第千七百二十四話 ベノアのマリア(三)
マリアがなぜベノアにいるのかについても、聞いた。
先程の話の詳細になる。
マリアのリョハンでの日々は、ほとんどすべて白化症の治療法の研究に費やされていた。
白化症は、マリク神に守られているリョハンでも猛威を振るっていたのだ。
“大破壊”以降、確認されるようになった症状を白化症と名付けたのは、リョハンの医師たちであり、マリアもそれに習い、そう呼んでいるという。
白化症は、発症当初、謎の病ということで取り沙汰され、マリアを含むリョハンの医師たちの間で話題となった。やがて何人もの発症者が確認されると、白化症の感染の可能性が憂慮され、発症者は隔離された。
その後、白化症が、肉体の一部を白化し、変容させるだけでなく、その周囲を侵蝕しながら患者の肉体全体へと広がっていくことが確認される。白化部を切り取り、摘出しても、体内を転移することも判明したため、ほかの方法で対処するしかないことがわかり、マリアたちは昼夜を徹して治療法を研究したという。
そんなある日、体の大部分が白化した患者が暴れ出したことが契機となり、白化症の真相が究明される。暴走した白化症患者は、リョハンの誇る武装召喚師たちによって取り押さえられたが、殺す以外の選択肢はなかった。患者の命を救うことにこそ命をかけるマリアたちにとっては、痛恨だっただろう。
その後、白化症の真相が明らかになったのだが、それは、その騒動を聞きつけたマリク神が詳細を調べたからだ。
マリク神によれば、白化症の原因は、世界に満ちた神の気、神威なのだという。神威とは本来、神属以外の生物にとっては有害であり、端的に言えば毒としか言いようのないものだといい、神威を大量に摂取したものは、体内を神の毒気に蝕まれ、体の一部が変質化、異質化してしまうのだ。それが白化という形で現れているのが、白化症と呼ばれるものであり、マリク神はそれを神化と呼称した。
マリク神いわく、“大破壊”によって神威が満ち溢れたわけではなく、元々この世界に満ち溢れていたものであるという。なぜ、“大破壊”以前には白化症の症例はなく、“大破壊”以降にのみ見られるようになったのかも明らかになっている。
“大破壊”が、おそらく聖皇ミエンディアが張り巡らせていたのであろう結界を破壊したからだ。
聖皇ミエンディア・レイグナス=ワーグラーンは、召喚魔法によって異世界の神々をこのイルス・ヴァレに呼び寄せた張本人だ。その聖皇が、神威対策をしていないわけがない、とマリク神は考えている。大いなる力を借りるために神々を召喚した結果、神の毒気によって世界が滅ぼされるなど本末転倒としかいいようがない。
神の毒気は、人間のみならず、あらゆる生物に作用する。
人間、鳥、獣、虫、魚は白化し、植物などは結晶化という形で顕在化するという。
神威は、イルス・ヴァレ全土に吹き荒れている。そしてそれは、マリク神の結界でもってしても防げない代物であり、だからこそ、結界内のリョハンでも白化症に蝕まれるひとが現れたのだ。
白化症を防ぐ手立てはなく、一度発症したら最後、治療することもできず、止める方法もない。さらに恐るべきことに、白化症に蝕まれたものは、最終的に我を忘れ、周囲の生物を襲うようになるのだ。マリク神はそうなった人間を神人と呼び、獣は神獣、鳥は神鳥、皇魔は神魔と呼称した。
神の毒気に冒されたものは、最終的に、神に隷属するからだ。
神の徒となる、とマリク神はいったそうだ。
神の徒となったものを助ける方法はない。殺す以外に道は無いのだが、それも白化部に生成される核を破壊しなければならなかった。
「なんでも、神威が吹き荒れるこの世は、緩やかに死へと向かっているって話だよ」
「そんな……」
「まったく、冗談じゃないね。冗談じゃないよ……」
マリアが唇を噛みしめるようにいった。
「だから、あたしはその運命に逆らってやるつもりなのさ」
それが、白化症の治療法の研究であり、治療法の確立ということなのは、彼女のこれまでの話から推測できた。まず間違いないだろう。
