第千七百十三話 彼女にとっての光
闇があった。
漠たる闇が意識を包み込んで、離さなかった。
それは、突然の出来事だったのを混濁した意識の中でも覚えている。衝撃的な出来事だったからだろう。忘れようがなかった。
突如としてそれは彼女の意識を侵蝕し、塗り潰した。目の前が真っ暗になり、音が聞こえなくなったかと思うと、次第にあらゆる感覚が遠ざかっていった。戦場の真っ只中で、彼女は戦っていたはずだった。戦わなければならなかった。愛しい哀れな主のために。愛するひとの愚かな望みのために。無意味でくだらない戦いの中で、彼の想いを少しでも叶えてあげなければならなかった。それが彼女自身の小さな願いだからだ。
彼を幸せにしてあげること。
それだけが、いつからか彼女を突き動かす力となった。
彼ほど哀れな人間はいない。
そんな風に思わざるをえない。
彼は、この世界の人間ではない。彼は、別の世界から召喚され、特異な能力を持っていたがために望まぬ戦いに巻き込まて、殺したくもないのに殺し続けなければならなくなった。だれより多くの敵を殺し、だれより多くの戦果を上げ、だれより多くの貢献を果たした。その結果があの大惨事だ。彼の夢も、彼の願いも、彼の望みも、彼の幸せも、全部すべてなにもかも、奪われ尽くさんとした。いや、とっくに奪われていたのだろう。あれだけの数の敵を前にすれば、さすがの彼も敵うわけがない。彼は人間だ。彼女のように何度でも蘇り、何度でも戦えるわけではなかった。一度死ねば、それで終わりだ。そして彼が死ねば、彼女も死ぬ。
ああ、そうか。
彼女は、あらゆる感覚が失われ、重力さえも感じられなくなっていく中で、静かに理解した。
死んだのだ、きっと。
彼は、洪水の如く押し寄せてきた敵軍との戦いの中で、命を落としたのだろう。それ以外、理由が考えられなかった。その結果、彼女にも完全な死が訪れた。これまでの仮初の生が紡いできた時間が停止し、終焉が来たのだ。
なにもかもが終わった。
このまま意識も消え、無となるのだろう。
そう思った。
そう理解した。
けれども、彼女の意識は消えなかった。
滅びず、壊れることもなく、闇の中をたゆたい続けた。
どういうことなのかわからない。
ただひたすらに孤独があった。孤独が意識をかき乱す。ひとりは寂しいものだ。そんなことはわかりきっている。ひとはひとりでは生きてはいけない。実感として理解していたことだ。だから、だれもが寄り添い、助け合いながら生きている。彼女もそうだった。仮初の生ですら、孤独には耐え難いものがある。いやむしろ、この生命が仮初の、偽りのものだからこそ、より強くそう実感するのかもしれない。
隔絶がある。
現実に生きるひとたちと、仮初に生きる自分の間には埋めがたい溝があるのだ。深い断裂といってもいい。その埋めようのない空隙こそ、耐え難いほどの孤独を感じさせる。だから、より一層、ひとを求めるのかもしれない。彼の側にいたい。彼を感じていたい。彼とともに生きたい。
彼の側に居続けることで、孤独は癒やされた。
彼の周囲は、いつも限りなく賑やかだったからだ。彼の側にいる限り、彼女の魂の孤独は偽られた。己を欺き、幸福に満ちた日常を謳歌する振りができた。それでよかった。それ以上、なにも必要なかった。それだけでよかったのだ。
それなのに、世界はそれを許容してくれなかった。
彼女の細やかな幸せさえ、許してくれなかったのだ。
彼は、死んだのか。
それとも生きているのか。
生きているのならなぜ、自分は闇の中にいるのか。死んでいるのならばなぜ、意識は連続しているのか。
時間の感覚さえわからなくなると、やがて、自分を認識することもできなくなる。まるで自分の意識が闇の中に拡散していくような、そんな恐ろしい感覚があった。必死になって繋ぎ止めようとしても、拡散を止める手立てはなかった。広大な暗黒の闇の中へ、散り散りになっていく自分自身をただ見ていることしかできない。混乱が起きる。泣き叫んだのかもしれない。怒り狂ったのかもしれない。そういった時期が過ぎると、あとはただ闇の中をたゆたい続けていた。
思考することさえできなくなってしまうほどに、彼女は疲れ果てていた。
このまま、無限に長く時間だけが過ぎていくのではないか。
この闇の中で、永遠に彷徨い続けるのではないか。
それは死ぬことよりもずっとおそろしいことのような気がしたが、彼女にはどうしようもなかった。
どうしようもないまま、救いを求めることさえできなかった。
この世に救いなどあろうはずもない。
そう、理解していた。
そんなとき、突如として聞こえてきたのは、音だ。
不確かな、けれどもどこか暖かく、頼もしい音。
これまで彼女の意識を覆う闇は、沈黙を保ち続けていた。無音の闇。音のない世界は、次第に心を蝕んでいく。それとは逆に、音のある世界は、心に火を灯してくれる。たったそれだけのことで、彼女は視界が開けた気がした。それはただの気のせいで、実際になにが変わったわけでもない。しかし、確実に変化が起きていた。
また、音が聞こえた。今度は、あきれたような、怒っているような音だった。懐かしさと愛おしさがこみ上げてくる。力が湧く。ばらばらになったはずの意識が、瞬く間に元通りに組み上がっていく。聞こえていたそれは、音ではなく、声。
