第千七百話 謀(二)
真夜中の市軍本拠地より夜空に向かって飛び立ったセツナは、一路、サンストレア北西へと飛翔した。
冬の真夜中。身も凍るような寒さがむしろありがたいと思えたのは、明らかに高ぶりかけていた感情を急激に冷却してくれたからだ。全身を包み込む冷気が心の温度までも低下させ、冷静さを取り戻させる。
(こんなことをしていったいなんになるってんだ)
澄み渡った空の下、星々の光に照らされた夜の街を見下ろしながら自問する。サンストレア市内には無数の魔晶灯が立っているものの、その光だけでは物足りないのか、各所で篝火が焚かれていた。“大破壊”や神人災害によって家を失った市民は、全員が全員、新たな家を手に入れられるわけではない。天幕の中で肩寄せあって過ごすひとたちもいて、そういうひとたちのためにも篝火は焚かれているようだ。燃え上がる炎は、ひとびとの身も心も温めうるのだろう。
警備は、厳重だった。
市軍の兵士たちが市内各所を巡回しており、それもまた、市民に安心感を与えているように思えた。そういう施策は、市長マルカール=タルバーの考えによるものが大きく、市長の発言力、人望の高さがそれら政策を実行に移す力となっているのだろう。
実際、マルカールは、悪い人間ではない。少なくともセツナは、マルカールがこの上ない善人だと想っていたし、彼ならば、この“大破壊”という未曾有の災害に見舞われた世界に安定した秩序と幸福に満ちた都市を作れるのではないかと思えた。もしセツナがなんの目的もなく生きているのであれば、彼に力を貸してもいいと想ったほどだ。
そんなマルカールが治める都市が良くないはずがなかった。
神人災害さえなければ、サンストレアには問題などなくなるだろう。
ただ一点の不安を除いて。
(あなたの狙いはなんだ?)
セツナは、純黒の鎧から伸びた黒い蝶の翅を羽撃かせながら、闇夜を駆け抜ける。脳裏には、マルカール=タルバーの顔が浮かんでいた。サンストレアと市民のことばかりを考える、まさに理想の市長というべき人物は、セツナを求めた。神人災害に対応するための戦力として、セツナを欲した。市長としての仕事に専念したいという思いからならば、確かに理に適った判断だ。神人対策はセツナに任せ、自分は市政に集中する。合理的だ。それは理解できる。
しかし、そのために従順なシルヴィールを使ってまでセツナを引き留めようというのは、少しばかり強引に過ぎるのではないか。たとえセツナがシルヴィールの色仕掛けに応じたからといって、サンストレアに残るとは限らない。
意味のあることとは、思えないのだ。
だから、馬鹿げている。
(あんなことをさせて、いったいなんの意味がある?)
シルヴィールの忠誠心を試したのか。
それとも、セツナの人格を調査するために彼女を使ったのか。
なんにしても、納得の行く答えが欲しかった。
そのために真夜中に訪問するのは無作法にもほどがあったし、笑って許してくれるようなことではなかろうが、構わなかった。それで険悪になるならば、むしろ、ここを去る口実になる。
無論、問題を起こさずに去ることができたのならば、それに越したことはない。
だが、あそこまでされた以上、黙ってはいられなかった。
(シルヴィールさんが可哀想だ)
一番の想いはそこだった。
シルヴィール=レンコードについて知っていることといえば、彼女が市軍総督という立場にあるということと、彼女が根っからの仕事人間であり、頑固で融通が効かずとも、とにかく真面目で熱心な人物だということくらいだ。しかし、だからこそ、そんな彼女の仕事への想いを利用された感のある今回の出来事は看過できなかった。
他人の人生。
他人の命令。
関与する必要などはない。放っておけばいい。そういう、冷ややかな目もある。それとは別に、彼女のような生真面目な人間が馬鹿を見るような状況を放っておきたくはないという気持ちも、あった。無関係だと切り捨てればそれだけで済むことだというのに、だ。
(まったく)
彼は、胸中、苦笑した。
(馬鹿なのは俺も同じか)
やがて、セツナの目は、市長宅を捉えた。煌々と市街地を照らす篝火は、こじんまりした市長宅も夜闇の中に浮かび上がらせていたのだ。警備は厳重を極め、武装した市軍兵士たちによって周囲を守られていた。それだけしっかり守られているのは、サンストレアになくてはならない人物だからであり、このサンストレアにおいて神人に唯一対抗できる人物だからというのもあるだろう。神人に対抗できるとはいえ、人間であれば、寝込みを襲われれば一溜まりもない。
それはセツナも同じだ。
召喚武装を手にしない限り、常人となんら変わらないのだ。首を斬られれば死ぬ。血を流しすぎても死ぬ。心臓を貫かれても死ぬ。重傷具合によっても、死ぬ。衝撃でも死ぬ。か弱い生き物に過ぎない。それでも神人のような怪物に立ち向かい、倒せるのは、黒き矛と眷属たちのおかげに過ぎない。
