第千七百二十三話 ベノアのマリア(二)
マリアが話してくれたのは、リョハンでの半年あまりの日々についてだが、その前に彼女たちがどうやってリョハンにたどり着くことができたのか、その詳細も語られた。
ルウファ、グロリア、アスラの三人がセツナのいった通りに行動を起こし、あのとき王宮に残っていたひとびとを前もって用意していた川船に乗り込ませた。そこにはエリナと彼女の母親であるミレーユも含まれている。サリス=エリオンも探したそうだが、時間内に見つからなかったという。もちろん、眠らせたままのファリアとミリュウも、船に乗せられている。
船は、王都をめぐる最後の戦いが始まってからすぐに地上を離れた。ルウファのシルフィードフェザー、グロリアのメイルケルビム、アスラの空王の力を合わせれば、川船を浮かせ、移動させることくらいは容易い。ただ、それでもどこまで飛べるかというと、疑問の残るところだった。セツナとルウファたちの当初の考えでは、主戦場であるガンディオン近辺から遠ざかれるだけ遠ざかれればいいというだけのことでしかなく、ガンディア本土を離脱するだけでも十分だという結論に至っている。
しかし、ルウファたちの頑張りにより、三人の武装召喚師が運ぶ船はガンディア本土を離れ、ログナー方面、ザルワーン方面を越えた。そこで巨竜と遭遇したのだという。蒼衣の狂王ラムレス=サイファ・ドラースがユフィーリアを伴い、進路上に現れたのだ。ルウファたちも、マリアも、死を覚悟したらしい。しかし、ラムレスにはルウファたちを襲うつもりなど微塵もなく、むしろルウファたちを望むところまで連れて行くことを約束した。
ラムレスのその提案がどういう理由に基づくなのかと尋ねるまでもなかった。
クオンだろう。
クオンが、ラムレスとユフィーリアにそのような指示を下していたに違いない。ガンディアから逃れてくるものたちがいて、それがセツナの関係者であればそれを保護し、戦域からの離脱を手伝うように、と。クオンのことだ。それくらいのことはやりかねなかった。彼には、いつだって私心がなかった。純粋に他人のためを想い、行動ができる。見知らぬだれかのために命を投げ出すことくらい平然とやってのけるのが、クオンという少年なのだ。そんな彼が、セツナのためになにかしら手を打っていたと考えるのは、ある意味では当然だった。
彼はいった。
君はぼくが護る、と。
それはなにも物理的なことだけではないのだろう。
きっと、精神的な意味も含まれているはずだ。
そして実際、ラムレスとユフィーリアは、セツナの想像通りのことをいってのけたということが、マリアの口から語られた。彼らは、クオンの意向に従い、戦場から離脱するものがいないか目を光らせていたといい、空飛ぶ船を見つけたときは驚きながらも、これだ、と判断したということだ。
ラムレスと合流したことは、ルウファたち三人の負担を大きく減らすこととなった上、安全性も比べ物にならなくなった。船はラムレスの巨躯に固定され、ドラゴンの強大な魔法の力がマリアたちを完璧に近く保護したからだ。
王都に異変が起きたのは、それからのことだという。
マリアたちは、空に魔方陣が描かれるのを目撃し、魔方陣より放たれる光が王都ガンディオンを貫き、すべてが破壊の渦の中に飲み込まれていく光景を目の当たりにした。王都のみならず、王都周辺の大地が徹底的に打ち砕かれ、なにもかもが光の奔流の中で消し飛んでいく有り様を見せつけられたマリアたちは絶望し、悲嘆に暮れた。王都周辺にはセツナたちがいたはずであり、セツナたちがその破局の嵐を免れられるとはとても想えなかったのだ。なにもかもが光に飲まれ、壊されてく。
ガンディオン周辺だけではない。
王都に突き刺さった光は、王都を中心に四方八方に破滅的な光線を走らせ、大地を引き裂いていったというのだ。マリアたちは、ラムレスの魔法障壁の中で、ワーグラーン大陸がばらばらになっていく様を目の当たりにしたのだ。
世界が滅びゆく光景とでもいうべきか。
マリアを含め、船に乗っていたひとびとの心境は、察するに余りある。泣いても、叫んでも、嘆いても、どうしようもない。ただ、絶望するしかなかったに違いない。
その後、船を背に乗せたラムレスは、リョハンへと向かった。なぜか。リョハンがもっとも安全で、マリアたちを送り届けるにはちょうど良いとラムレスが判断したからだった。ラムレス曰く、リョハンは神の結界に守られており、なにものもリョハンの地を侵すことはできないという。マリアたちにはなにがなんだかわからないまま、ラムレスはリョハンに辿り着き、リョハンの空中都にマリアたちを乗せた船を降ろした。
リョハンは、確かに“大破壊”による影響を免れていた。
リョハンの存在するヴァシュタリア共同体の勢力圏も、後に“大破壊”と呼ばれる未曾有の災害によってでたらめに破壊され、大きく三つに引き裂かれたというのにだ。リョハンは、一切の被害を負っていなかった。
その理由は、すぐに明かされた。
ラムレスのいうとおり、リョハンには守護神がいたからだ。
その守護神の名は、マリク。
そう、あの最年少四大天侍マリク=マジクのことだというのだ。
マリアがそういってきたときには、セツナもレムも驚きのあまり開いた口が塞がらなかった。
