セツナに衝撃をもたらしていた。