第千七百二十五話 ベノアのマリア(四)
「二年前のあの日、あたしは確かに世界の終わりを見たんだ。あれはまごうことなき世界の終わりで、なにもかも滅び去るものだって想っていた。でも、終わらなかった。大陸は壊れ、なにもかもばらばらに、散り散りになったけれど、世界は滅びなかった」
マリアは、セツナの膝を枕にして、長椅子の上で横になっていた。そんなことで二年もの長きに渡って蓄積されてきた精神的な疲労が多少でも軽減されるというのであれば、セツナとしてはお安い御用だった。それで数時間拘束されようと、彼女の二年の苦痛を想えば、楽なものだ。
セツナはセツナで二年間休むことなく戦い続けていたものの、必ずしも苦痛ではなかった。いや、痛みを伴わなかったわけではないし、死ぬほどきつい目にも遭っている。それこそ、死んだほうがましだと想ってしまうくらいの仕打ちを乗り越えてきたのだが、それにしたって、大したことではない。
少なくとも、辛い現実から目を背けるように地獄へと逃れた自分と、生きるためには目の前の現実から目を背けることも許されなかった彼女とは、比較するのもおこがましい。
だから、というわけではない。
そんなことで彼女が見せる弱さを受け入れたわけではない。素直に、彼女の人間的な部分、弱音、苦しみのたうつ想いを素直に受け止めただけのことだ。
「時間は止まらなかった。あのとき、あたしたちの意識に刻まれた絶望の風景がそのまま、時を進めていた。あたしも、みんなも、絶望の荒野を歩かなきゃならなかった。立ち止まってなんていられなかった。立ち止まって休むだけの余裕なんて、暇なんて、与えられるわけがなかったんだ」
“大破壊”直後、どれほどの混乱が世界を覆ったのか、セツナには想像することもできなかった。セツナは、そのころ地獄にいた。この世界から隔絶された別世界、あの世にいたのだ。現世に突如として訪れた終末の様相など、知る由もなかった。ただ、今日に至るまで、様々なひとから話を聞いた。シルヴィール、マルカール、ロウファ、ルヴェリス、オズフェルト、そして、マリア。絶望的な日々を生き抜いてきた彼らの共通する想いはひとつだ。
“大破壊”直後こそ、この世の地獄だった――と。
セツナは、あの世である地獄を経験したが、この世に示現した地獄については、ついぞ視ることも触れることもできなかった。見下ろすマリアの横顔から読み取れる感情に思いを馳せることでしか、当時の惨状を想像することはできない。そしてその想像も完璧な物足り得ないことは明らかだ。
マリアの細く白い手がセツナの太腿に触れた。
「誰も彼も走り続けるしかなかった。世界が緩慢に死へと向かっているったって、あたしにできることは、白化症の治療方法を見つけるべく研究することだけ。それだけしか、あたしにはできない。それがあたしの唯一の取り柄だから。ファリアのように民衆の救いになることも、ルウファやミリュウのように剣となり盾となり戦うことも、あたしにはできないから」
マリアの独白を聞きながら、セツナは、口を挟んだりはしなかった。ただ耳を傾け、彼女の心情を想像することで、わかろうとした。完璧に理解することなどできずとも、わかろうとすることそのものが無駄であるはずがない。そう信じる。
「だから、ずっと研究を続けてきたんだ。この二年、ずっとね」
マリアが横にしていた顔を上に向け、セツナを見つめてきた。青い瞳が、天井の魔晶灯の光を跳ね返している。太腿に触れていた手を伸ばしてくると、セツナの右頬に触れた。ひんやりとした指が頬をなぞり、顎の線から耳へと至る。そして、なにを想ったのか、彼女は手の力を抜いた。自由落下する手をセツナの右手が掴んだ。
「でも、成果は上がらないままさ。治療法を確立するどころか、その糸口さえ見つからないんだ。アマラはさ、凄いよ。助かってる。あの子のおかげで、ベノアの医学は随分と進歩したんだよ。白化症患者の痛みを抑えられるようになったのも、アマラのおかげなんだ。でも、あの子の知識を持ってしても、神の毒気を消し去る方法は見つからなかった。なにをどう研究しても、研究し尽くしても、一向に進まないんだよ。どうすればいい? どうすれば……」
マリアはまくし立てるように吐露したかと思うと、なにかに気づいたかの如く表情を変え、上体を起こした。セツナとぶつからないように、そっと。そしてセツナの隣にぴったりとくっつくように座りなおすと、セツナの顔をじっと見つめてくる。
「……セツナ」
「ん?」
「すまないね。こんな話ばかり聞かせてさ。辛いだろ。愚痴ばかり聞くのも」
「そんなことないよ。たまには、マリア先生の本音を聞くのも悪くない」
セツナがそんなふうに返すと、マリアは、一瞬呆けたような顔をした。が、すぐに元の柔和な笑みに戻る。そのまま、どこかあきれたような口調でいってきた。
「……まったく、いつからあんたはそんないい男になったのかねえ」
「最初からだろ」