マリアも最初は信じられなかったそうだが、実際にマリクと対面したことで理解したそうだ。
マリク=マジクは、元々人間ではなかったのだ。漂流神と呼ばれる類の神であり、ファリア=バルディッシュとの邂逅によって肉体を得、人間のように振る舞っていたらしい。それが再び神へと戻ったのは、そうしなければリョハンを守れないという判断からであり、もしその決断をしていなければ、リョハンはヴァシュタリアの猛攻を凌げたとして、“大破壊”によって滅び去っていただろうとのことだった。
ともかく、神としての姿を現したマリクによってリョハンは守護されており、マリアたちは、リョハンで生活することとなった。
それが約二年前のこと。
それから半年間、マリアはリョハンに滞在している。
半年の間に有った出来事の中でも、セツナに伝えなければならないことはそうあるものでもない、と彼女はいった。しかし、これだけは伝えなければならない、ということが、ひとつ。
「ファリアは、戦女神になったよ」
研究室の椅子に腰を下ろしたマリアが、目を伏せながら告げてきたことに対し、セツナは想った以上に衝撃を受けなかった。長椅子の上で、うめく。
「そう……か」
なぜかは、わかっている。
ファリアが生きていて、彼女がリョハンにいるというのであれば、ほかに選択肢が思い浮かばなかった。リョハンはきっと戦女神を求めるだろうし、ファリアならばそれを承諾するだろう。責任感が強すぎるくらいに強く、思い込みの激しい彼女ならば、そうする以外に道はないと考えてしまうに違いない。実際、ほかに道はないのかもしれない。大ファリアという精神的支柱を失ったリョハンが“大破壊”後の世界を生きていくためには、戦女神の後継者が必要なのだ。
そう考えれば、ファリアが戦女神になるであろうことは想像がつく。
「驚かないんだね?」
「まあ、ファリアがリョハンにいるって聞けばさ、想像がつくだろ?」
「……うん、まあ、そうだね」
「ファリア様は、責任感の塊のようなお方ですから」
「その通りだよ。その通りなんだよ……」
マリアは、レムの言葉に強く共感したようだった。レムは、もちろん、車椅子に座ったままだ。車椅子は、セツナの腰掛ける長椅子の横に置いている。
「あの子は責任感が強すぎて、なにもかも全部、ひとりで背負い込みたがるんだ。あたしがリョハンにいた間もずっと、あの子は、戦女神としての責務を果たそうと必死だった。どのように振る舞えば戦女神として正しいのか。リョハンのひとびとを導くには、どうすればいいのか。先代の戦女神があまりにも偉大過ぎたそうだからね、その後を継ぐっていうのは、とてつもなく大変なんだろう」
けどね、と、マリアは表情を辛そうに歪ませる。
「ずっと、追い詰められているみたいで、見ていられなかったんだよ」
戦女神という立場と責任、重圧に押し潰されそうになっているのではないか、と、彼女はいっている。
「力になってやりたかった。でもね、あたしじゃあだめなんだよ。あたし以外のだれでも、駄目なんだ。あの子の力になんてなれやしない。あの子は、別に助けを必要としているわけじゃないからね。あの子は弱くはない。むしろ、強いといってもいいくらいだ」
マリアのファリア評は、的を射ている。ファリアは、決して弱い人間ではない。分類で分ければ、強い人間に入るだろう。だが、それがすべてではない。人間だれしも、弱い部分、脆い部分があるのだ。どれだけ強い人間であっても、完全無欠ではいられない。それはもはや人間ではないだろう。人間とは、不完全な生き物だ。どんな人間であっても、必ずなにかが不足している。
セツナが完璧人間と見ているクオンでさえ、そうだ。
彼には、他人の心を推し量ることができないという致命的な欠点がある。
それと同様に、ファリアにも、弱点があるのだ。表面上、見えることのない脆い部分が。
「純粋すぎるくらいに強くて、だからいつか壊れてしまうんじゃないか、ってさ。あたしたちは心配していた。そうすると、そんな心配をさせる自分が悪い、ってあの子は考える。するとどうなると思う?」
「心配することも憚られる……か」
「そうさ。心配すると負担をかけることになるからね。ファリアを心配するのは、禁忌とされるようになる。でもね、それで解決するはずもないだろう?」
「……ああ」
「だれかが、あの子の支えになってあげなきゃならないんだけど……それができるのはただひとり」
マリアが、伏せていた顔を上げた。青い瞳が、セツナを見据える。
「あんたしかいないんだよ、セツナ」
「……うん」
「だからさ、あんたはリョハンに行くべきだよ。いますぐにでも飛んでいって、ファリアを支えてあげなきゃ」
「そう……だな」
否定は、しなかった。
セツナ自身、マリアの痛いほどの訴えを聞いて、いますぐにでも飛んでいきたい気持ちだった。いまこの瞬間にもファリアの元にいって、支えてあげたかった。自分だけが彼女の支えになれる、というのはとんだ思い上がりかもしれない。それでも、そう思わずにはいられない。そう信じざるを得ない。彼女の言葉。彼女の想い。脳裏をよぎるいくつもの情景。
セツナは、マリアの目を見つめながら、ファリアのことを想った。逢いたかった。話したいことが山ほどあった。謝りたいことがあるのだ。伝えたいことがあるのだ。
想いは、リョハンに向かっている。