それを自分の力だと言い張るほどの幼さもなくなった。
(さて……どうする)
セツナは、市長宅の遥か上空で滞空しながら、腕組みした。真夜中でも厳重な警備がされているというのは想像通りだったが、それにしても明るすぎる。市長邸正面の広場で篝火が焚かれているせいだった。これでは、おいそれと地上に接近することもできない。警備兵に見つかれば、それだけで大騒ぎになるだろう。神人の襲来と勘違いされるのではないか。
(それでも構わねえけどさ)
騒ぎになったところで、元々出ていくつもりだったのだ。サンストレア市民がこの騒動をどう捉えようと知ったことではない。
そう考えれば、なにも難しいことではなかった。
セツナは眼下の邸宅に向かって急降下すると、屋根の上に降り立った。広場には、家を持たない人々のための天幕が並んでいる。いわゆる仮設住居なのだろう。そして、篝火はそういったひとびとが暖を取るためのものであり、夜の間ずっと燃やされているようだ。
広場を警戒中の兵士のひとりが、不意にこちらを見た。そして、あっと声を上げ、同僚の兵士たちに向かって大声を発した。
「市長宅の屋根の上に不審者を発見!」
「なんだと!?」
「本当だ!」
「早急に取り押さえろ!」
慌てふためく兵士たちに背を向けて、セツナは市長宅の裏庭に飛び降りた。市長宅は、一階建ての一軒家であり、飾り気も何もない普通の家だが、少しだけ広めの裏庭があるのが特徴だった。裏庭には小さな池があり、池の水面には夜空が綺麗に写り込んでいた。美しい夜だった。しかし、その美しさを堪能するには、静けさが足りなかった。警備の兵士たちのがなりたてる声がこちらに迫りつつある。
裏庭には警備兵が配置されていないのは不思議だったが、その理由はすぐに知れた。
「ここに向かって来ているのはわかっていましたよ、セツナ殿」
「市長」
聞き知った声に驚きつつも振り向くと、月明かりに照らされて、マルカール=タルバーが立っていた。夜風が彼の衣服を揺らした。穏やかな表情。なにを考えているのか、まったく読めない。真夜中の不法侵入に対しても表情ひとつ変えないのは、彼がいったように予期していたことだからではあるのだろうが、それにしても、堂々としすぎている。
セツナは、マルカールへの警戒を強めるとともにいつでも動けるように意識した。
「しかし、お早いおつきだ。それにその召喚武装……本当に黒き矛のセツナ殿なのですかな?」
「黒き矛だけが俺の召喚武装じゃない。ただそれだけのことです」
「ほう。それは初耳だ。どうせならば、すべての召喚武装を見せてもらえませんか?」
笑顔でのお願いには、質問で返す。
「市長。あなたの望みはなんだ? 俺をサンストレアに引き止め、戦力として利用することではないのか?」
「あなたがわたしに従ってくれるならば、それに越したことはありませんが……どうも反応が思わしくはなかった。仕方なく、シルヴィールを使ったのですが、それでもあなたを落とすことができるかどうかは怪しいものでした」
マルカールは悪びれることもなく、みずからの企みを明かしてきた。腹の中を包み隠すことなく話すことで、警戒を解こうというのか。信用を得ようというのか。もはやセツナはマルカールの一切を信用してはいなかった。彼が善人であるという過程は、シルヴィールを犠牲に捧げた時点で消え失せた。それがたとえこのサンストレアの平穏のために必要不可欠なことであっても、セツナには容認できることではない。
そのとき、荒々しい靴音とともに、衛兵たちが裏庭に回り込んできた。
「市長! 不審者が……!」
「あ! 隊長、あいつです!」
「おのれ不審者め! 市長の暗殺が目的か!」
携行用魔晶灯をこちらに向けて掲げ、色めきだつ兵士たちの様子にセツナは目を細めたが、それはマルカールも同じようだった。市長は、冷ややかに告げた。
「……下がりたまえ」
「し、しかし!」
「下がれといっている」
「は……皆、下がれ。すべて市長に任せればよい。万事うまく行く」
隊長と思しき兵士の言葉に、ほかの警備兵たちも従うほかなかった。そそくさと裏庭を離れていく兵士たちの様子がどこか奇妙に思えたのは、その静まり具合が不自然なほどに急速だったからだ。それだけ市長命令が絶対的だという証明なのかもしれないが、だとしても、裏庭に現れた全員が全員、大人しくなるものだろうか。
力を感じる。
「――あなたがシルヴィールに溺れなかった場合、ここに来るだろうことは想定済みでした。まさか、今夜中にくるというのは、想定外でしたがね」
マルカールは、兵士たちのことなど端からいなかったかのように話を続けてきた。彼にしてみれば、衛兵たちのことなどどうだっていいことなのかもしれない。