「ふふっ……似合わないこというんじゃないよ」
とはいいつつも、マリアは決してセツナを馬鹿にしているわけではなかった。その柔らかい表情、物腰でわかる。そこに軽口も追加する。
「惚れちまうだろ」
「へへ」
「まあ、冗談でもないんだがね」
マリアはそういうと、しばらく黙り込んだ。静寂が研究室に訪れる。重苦しいという空気ではない。穏やかで、少し甘みのある静寂だった。マリアが明後日の方向を向きながら、ぼやく。
「あたしももう少し、若けりゃねえ」
「マリア先生は十分若いよ」
セツナは、マリアの年齢を感じさせない目を見つめながら、いい切った。マリアはその言葉をただのお世辞と受け取ったのだろう。苦笑交じりに言い返してくる。
「もう数年もすりゃ四十だよ」
「若いよ」
「本当に……そう想ってる?」
「うん」
セツナは、半信半疑のマリアの顔を正面から見つめて、いう。
「俺が嘘ついてるように見える?」
「……いいや。信じるよ」
マリアは、セツナの目を見つめ返し、頬を紅潮させた。マリアがそのような反応を見せるのはなんだか新鮮で、セツナは、微笑んだ。すると、彼女は目をそらした。
「ったく、これだからあんたは駄目なんだよ」
「駄目ってなんだよ」
「女を駄目にさせる人間ってこと」
「どこが」
「なにもかも」
「わからん!」
「わかんないほうがいいかもね。そのほうが、皆幸せになれるかも」
「はあ?」
「ま、ともかく……」
マリアは、長椅子から腰を上げると、大きく伸びをした。漏れる息がいつも以上に色っぽく感じたのは、久々に再会したことが関係あるのかもしれない。マリアも、ファリアやミリュウに負けず劣らずの美人だ。体格のおかげで怖がられることが多いものの、体型などを含めても、彼女に敵う女性はそういるものでもあるまい。そんな美女が漏らす吐息が甘くないわけもない。
セツナの位置から覗く項も艶やかだった。
マリアは、伸びをし終えると、こちらを振り返った。腰の辺りが目の前にあったが、彼女がすぐさま屈んだことで、顔が目の前にくる。そのまま近づいてきて何事かと想った直後、マリアはセツナの額に口付けた。そして、唇を額から離すと、茶目っ気たっぷりに笑いかけてくる。
「ありがと」
「先生……」
額に残る口づけの感触になんとも妙な気分になりながら、セツナは、マリアの笑顔に見惚れた。マリアはいう。
「せめてふたりきりのときくらいは、名前だけで呼んでほしかったけどね」
「それは」
セツナが彼女のことをマリア先生と呼んでいたのは、単純に、彼女がもはや自分の部下ではなくなっているということを理解していたからだ。もし彼女がセツナの部下のままであるならば、マリアと呼び捨てにしても良かったのかもしれないが、ガンディア王立親衛隊《獅子の尾》が実質的に解散したいまとなっては、彼女を呼び捨てるのはいいことではないと判断したのだ。マリアにはマリアの立場があり、肩書がある。自分専用の研究室を与えられているところを見ると、この医術院での待遇はかなりいいようだ。アマラと開発したという新薬や白化症について詳しかったことが、彼女のベノアにおける立場を確立したに違いない。
そんな彼女を元部下という理由で呼び捨てにするのは、決していいことではないと想えた。その結果、マリアの気分を害するかもしれないということは、わかっていた。敬称は、他人行儀にもなりうる。たとえセツナにそんなつもりはなくとも、マリアは、そう感じるかもしれない。それでも、以前のように馴れ合ってもいられないから、仕方がないのだ。
とはいえ、いまさっきまでのような触れ合いは、隊が存在していた頃の馴れ合いとなんら変わらないものであり、妙な隔たりなどは感じなかったはずだが。
だから、だろう。マリアは笑顔でいってきた。
「いいよ、つぎの機会でね」
「つぎの機会……か」
「いつになるかわかんないけど、これで永遠のお別れってんじゃないだろう?」
「当たり前だろ」
「ふふ。いうと想った」
マリアの笑顔は、なんだか憑き物が落ちたみたいにすっきりしていた。精神的な疲労が、少しでも回復してくれたのならいいのだが。
「さて。あたしももう少し、お仕事頑張るかねえ」
「続けるんだな、研究」
「ああ。諦めるなんて、性に合わないからね。絶対に作ってみせるさ。白化症に効く薬をね」
マリアは白衣の袖をまくると、力こぶを作ってみせた。やる気を出した、という仕草なのだろう。彼女らしいといえば、彼女らしい。
「セツナ。さっきもいったけど、あんたは早くリョハンに行くべきだよ。リョハンにいって、ファリアの支えになってやるべきだ。あの子は、強い。けれど、弱いんだ。ほかの人と同じように。ただの人間なんだよ。あの子もね」
「……ああ」
それは、わかっている。
ファリアだけではない。ミリュウやルウファたちとも、早く逢いたかった。一日でも早く、一瞬でも近く。
「そうだな」
でも、いますぐには無理だ――とセツナは考えていた。