第千七百一話 人ならぬ、神ならざるもの(一)
つぎの瞬間、市長邸が爆散した。
突然の出来事に呆気に取られると、セツナは市長の姿を見失ってしまった。一軒家が轟音とともに爆ぜ、破片や残骸が粉塵と撒き散らしながら周辺に飛び散り、周囲を警戒中の衛兵たちが慌てて動き出す。だれもがなにが起こったのかわからなかっただろう。セツナさえ、なぜ家屋が爆発したのかまったく理解できなかった。なんの前触れもなければ、意味もない。
(目眩ましか?)
メイルオブドーターの能力で後方上空へと移動しながら、セツナは周囲への警戒をさらに強めた。全神経を研ぎ澄ませ、あらゆる感覚を総動員して索敵する。市長邸の周辺には市長の姿はない。あるのは慌てふためく兵士たちの姿であり、市長邸前の広場で過ごす被災者たちが飛び出してくる様子だった。無関係な市民たちは、突然の爆音に叩き起こされたのだ。
市長邸周辺が、瞬く間に騒然となる。
市長邸があるのは、住宅街の真っ只中なのだ。一般市民が生活する区画であり、寝静まっていた区画はあっという間に喧騒で満ちた。家々に魔晶灯の光が灯ると、家の外に飛び出すひとの数が増え、市長邸の様子を見て、息を呑んだり騒いだりした。警備兵によって、市長邸を訪れた不審者の仕業だと断定され、広まっていく様子がわかる。そうなるのも当然だったし、訂正しようもない。セツナがみずから出ていって訂正したところで、だれが信じるというのか。だれも信じまい。
そして、そんなことをしている場合でもなかった。
「見ての通り、わたしには力があるのだよ」
声は、頭上から聞こえてきた。
「わたしがこの地の支配者に相応しいという事実、理解していただけたかな?」
「……支配者に相応しいかどうかと力の有無は関係ねえよ」
見上げると、丸い月を背後にして、マルカールが浮かんでいた。長衣が風にゆらめき、さながら翼のように見えた。家屋を一瞬で爆散させるだけでなく、空中を自在に飛び回り、滞空することもできるようだ。召喚武装を手にしているようには見えない。着込んでいる長衣が召喚武装だとしても不思議ではないのだが、長衣がなんらかの力を発している様子はまったくうかがえないのだ。少なくとも、メイルオブドーターの感知能力では、マルカールの身につけているものが召喚武装だとは確認できない。
つまり、召喚武装の使い手ではない。
マルカール=タルバー本人の能力。
「それは、前時代の話だ。現代――“大破壊”以降の世界においては、そのような言葉は力なき世迷い言でしかない」
セツナは、マルカールの金色に輝く双眸に既視感を覚えた。これまで、そのような目をしてきたものを何人も見てきている。そして、そういったものは、ただの人間ではない場合が多かった。
金色の目の魔人アズマリア=アルテマックスは、聖皇打倒のために生まれ、肉体を乗り継ぐことで五百年以上の時間を生きてきた。金色の目の騎士フェイルリング・ザン=クリュースは、救世神ミヴューラの使徒であり、神にもっとも加護を得た存在だった。マユラ神の眼も、ミヴューラ神の眼も、金色の輝きを帯びていた。それは単なる偶然とは思えない。なにかしら理由があり、同じように発光しているのだ。
発光。
光を受けるための器官である眼球の、虹彩が光を発することなど本来ありえないことだ。つまり、眼が光を発しているというだけで常人とは異なるということであり、彼が神とは異なるにしても、なにかしら大きな力を持っているのは疑うまでもない。
「力がなければ、生きてはいけない世界となってしまった」
マルカールは、どこか悲しそうな口調で、いってきた。
「セツナ殿。あなたもご存知のように、この世界は、破壊されてしまった。大いなる力によって、徹底的に破壊され、毒が振りまかれた。力なきものを死に至らしめ、弱者には生を繋ぐことさえ困難な世界に成り果てた。人間は、か弱い。どうしようもなく脆い生き物だ。寄り添って生きていくことしかできず、そうであるというのに、狂える愚かものどもによって、そんな環境さえ台無しにされかねない」