そう、あの愛しいひとの声。
闇が揺れた。
「レム」
光が、闇を払った。
一瞬にして眼前に色彩が戻り、あらゆる感覚が復活する。聴覚が音を捉え、触覚が空気や衣服を認識し、嗅覚が風のにおいを感じ、視覚が、眼前にある青年の顔を正確に把握する。心底心配そうにこちらを覗き込んでいた顔は、彼女が目を開いた瞬間、心からの安堵を浮かべ、すぐさま憮然としたものに変わる。
「やっぱり、ただの寝たふりだったんじゃねえか」
彼女は、目をぱちくりとさせた。彼がなにをいったのか、一瞬、理解できなかったのだ。手を伸ばし、彼の右頬に触れる。すると、彼はきょとんとした。その表情が少年時代に戻ったようで、この上なく愛くるしい。いまも変わらず愛おしいのだが、いまの彼はもう少年ではなかった。青年といっていい。ただ、記憶の中にある彼とは幾分、違っているのが気にかかるところではあった。髪がぼさぼさで長くなりすぎていた。見ると、腰辺りまで伸びている。彼がそこまで髪を伸ばした記憶はなかったし、直前に見た彼の髪型とも一致しない。
つぎに、顔つきがどことなく険しくなっているようだった。きょとんとした表情こそ愛くるしい少年のそれなのだが、その前に見た顔つきが記憶の中の彼よりも遥かに険しく、厳しいとさえいえた。なにがあったのか、想像しようもない。
ほかに変わっているところといえば、筋肉量が増えているくらいだが、それも特筆するべき事柄かもしれない。それらすべてを合わせると、彼女の記憶の中の彼とは別人と言っていいくらいの変化だった。ただ、別人でないことは明らかだ。
闇のように黒い髪も血のように紅い瞳も、眉や鼻、唇の形、顎の形も記憶の中の彼そのものだった。触れた頬の感触も、あのころのままだ。なにも変わらない。なにひとつ、変わっていない。その事実が彼女にはこの上ない喜びとなって胸の内に満ちていく。もう逢えないと思った。もう二度と、触れ合うことなどできなくなったのだと想ってしまった。
それは絶望以外のなにものでもない。
だから、彼女は彼の頬に触れたまま、視界が揺らめくのを止められなかった。嗚咽が漏れる。涙が溢れ、顔を伝って耳に流れ落ちる。拭おうとも思わなかった。
「なんで……泣いてんだよ」
「そういうのは野暮というのでございますよ、御主人様」
「……良かった」
「はい?」
「ちゃんと、生きてる」
彼の安心したような言い方が嬉しくて、つい意地悪に返してしまう。
「死んでおります」
「いや、生きているさ」
彼は、鼻を掻いて、にかっと笑ってきた。
「俺がそういうんだ。間違いない」
その笑顔があまりにも眩しすぎて、彼女は、しばし見惚れた。そうだ。そうなのだ。彼の笑顔が見たかったのだ。ずっと、長い間見ていなかった。あの国に滅びが突きつけられて以来、彼が屈託のない笑顔を見せたことはなかった。彼が笑顔を取り戻したこと。それだけで十分過ぎると彼女は想った。
「はい……」
彼女は、ゆっくりと、噛みしめるようにうなずき、彼に触れていた手が離れるのをそのままにした。腕が悲鳴を上げていた。まるで力が入らないのだ。それでもあれだけの時間、彼を実感することができたのだから、十分だ。これから、毎日のように触れることができる。また、あの日々が戻ってくるのだ。なにも恐れることはない。不安になることはない。
孤独ではない。
彼女は、ふと温もりに気づき、視線を動かした。彼の顔から、その下方向へ。すると、彼の手が彼女の手を握っているのが目に入ってくる。はっとする。力を失い、重力に引かれた腕が落下しないよう、彼が支えてくれたことに気づいたのだ。
(ああ、セツナ……)
感極まって、再び泣きそうになるのをなんとか堪えていると、彼が抱えた手を彼女の腹の上に戻してくれた。そして、優しげな声でこういうのだ。
「長い間、眠っていたんだ。無理に体を動かそうとしないほうがいいかもしれないぞ」
「そう……なのですか?」
「ああ。二年だ」
「え?」
「あれから、二年以上が経過している」
「二年……」
彼女は、セツナの言葉を反芻して、呆然とした。二年。二年もの長い歳月を眠り続けていたというのか。あの闇の中を彷徨っていたというのか。
だから、セツナの髪が長くなっていたり、筋肉が増大していたり、雰囲気が変わっていたりしたのだろう。二年もあれば、ひとは変われる。少なくとも、外見的な変化があってもなんら不思議ではない。それには納得できたものの、ひとつ、理解できないことがあった。
「なにがあったのでございましょう?」
セツナに問うても詮無きことかもしれないが、尋ねずにはいられなかった。知りたいことが山ほどあった。眠っている間のこと。二年間、眠っている間にセツナはなにをしていたのか。体を鍛えなおしていたというのはなんとなく予想がつくが、それ以外のことがわからない。
「おまえがここで眠っていた理由はわからないが、眠った直接の理由は、たぶん、俺のせいだろうな」
「御主人様の?」
「ああ」
彼は、少しばかり目を伏せ、考えるような素振りをしたあと、彼女の目を見た。
「俺は、この世界から逃げ出したんだ」
紅い瞳には、深い後悔と苦悩が揺らめいていた。