表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1710/3726

第千七百九話 シルヴィール=レンコード

「よう」

 セツナは、シルヴィールのどこか憂鬱そうな横顔が気にかかり、わざとらしく話しかけた。彼女は、こちらを見るなり、至って真面目な表情になり、姿勢を正した。

 マルカールが神人として討伐されてからというもの、セツナに対する彼女の態度というのは一貫している。市軍総督として相応しい言動を行うことを心がけており、その上でセツナを目上の相手として扱っているのだ。

「セイヴァス卿との会見、無事に終了されたようですね」

「会見というほどのものでもないよ。ただの世間話さ」

 色々得られるものはあったし、行動方針も決まったものの、結局は世間話の域を出ていない気がする。気のせいかもしれないし、そういう面も少なからずあったのだろうが、会見などと仰々しくいうようなものではなかった。

「そうですか」

 どこか他人行儀なシルヴィールの反応に、セツナは妙な気まずさを感じた。彼女は、赤の他人だ。なんの関係もない、知人ですらない相手だ。ただ、軍務によって拘束され、その際に言葉を交わしただけの間柄。マルカールの策謀に利用された彼女がセツナに抱かれようとしたことはあるが、それだけのことだ。

 ふたりの間には、なにもないはずだ。

「先程、セイヴァス卿から通達がありました」

 だから、彼女がここにいたのか、と理解する。

「サンストレアを出ていかれるのですね」

「……ああ」

「引き止めはいたしません。そもそも、セツナ殿にはセツナ殿の目的がありましょう。それがサンストレアにいることで果たせなくなるような不幸をわたしは喜びません」

 シルヴィールが微笑みさえ浮かべながらそんなふうにいってくれたことに、セツナは心底ほっとした。なぜか、嫌われるのではないか、という不安があったからだ。別に赤の他人に嫌われてもなんとも思わないのだが、なぜだか、彼女には嫌われたくなかった。嫌われても仕方のないことをしているのにだ。

 単純なことだ。

 シルヴィールが、気持ちの良い人物だからだ。頭の固い、融通の効かない面もあるが、それは仕事に熱心で職務に忠実だということの現れなのだ。そのことは、周りの評判からも伺える。遭難者の救助作業や瓦礫の撤去作業中、市軍兵士たちから彼女の評判をよく耳にした。だれもが口を揃えて、彼女の真面目さを賞賛していたものだ。彼女が率いるからこそ、市軍は纏まることができたのだと。

 自分のことを省みることなく仕事に打ち込む彼女の姿は、兵士たちのみならず、市民にもよく知られている。作業現場に彼女が現れると空気が引き締まるとともに、現場の様子を見ている市民から彼女への声援が飛び交ったものだ。マルカールのつぎに人気があるという話も嘘ではなかったのだ。

「その……なんだ」

 セツナは、シルヴィールの微笑みに対し、思案した挙句、笑顔を返した。

「あんたはいい女だよ」

 それは、本心からの言葉だったが。

「なっ……!」

 微笑んでいただけのシルヴィールが、表情を一変させた。顔を真っ赤にさせて迫ってくる彼女の反応は、セツナの予想外のものであり、彼の方こそたじろがざるを得なかった。

「なにをいってるんですか!?」

「お、おい……シルヴィール」

 セツナはずかずかと近づいてきた彼女とぶつかりそうになるのを、彼女の肩を掴むことでなんとか回避した。鼻息が聞こえるほどの距離だった。首筋までも紅く染めていることがわかる。なにがそこまで彼女を動揺させ、興奮させたのかはわからないが、セツナは、彼女が落ち着くのを待った。すると、シルヴィールは、セツナの視線に気づき、あっと声を上げた。

「あ、ああ……ち、違うんです。違います、その、あの、ですから、わたしはです、ね……」

 彼女はうろたえ気味に言い訳がましくまくしたててきたものの、言葉らしい言葉にはならなかった。そのことに気づいた彼女は、頭を振り、大きくため息を付く。

「駄目ですね、わたし」

 そういって苦笑したシルヴィールの表情は、自分自身にうんざりしているかのようだった。


「あの夜のこと、覚えていますか?」

 話を再開したのは、広場にある長椅子に腰掛けてからのことだ。昼が過ぎ、冬の午後の穏やかな空気が広場を包み込んでいる。

 市庁舎前の広場には、セツナとシルヴィールだけがいるわけではない。市軍や騎士団の関係者が休憩がてらに屯していれば、役人と思しき人物の姿もあった。昼過ぎだ。遅い昼休みを満喫しているひとたちもいるのだろう。そういうひとたちからすれば、セツナとシルヴィールが長椅子に腰掛け、話し合っている様はどんな風に見えるのだろう。ふと、そんなことが気になった。自分がどう思われようと構わないが、シルヴィールには今後がある。彼女は、サンストレア市軍の総督なのだ。セツナとの関係を邪推され、変な噂でも立たなければいいのだが。