そして、白化症の真実を知ったいま、彼女の研究がいかに無謀な戦いなのかがはっきりと理解できていた。希望の一切存在しない戦いだ。それこそ、絶望に挑むようなものだ。神が解決策がないと提示しているというのだ。治療法など存在しない、と。
生命の変質。
神の毒気に冒されたものに訪れる絶望的な現実。
生命そのものが変質し、神の徒と成り果てる。そうなったものは、なってしまったものは、もう二度と元に戻すことはできない。元の、本来あるべき性質に戻すことなど、できない。マリクの、神の知らない方法でも見つけない限りは、どうしようもない。そしてそんなことが人間にできるとは思い難い。
だがそれでも、マリアは戦っているのだ。神の知識という圧倒的な壁に戦いを挑み続けているのだ。
「それで研究に没頭してたらアマラが現れてね」
マリアは、膝の上の幼女を軽く抱きしめるようにすると、微笑んだ。アマラは、むくれたような顔をする。
「マリアの手助けをしようとしたのに邪魔しにきたと勘違いされたのじゃ」
「そりゃあそうさね。あんたがまさか精霊だなんて知るわけもないんだから」
「むう……」
納得できないとでもいいたげなアマラの表情は愛嬌たっぷりだ。
マリアが話を続ける。
「それで、追いかけ回してたらいつのまにかベノアの真っ只中。あたしゃなにが起こったのかわからないまま騎士団に拘束されてね。まあ、騎士団に旦那の名前を出したらすぐに解放してくれたけどさ」
「俺の名前で?」
「ああ。副団長のルーファウス卿が親身になってくれてね、助かったよ」
「ルーファウス卿が……か」
シド・ザン=ルーファウスのことだ。副団長になったこともあり、騎士団内における彼の発言力は以前にもまして強くなっているようだった。だから、マリアの言を聞き入れるということもできたのだろう。そして、シドがマリアの話に耳を傾けた理由も察しがつく。シドは、セツナのことをセツナがあきれるくらい評価してくれていた。まるでセツナこそが救世主であり、騎士団とともにあるべきであるとでもいうくらいの熱烈さは、いまでも鮮烈に覚えている。
「シド様は、御主人様のことを大層気に入られているようでしたし、それでマリア様の話にも耳を傾けてくれたのですね?」
「そのとおりだよ。ルーファウス卿は、《獅子の尾》専属軍医であるあたしのことまで知っていてくれたさ。そのおかげで助かったってわけ」
「なるほどな」
「ベノアで医師として働くことになったのも、ルーファウス卿の勧めでね。リョハンまで戻る方法が見つかるまでは、ここで暮らしてはどうかって。あたしとしては、研究に没頭することができるのならどこでも良かった。リョハンでも、ベノアでも、どこでもね」
場所は問わないという彼女の言葉は嘘などではあるまい。彼女は、医師なのだ。個人の我儘を通すよりも、医師としての信念を貫くことにこそ誇りを持っている。マリア=スコールとはそういう人間だった。だからこそ彼女の医師としての腕は超一流であったのだろうし、かつての《獅子の尾》の専属軍医を任されるに至ったのだ。彼女がもし凡百の医師ならば、《獅子の尾》に配属されることもなければ、セツナたちと深く関わり合うこともなかっただろう。そして、こうして予期せぬ再会を果たすこともなかったのだ。
セツナは、改めてマリアの偉大さと、彼女の芯の強さに敬意を抱いた。セツナを見つめるまなざしは力強く、一瞬たりとも弱さを見せない。
「うちがいるしのう」
とは、アマラだ。マリアをお揃いの白衣を身につけた幼女は、マリアの膝の上に乗せられ、ずり落ちないよう抱きしめられている。足をぶらぶらさせる様がいかにも愛くるしい。マリアは、そんなアマラに心から気を許しているようだった。
「そうそう。アマラがいてくれるからね」
「うむうむ」
尊大にうなずくアマラだが、その仕草は子供のそれであり、不快感は一切なかった。愛嬌にしか感じ取れない。
「アマラ様は、マリア様の研究をお手伝いされているのですか?」
「そうじゃぞ。うちのおかげでマリアの研究は捗っておるといっても過言ではないのじゃぞ」