セツナは、マルカールの目を見据えながら、さらに問うた。
「それで、あなたの本当の目的はなんだ?」
「本当の目的?」
「神人討伐の戦力など、あなたがいれば十分なはずだ。政務に没頭したいというのであれば、話は別だがな」
「あなたの仰る通り、神人討伐如きわたしひとりで十分です。それに白化症の患者が神人化するまでの期間というのは一定ではない。そう頻繁に神人化が発生するわけではないということです」
「つまり俺は不要なわけだ」
「いえ。あなたは必要ですよ。セツナ殿」
マルカールは、こちらをじっと見つめたまま、言葉を続けてくる。
「最強無比の召喚武装――カオスブリンガー」
「なるほど。それが目的か」
マルカールの言動によって、すべてに得心がいった。マルカールがどうしてそこまでセツナにこだわるのか。よくよく考えてみれば、それ以外に理由などはなかったのだが、セツナにとって当たり前の存在であるカオスブリンガーに思い至らないのは、仕方のないことだった。セツナにしてみれば、いまとなっては身体の延長のような感覚さえあるからだ。自分の体の一部だけを必要としているとは、想像しようがない。
だが、知ってしまえば、極めて納得のいく理由だ。
マルカールがセツナのことを知っていて、小国家群に鳴り響いたセツナの評判も覚えているのであれば、彼が黒き矛を欲したとしてもなんら不思議ではなかった。黒き矛の絶大な力は、為政者にとってはこの上なく魅力的に思えるはずだ。黒き矛ひとつあれば、戦闘において負けることはない。
「俺から黒き矛を取り上げて、自分のものにでもするつもりだったか?」
「まさか」
マルカールは、一笑に付した。
「あなたがわたしに従うならばそれでよかった。それならば、平和的だった。わたしがあなたを使役し、勢力を広げていくことができるのならば、なんの問題もなかった」
「はっ」
セツナもまた、マルカールの言を突き放すようにして笑った。ぴくりとも変化しないマルカールの能面のような笑顔は、不気味ですらある。
「問題だらけだ」
「なにが問題なのです。サンストレアこそがこの島の中心になるに相応しい都市であり、わたしこそがこのベノア島を支配するに相応しい存在なのですよ?」
ついに野心を露わにしたマルカールの表情は、さきほどまでとなんら変わらなかった。平常となにひとつ変わらない態度、様子で彼は本心を吐露してくる。
「ベノアガルドどころか、首都ベノアさえ護り通せなかった騎士団など頼りにならず、ほかに力有るものなどいない。そうである以上、神人をも倒しうるわたしこそが、この地を統べ、楽園を築きうるのだよ」
「楽園だって?」
「そうだ。楽園なのだよ。わたしマルカール=タルバーがこのベノア島を支配した暁には、か弱きひとびとに永遠の安息と平穏を約束しよう」
「そのために黒き矛が必要だってのか?」
「わたしひとりでは、さすがに騎士団を打倒するは能わず。故にさらなる力が必要なのだ。そのための用意もしていたが、そう上手くは行かないものだ」
「なんの話だ?」
セツナの質問は、マルカールによって黙殺された。
「……そう想っていた矢先、あなたが現れた。セツナ=カミヤ。かつて小国家群を震撼させたガンディアの英雄。黒き矛の使い手であるあなたが」
「それで、俺に飛びついたってわけか」
「ええ。あなたは、どうやらわたしに従ってくれないようですが」
「ああ。無理だな。俺はここに留まっている場合じゃないんだ」
「それは残念だ」
マルカールが、表情や仕草で大袈裟なまでに無念がった。そして、ひとしきり残念さを主張したあと、冷ややかに告げてくるのだ。
「あなたを倒さなくてはならなくなった」
「なんでそうなる」
「黒き矛は、わたしの夢にとっての脅威となりうる」
「そうかい」
セツナは、口の端を歪めながら大きく飛び退いたが、つぎの瞬間、衝撃波が体を突き抜け、彼の体を強く吹き飛ばしている。メイルオブドーターの能力である蝶の翅を広げ、空中での態勢の立て直しを図ると同時に、なにが起きたのかを探る。前方下方、裏庭にはマルカールの姿はなかった。気配を察知して、視線を上げる。屋根の上、月明かりと篝火に照らされた市長の姿があった。その一事で、超人的な身体能力を有していることがわかる。
神人を討伐するだけの能力を持っているのだから、それくらいは予期していたことだ。そして、セツナを吹き飛ばした衝撃波も、マルカールの能力であるはずだ。
超人的な身体能力に超常能力。
それくらい有していなければ、召喚武装もなく神人のような怪物を撃破することはできない。だが、召喚武装も持たずして、そのような力を発揮する人間など、神の加護を受けた騎士以外には聞いたこともなかった。
(いったい……なんだ?)
セツナは、マルカールの影になった顔の中で、両目が光を発していることに気がついた。
金色の光。