「……そう簡単に忘れられるもんじゃないだろう」

 首の後で手を組んで、空を仰ぐ。青く澄み渡る空は、記憶にある異世界の空と一点、異なるところがある。イルス・ヴァレの空といえば、まるで滲んでいるような色合いだったはずだ。晴れ渡っていても、決してすっきりすることのない空。それこそがこの世界の空だった。だが、いまセツナの目に映る異界の空は、セツナの生まれ育った空と大差ないように見えた。もちろん、無駄に汚染されていない空があの世界の汚れきったそれと同じであると想っているわけではない。

「そう、ですよね。わたしも、まったく忘れられなくて、ずっと考えていたんです」

 シルヴィールもまた、空を仰いだようだ。気配で知れる。

「わたしは、無知蒙昧な愚か者でした。マルカールの正体に気づかないどころか、疑うことさえせず、唯々諾々と従うだけの人形に過ぎなかった。それが絶対的に正しいことだと信じて、信じたからには微塵も疑うまいと、あらゆる事柄から目を逸らしてきたんです。きっと」

「……それはそれで悪いことじゃない」

 軍人ならば、上からの命令に従い、完璧に任務をこなすことこそが重要であり、疑念を差し挟むなど言語道断といっていい。

 彼女は市軍の総督――つまり、市軍の総司令官であり、市軍の命令は彼女が発しているが、サンストレアという都市国家内における立場としては、市長が最高位の存在だったのだ。市長の命令こそが絶対であり、市軍総督といえど異議を挟むことは許されなかった。それで上手く回っていたのだから、疑問の余地もなかったに違いない。

 マルカールには、それだけの指導力や人望が備わっていたということだ。

「それに、あんたがマルカールの正体に気づいたからといって、どうなるものでもなかっただろ。少なくとも、マルカールの市政は、サンストレアに必要不可欠なものだったんだ」

 無論、そのために犠牲になった罪なきひとびとのことを考慮しなければ、だが。

 マルカールは結局のところ、自分の野心のために罪なきひとびとを利用し、みずからの手で殺してきた極悪人なのだ。そのことを忘れてはならないし、それがあるからこそ、マルカールは滅ぼすべき悪となった。もしマルカールがただの人間で、神人討伐にもなんの過失もないのであれば、セツナは彼を倒そうとはしなかっただろう。

 彼の正体が神人であったがためにセツナは戦った。神人が害をなす存在であることを知っていたからであり、それ以上の理由はなかった。

「そのマルカールの市政こそが、わたしたちへの裏切りだった」

 シルヴィールの言葉は、重い。怒り、悲しみ、嘆き――様々な感情が入り混じった一言一言が、セツナの胸に刺さる。

「わたしは、ずっと欺かれ、嘲笑われていたんだ。サンストレアの、この町のひとびとのためになると、すべてを投げ打ってでも信じていたのに――」

 踏みにじられた。

 彼女は、そういって、黙り込んだ。

 視線を地上に戻すと、風が頬を撫でるように吹き抜けていった。冬の風。凍てつくほどではないにしても、冷たく、防寒着がなければ座ってもいられなかっただろうと思った。

 シルヴィールの気持ちを思うと、色々と考え込まざるをえない。“大破壊”からの二年余り、彼女は、サンストレアのため、市長マルカール=タルバーに忠誠を誓い、彼を神の如く信奉してきたのだ。マルカールこそが絶対正義であると信じ、彼のやることなすことに賛成してきた。セツナの寝床に夜這いをしかけてきたのも、それだ。彼女はそれが市長のためになり、サンストレアのためになると信じぬいていたのだ。