マルカールがいっていることは、彼がその目で見てきた現実なのだろう。セツナは、星空に浮かぶ男を見据えながら、彼の言葉に嘘が混じっていないことを認めた。こちらを騙すつもりも欺くつもりもなく、ただ、事実を述べているだけのようだった。
この世界が現在置かれている現実。
セツナが不在の間、この世界に起きた出来事であり、これから起こりうることであろう。
「力なき統治者では、ひとびとを護ることはおろか、導くことなどできないのだ。愚者どもに示せるだけの力がなければ、立ってはいけないのだよ。それでは、力を持った愚者や狂人によって、せっかく作り上げた秩序を破壊されるだけだ」
聞く限りでは、マルカールは責任感と正義感の塊のような男に思えた。彼がサンストレアという都市の市長として成してきたことを思い起こせば、その受け取り方でなにひとつ間違いはないはずだ。市民想いの立派な為政者としか言いようがない。
対して、セツナはどうか。二年もの間、現世から離れ、地獄で修行に明け暮れていた。“大破壊”という未曾有の大災害がこの世界を打ち砕いたという事実すら知らず、のうのうと自己の訓練だけに集中していた。マルカールとセツナ。
どちらに義があるかといえば、一目瞭然だ。
彼は、みずからの胸に手を当てるようにして、告げてくる。
「だから、わたしなのだ。だからこそ、わたしが立つのだ。わたしがこの島を統一し、完璧に管理し、永遠に安らぎを与えようというのだよ」
「……あんたのいうことは、間違っていないんだろうよ」
セツナは、マルカールの主張を否定しようとは思わなかった。
「俺は“大破壊”以降の現状というのを知らないからな。あんたの見てきた現実に対してなにもいうことはできねえし、否定もできねえ。それにあんたのいいたいこともわかる。力なき正義は、ただの戯言と同じだものな」
力もなく声高に叫ぶだけでは、なにも変えられない。なにも変わらない。力あるものによって軽々と捻じ伏せられるだけだ。力には、力で対抗するしかない。それがこの世の道理だ。セツナは、“大破壊”以前のこの世界で、そういった現実を見てきている。ガンディアという力ある国によって蹂躙される力なき国々の末路は、いまも鮮明に思い出せた。
力なきものには、自由に未来を勝ち取る権利などない。
「わかってくれるのであれば、いまからでも遅くはない。わたしとともに来るのだ。セツナ殿」
「だから、それは無理なんだって」
頭を振り、それから市長を見やる。
「俺にはやらなくちゃならないことがある」
「サンストレアの、このベノア島の平穏以上に大切なことがあるとでも?」
「……んなもん、ひとそれぞれだろ」
セツナは、マルカールの眼を見据えながら、言い放った。マルカールは、確かにサンストレア市長としてこの上なく素晴らしい人間かもしれないが、彼の視野は、狭い。サンストレアに限定されているといってもいい。それが悪いというわけではない。だれしも、自分の国、自分の支配地こそが第一で、それが正しい。
ただ、セツナは、もはやそういったことに囚われるわけにはいかないということなのだ。
この世界を呪われた運命から解き放つためには、一所に留まっている場合ではない。
約束がある。
約束は、すべてに優先する。
「あんたにとってはサンストレアの安寧がなによりも大事でも、別の国の、別の都市の人間にとってはどうでもいいことだ。俺は、ここの人間じゃない。たまたま通りすがり、神人を倒しただけ。ただそれだけの関係さ」
「ふむ……」
「この世界がどうなってもいいってわけじゃあないが、だからこそ、ここにとどまるわけには行かないんだ」
「ならば、黒き矛の召喚者であるあなたを倒すしかない。殺すしかない。滅ぼすしかない」
ようやく、マルカールが敵意を明確なものとした。長衣が激しくはためき、衝撃波が四方に飛ぶ。力の拡散。ただの牽制。
セツナは、軽く後ろに下がっただけでそれをやり過ごした。