「本当なのか?」
「ああ、本当さ。アマラには本当に助かってるよ」
「うむうむ」
「この子は、草花の精霊なんだってさ」
マリアが右手でアマラの髪を弄びながら、微笑んだ。
「草花の精霊……」
「いろんな精霊がいるんだな」
精霊といえば地水火風の四大精霊くらいしかぱっと思いつかないが、イルス・ヴァレにおいてはその限りではないのだろう。
「それで、薬草に精通していてね。新薬の研究開発が進んだのは紛れもない事実なんだよ」
「どうじゃ、凄いじゃろ」
「ああ、凄いよ」
「えっへん」
ふんぞりかえる幼女の愛らしさには、セツナですら見惚れてしまうほどだった。人間でいうと、五歳くらいの幼女の姿をした人外の存在。精霊。それも草花を司る精霊であるという。そういえば、彼女の頭には草花の冠が乗っかっていた。それだけがアマラが草花の精霊であることを主張しており、それ以外の部分では、彼女が精霊であるとはまったく想えなかった。ただ、浮世離れした雰囲気があるのは間違いない。
まるでアマラだけが別世界の存在であるかのような浮遊感があった。
「それでも白化症の治療薬には程遠くてね。ちょっと疲れていたところなんだ……」
マリアが再会してからはじめて気弱な台詞を吐いた。そのときセツナは、ようやく彼女の表情に潜む影を見出して、軽く衝撃を受けた。いつも強気で、豪快に笑い、ときにはセツナや皆をからかう姉御肌の彼女には似つかわしくない陰りだった。もちろん、マリアにそういうところがないとはいわない。彼女も人間だ。人間である以上、心が弱くなるときはある。だれだってそうだろう。
「マリア先生……」
セツナは、マリアの表情に儚さを見出して、言葉を失った。すると、車椅子が動いた。レムだ。
「アマラ様」
「なんじゃ?」
「医術院の中を案内してもらえますでしょうか?」
「む? 構わぬぞ。ここはうちの庭のようなものじゃからな」
アマラは安請け合いすると、マリアの膝の上から飛び降りるなり、車椅子の前まで駆け寄っていく。
「お、おい、レム、どうしたんだ?」
セツナは、勝手なことをいい出したレムを呼び止めたが、彼女は、こちらに笑顔を見せるだけだった。彼女がなにを考えているのか、さっぱりわからない。
「そういうことですので、御主人様。わたくしはアマラ様と医術院内を見学してまいります」
「任せよ、たっぷりばっちりしっかり、医術院の隅から隅まで案内してやろうぞ」
「アマラ様、急がないでくださいまし」
レムに頼み込まれたことが嬉しかったのかどうか、アマラは小さい足を素早く回転させて、研究室を飛び出していった。レムは、慌てて後を追う。木製の車椅子は、現代日本で使われているような高性能なものではない。独力で動かせるわけもないのだが、レムならば、それが可能だった。“死神”を呼び出せばいいだけのことだ。喪服の如き黒の衣を纏った闇色の少女は、こちらに一瞥をくれることもなくレムの座る車椅子を押し、研究室から出ていった。
ばたんと扉が閉まる。“死神”が力一杯閉めたのだ。
「ちょっ……」
セツナは、レムに向かって伸ばした手が空振るのを見届けるしかなかった。
さっきまで成り行きを見守っていたマリアが、泣き笑いのような微妙な表情を浮かべた。
「……ったく、レムの奴、気の利かせ方が下手だねえ」
「は?」
「旦那の従者が、あたしのために気を利かせてくれたっていったんだよ」
「うん……?」
セツナが要領を得ないでいると、彼女は椅子から腰を上げた。長い髪が揺れ、まるで匂い立つようだったのは、それだけマリアが魅力的な女性だからだろう。マリアは、セツナの側まで歩いてくると、隣に腰掛けた。そして、うめくように心情を吐露する。
「少し、疲れたんだよ」
「ああ……」
「少しだけ、こうしていたいんだ」
「……いくらでも」
セツナは、力なくしなだれかかってきたマリアを受け止めた。
個人としての我儘よりも医師としての信念を貫く彼女がいまにも折れようとしているのだ。拒絶することなどできるわけもなかった。
彼女もまた、ひとりの人間であることを思い知らされた。