 そういった彼女の成してきたことの尽くが、マルカールの欺瞞の上に成り立っていたと知れば、絶望したくなるのもわからなくはない。

「ですが、いまとなっては、セツナ殿のおかげで真実が明らかになって、良かったのだと心の底から想っています」

「……うん」

 うなずくほかない。

「セツナ殿が来てくださらなければ、マルカールを斃してくださらなければ、わたしたちは未だあの神人の言いなりだったのですから。そのことを思えば、この痛みは必要なものだったと割り切れます」

 そういってゆっくりと息を吐きだした彼女だが、心に負った傷の深さに表情を曇らせていた。

 セツナは、かける言葉を見つけることもできない自分自身に苛立ちを覚えた。人生経験豊かな人間ならば、気の利いた一言でもいえるのだろうが、残念ながら、セツナの人生経験というのは、それほど豊富なものではない。少なくとも、彼女を勇気づけるような、元気づけるような言葉を素早く見つけ出せるほどではなかった。

「……セツナ殿」

 シルヴィールが、気を取り直したように、いってくる。

「わたしが自由の身であれば、あなたの道行きに同行したいところなのですが、残念ながら、わたしには市軍総督という重要な役割があります」

「ああ」

「いまでこそ静まっているように思えますが、きっとサンストレアは混乱するでしょう。マルカールが神人であったことが公表された以上、マルカールの行ってきた政策のすべてが見直さなければならなくなるんです。市議会は紛糾するでしょうし……そもそも、つぎの市長の選定に困難を極めそうですからね」

 暴動も起きるかもしれない、と彼女はいった。今日に至るまで、サンストレアには被災した市民が数多くいる。マルカール騒動における神人災害が、新たに数多くの被災者を出している。そういったひとたちから不満の声が上がらないとは限らないし、市民の間でも軋轢が生まれかねない。

 また、マルカールが神人だったという衝撃的な事実は、市民の市政や市軍への不信を招くかもしれない、とも、シルヴィールはいう。市軍への不信は、夜を徹した救助作業などで薄れたものの、市政への疑念はそう簡単には晴れるものではない。

 マルカール以外にも、人間になりすました神人が潜んでいるのではないか。

 マルカールほどの人物が神人だったことの衝撃による余波の中で最大のものは、これに尽きるだろう。疑念が疑念を呼び、洪水となってひとびとを疑心暗鬼に陥らせかねない。

「その間、市軍は騎士団の方々と協力して、サンストレアを護っていかなければなりません」

 市軍総督として、彼女はサンストレアを離れることができない。それは当然のことだ。彼女は、職務に忠実な人間なのだ。それが、職務を放棄して、セツナの旅に同行するといいだしたら、セツナ自身が彼女に失望しただろう。だから、というわけではないが、セツナは彼女を見て、微笑んだ。

「それで、いいさ」

「……はい」

 シルヴィールは、こちらを見てはない。足元に視線を落としていた。

「あんたにはあんたの人生がある。俺には俺の人生があるようにな」

「はい」

「それが今回たまたま重なっただけのことでさ」

 重なったまま、進まなかった。ただそれだけのことだ。よくあること。むしろ、他人の人生と重なり合ったまま進むことのほうが圧倒的に少ない。

 彼女が、ちらりとこちらを見てくる。そして、意を決したように口を開く。

「また……また、重なり合うことを期待しても、いいのでしょうか」

「……また、遊びに来るよ」

 その答えは、必ずしもシルヴィールが期待したものではなかったのだろうが。

「余裕ができたら、だけどさ。必ず」

「はい……!」

 シルヴィールは、笑顔を見せてくれた。

 その笑顔がいままでになくあざやかなものだったから、セツナはしばし見とれ、見とれていたことを誤魔化すべく、椅子から腰を上げた。おもむろに伸びをして、体を解す。

「……わたし、ずっと待ってますから」

「え?」

「いいえ、なんでもありません。こちらのことです」

 シルヴィールは、慌てて否定してきたが、セツナは彼女がなにをいったのか気になって仕方がなかった。

「では、シルヴィール=レンコード。ただいまより市軍総督としての職務に戻ります。また後で」

「あ、ああ……」

 敬礼してにこりと笑うシルヴィールの、妙に晴れやかな表情にセツナは面食らうしかなかった。

 シルヴィールは、広場の端で待たせていたらしい部下たちと合流すると、セツナに目配せして、そそくさと広場を出ていった。

 取り残されたセツナは、もう一度長椅子に腰を下ろし、空を仰いだ。

 昼間の空は、青く透き通っていた。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